「ラブライブ!The School Idol Movie」レビュー~結び直す物語~

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©2013 プロジェクトラブライブ!

 

 卒業式という終わりまで描いておきながら、ラストのメール1つで続きへと結び直されたアニメ「ラブライブ!」2期。しかもあのラストがそのまま劇場版に繋がるわけではなく、接合部はわざわざ描き直して――「結び直して」いるわけだが、この「結び直し」は「ラブライブ!The School Idol Movie」の99分全てで見ることができる。


<1.無縁に思える他者との関係の「結び直し」>

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©2013 プロジェクトラブライブ!

 最初に描かれるのは外部との、他者との関係の「結び直し」である。本シリーズは2期にて穂乃果が外部との関係にこそμ’sの本質があると気付く一方、その外部や他者といったものは最初から、あるいは潜在的に同志となる身内的な他者が中心であった。しかし今回μ’sが訪れたニューヨークはそうではない。言葉すら通じず、一つ間違えば野垂れ死にしてもおかしくない場所。海未が過剰なほど怖がるように、μ’sにとっては全てがこれまでと比較にならない「外」であり「他者」だ。居場所がどこにもない場所、とも言える。
 けれど練習や観光の中で見えてくるのは、ここでもむしろ自分達との共通点であった。そこかしこにライブ会場として好適に思える場所があり、白米だって食べられ、何より、様々な人々が集まるこの場所は秋葉原によく似ていると凛は指摘する。ホームから遠く離れた地であっても居場所は見つけられる。「どこにでもある」ことをμ’sは海外で発見するのだ。

 


<2.ずっと続くと思っていた他者との関係の「結び直し」>

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©2013 プロジェクトラブライブ!

 外部や他者との関係を結び直す喜びに満ちて海外遠征は終わるが、「どこにでもある」ことは「どこにもない」ことと表裏一体である。海外でのライブがきっかけでμ’sは一躍有名人となっており、穂乃果達はもはや今まで通りに街を歩くことすらできない。海外から帰国したら母国が外国になっていたようなもので、ならば穂乃果達は再び外部との関係を「結び直さなければ」ならない。内々で活動の終わりを決めていたμ’sに寄せられたのは、無邪気な活動継続希望やラブライブドーム公演の成功のための継続要請であった。外部との関係にこそμ’sの本質があるのは先に述べた通りだが、それは時に外部に己を奪われてしまう危険も孕んでいるのだ。

 


<3.求められるこれまでのテーマとの「結び直し」>
 μ’sが陥った事態が厄介なのは、TVシリーズで描いてきたテーマを踏み外さない道が見えないからである。1期はラブライブ出場が叶わなくとも次の夢を目指して走り出す姿を描き、2期は余韻を破壊するメールによって、TVシリーズは「終わらないをもって終わる」ラストを描いてきた。しかし要請に応じて活動を継続すればただ「終わらない」だけだし、μ’sがただ活動を終えれば今度はスクールアイドルの未来が閉ざされて「終わる」だけになってしまう。ただ終わらないだけ、あるいは終わるだけでは穂乃果は2期ラストのように「やり遂げた」とは言えない。そうしない選択肢が見えないからこそ、穂乃果達は悩むのである。

 


<4.「終わる」と「終わらない」を結び直す方法>

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©2013 プロジェクトラブライブ!

 悩んだ結果、穂乃果達が導き出した答えは「活動は終了する」「しかしスクールアイドルそのものが終わらないよう、皆でその素晴らしさを伝えるライブをする」こと。つまりこれは分離してしまった「終わる」と「終わらない」の結び直しである。更に言えばμ’sの活動はついに終了するわけだから、これまでの「終わらないをもって終わる」とそれに対する「終わりをもって終わらない」の結び直しとも言えよう。

 また同時に、ここでは外部や他者との関係がもう一度結び直されている。一体感を強めてきたμ’sのメンバーは、口にせずとも同じ結論に至る、そういう他者との関係をグループ内に築いている。しかしどの他者ともそうでいられるわけではない。集まってくれた他のスクールアイドルに、穂乃果は活動終了をはっきり伝える。言葉にせずとも伝わるだけが他者との関係の理想ではなく、はっきり言葉にして伝えることもまた他者との関係の理想だ。その相反して見える関係すら、μ’sは結び直したのだった。

 秋葉原で穂乃果は歌う。μ’sは歌う。スクールアイドル達は歌う。これで活動を終えるμ’sも、芸能界で活動を続けるA-RISEも、これからスクールアイドルになる雪穂や亜里沙も、それぞれ異なる思い入れで活動している他のスクールアイドル達も、全てが歌う。過去になる者も、現在を続ける者も、未来で生まれる者も全てがここでは「結び直される」。メンバー間を結び直し、異なるファンを結び直してきたμ’sがついに時間すら結び直す姿とその結果をもって、99分は終わりを告げるのである。


<5.「違いを統べる者」の結び直し――「3年間」としてのμ’sと穂乃果の物語>

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©2013 プロジェクトラブライブ!


 余談として、高坂穂乃果の1期2期そして劇場版における役割の変遷に触れておきたい。アイドルとは、多様な差異を持つ人々をファンという共通性を持つ存在にまとめる「違いを統べる者」であり、当初は穂乃果こそがその力を持つ者として描かれていた。しかし11話の挫折からも見えるように彼女1人で全てを背負えるわけではなく、そんな風に不十分でも輝きそのものは否定されなかったのが1期の彼女であったと言える。
 穂乃果のそうした活躍は2期では抑制的だが、それは輝きが鈍ったというよりはμ’s全員に行き渡って輝きを増したという方が適切であろう。「全員がセンター」というのは伊達ではなく、9人それぞれが穂乃果に負けない輝きを放ち、だからこそμ’sはラブライブ優勝を果たせた。「違いを統べる者」の輝きは2期において、半ば人格すら認められるかのようになったμ’sそのものへと拡大している。

 

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 そしてこの劇場版、秋葉原で行われるライブは多種多様なスクールアイドルを1つにまとめている。μ’s、A-RISE、雪穂と亜里沙に留まらず、参加しているスクールアイドルの個性やありようは千差万別であろう。それを1つにまとめているのは「スクールアイドル」という概念だ。その概念の下では全ての差異が統べられ、全ての少女達が穂乃果の見せた輝きを持つ。

 最初は穂乃果だけが見せていた輝きは、シリーズを重ねる度に彼女固有ではなく遍く広がっていった。そして広がったなら、穂乃果がスクールアイドルをやめても、μ’sが活動を終了してもその輝きは消えることがない。それを受け取った後続のスクールアイドルが輝き続けることで、穂乃果の輝きもまた続いていく。

 見ようによっては、2013年から2015年の3年間で放送・上映されたアニメ「ラブライブ!」はそれぞれがμ’sの「1年生編」「2年生編」「3年生編」であったとも言える。人の卒業は学籍上の卒業とそのままシンクロするものばかりではない。本シリーズは3年をかけて、高坂穂乃果というμ’sのアイドルを「卒業させた」のである。



<おまけの垂れ流し>
 というわけで「ラブライブ!The School Idol Movie」のレビュー、そして全体への総括でした。総括と書いたように、この劇場版をもってアニメ「ラブライブ!」は完成したのだと思っています。正直に言えばこの作品と僕、あまり相性がいいわけではないのですよね。キャッキャウフフのシーンは僕には糖分過多だし、1期11話で触れた「痛々しさ」の不足、今回触れたTV2期の他者が身内的に過ぎる部分、またはμ’sと世界(展開)が直結している部分などはどうにも不満が大きくのめり込めなかったのです。

 

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 けれどこの劇場版では他者との関係が結び直されている。身内的な他者(ファン)ですら自分達とズレを起こすことはあるし、その時μ’sと世界は直結していない。ならどうすればいいんだろうと悩む姿には、痛々しさへの目線がちゃんと存在している。TV版だけでは僕はこの作品との距離感を埋めることはできなかったでしょう。劇場版はラブライブ!と僕の関係を「結び直して」くれました。スタッフの皆様、お疲れさまでした。そして本作や穂乃果達を愛し続けてきたファンの皆様、おかげで僕も本作に興味を抱き見ることができました。ありがとうございました。

 最後に、全く関係ないのですが2期5話のツイートを埋め込んでおきます。凛ちゃんのお父さんこれ見たら泣くわ絶対泣くわステージ衣装と知ってても泣くわ。