「ガンダム Gのレコンギスタ I 行け!コア・ファイター」レビュー~君の目でなければ確かめられない~

「ガンダム Gのレコンギスタ I 行け!コア・ファイター」
©創通・サンライズ

 TV放送からおよそ4年半を経て公開された「ガンダム Gのレコンギスタ I 行け!コア・ファイター」。序盤、軌道エレベーター内ではデレンセンがミノフスキー粒子の散布でレーダーが使えなくなることを講義する場面が描かれる。TV放送時は宇宙世紀から続く世界のリアルを語った場面としか考えなかったが、今回僕はそこに「繋がりのあやふやさ」とでもいったものを感じた。そもそもその前、冒頭からして繋がりがあやふやなのだ。キャピタル・タワー周辺に現れた謎のMS、G-セルフはどこの所属か分からずデレンセンは捕えることができない。乗っていた少女ラライヤも記憶喪失でまるで話を聞くことができない。ミノフスキー粒子が散布されていなくても、世界の繋がりはいつもあやふやな状態にある。

 

 無線が通じないのなら、有線通信や接触回線に頼る他ない。それは地球と宇宙の関係にしても同様で、汚染された地球に暮らす人々は軌道エレベーターで運搬されるフォトン・バッテリーによってその命脈を繋いでいる。軌道エレベーターは、地球と宇宙を繋ぐ有線通信として機能している。
 しかし、細い線を通して送れるものは限られるしその維持は容易くない。劇中でたびたび登場する固定電話ではベルリの母ウィルミットが息子もいなくなっていることを最後に知る様子が描かれたりしている。軌道エレベーターを破壊しないことはどの勢力も重々気をつけている。

 

 繋がりというのはあやふやで、そして困難なものだ。道理が分からなくても繋がっているものもあるし、またそれはふとした拍子に途切れてしまう。生活の礎となるフォトン・バッテリーがどのように作られているかはブラックボックス化しているし、タブーを遵守するキャピタル・ガードはそれに抵触するキャピタル・アーミィになし崩し的に組織と人員を侵食されていく。アメリアと宇宙海賊が実際のところイコールであってもアイーダもキャピタルも都合よく使い分ける。キャピタル・ガード候補生へのチアリーディングは食っていくための未来の亭主探しを兼ねているし、保守点検用モビルスーツのレクテンだってやろうと思えば戦闘行為に繋がれてしまう。
 主人公であるベルリもまた、そのあやふやさ困難さからは逃れられない。なぜかG-セルフを動かすことができ、キャピタル・ガードの精神に敬意を払っていてもアイーダへ恋すればそれは建前のようになる。彼女を守りたくて咄嗟に敵を撃てば、相手はその恋人でむしろ繋がりを奪ってしまう結果になった。


 繋がりは時に、それによって他の誰かとの繋がりを断つことすらある。それでも繋がろうというなら、繋げようというなら、自らの足で赴き自らの目で確かめねばならない。隔てられた運河やハンガーを跳躍して向こう側へ行くように。迷路のような塔内をぶつかりながらも目標を探すように。ベルリとアイーダが、互いに意見を交わして互いの知らないことを知るように。その1つの結実としてタイトルのコア・ファイターの合体場面がある。しかしそれは未だあやふやだから、アイーダはベルリをメガファウナへ「繋ぎ」止めるような言動の必要に迫られるし、それが愛したカーヒルを裏「切る」ようなものであることに涙せずにはいられない。そう言わなければならない彼女はその時、本当は誰とも繋がっていない。繋がりは事程左様にあやふやで、そして困難なものなのだ。


 これから先、2人に待ち受ける更なる繋がりとそのあやふやさ困難さは、今の僕にはどう映るのか。残り4部を楽しみに待ちたいと思います。ああ、それにしてもノレド・ナグさんは相変わらず元気でかわいい。