「この世界の片隅に」レビュー~断絶と連続が紡ぐ世界~

 小規模公開から異例のロングヒットとなった「この世界の片隅に」。本作の序盤では、江波から潮の引いた遠浅の海を渡って草津の祖母を訪ねる場面が描かれる。江波と草津は海によって断絶しているようでもそれは絶対ではなく、時には歩いて渡れるほどに連続している。断絶と連続は実際のところ隣り合っていて、とても容易に入れ替わるものだ。幼いすずが夢とばかり思っていた出来事が、後になってみれば虚実の連続の定かでないものだったように。

 


 断絶と連続の入れ替わりはけして大仰なものではなく、本作では絶え間ないほど見ることができる。
 例えばすずは姪の晴美の兄の久夫のため、野菜の手入れに続けて船を写生するが、憲兵はそれを間諜行為と誤解し叱責する。この時両者の間では、写生の意味に断絶が生じている。また叱責されてその場の皆がしょげている、気分が連続していると思いきや、義姉の径子や義母のサンは笑うのを堪えていたという断絶があり、しかしすずはそこにサンの言う「皆が笑うて暮らせりゃええのにねえ」という言葉との連続を思い出す。そして更に、皆があまりに笑う様子にすずは自分だけは素直に笑えないと断絶を感じる。この一連のシーンだけでも断絶と連続は激しく入れ替わっており、ほとんど目まぐるしいほどだ。リアリティを高く評価される本作のドラマは、断絶と連続の入れ替わりを劇中にありふれたものとして配置している。

 断絶と連続の入れ替わりがありふれたものであるなら、誰であろうとそこから逃れることはできない。おっとりしているすずであっても新生活はハゲができるほどのストレスであった(悩みと連続していた)し、彼女が心のどこかで抱き続けていた水原への恋心は、再会した時には気持ちの上でもその実現性は断絶していた。
 楠公飯で増量しても欠食は変わらない。名前で呼ばれるのが馴れ馴れしく思えても、改姓した身では浦野とはもう呼ばれない。蟻に取られないよう安心と思えた砂糖の置き場所はむしろ水に溶ける危険な場所……この世界の全ては連続と断絶の中にある。そしてすずと晴美は、空襲の止んだ街と時限爆弾という断絶と連続の入れ替わりから逃れることはできなかった。

 人は断絶にも連続にも意味や甲斐、原因や理由といった必然性を求めようとする。そうでもしなければ、あんまりに激しいそれに自分を納得させることが難しい。しかし求めても得られるとは限らないし、得られようが得られまいが断絶や連続が起きた事実は変わらない。すずや径子が右腕や晴美を失うことになった日々の無意味性に絶望しようと明日は変わらずやってくるし、それがすずと広島の少女が巡り合う奇縁になる美しさはあっても、二人が大切なものを失った昨日はやり直せない。焼け跡になればこそその上に新たに生まれる暮らしもあり、同時に新しい暮らしの下には焼け跡と死がある。


 継承され、連続していくと思えたものが突然断絶する。かと思えば、無縁で断絶していると思えたものが連続していた。世界はひたすらその繰り返しで紡がれていて、だから私達視聴者は劇中の様子に隔世の断絶を感じることもあれば、現代に劇中と連続したような悲しみ苦しみを味わうこともある。奇跡のような美しさも、目を覆いたくなる理不尽も、どちらも。
 二次元と三次元、創作と現実、過去と現在、生と死、喜びと苦しみ。本作と私達はどうしようもなく断絶していて、一方でどうしようもなく連続している。「この世界の片隅に」はそういう、私達の現実と天秤上で釣り合うだけの重さを持ち、またそれによって私達の現実の重さを教えてくれる作品なのだ。


*こちらは2019/9/7に開かれたアニメ評論家の藤津亮太さんの講座「アニメレビューを書こう」に提出したレビューを原型とし、「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を視聴の上で若干の修正を加えたものです。