「デカダンス」9話レビュー~変わらぬ内外~

デカダンス 9話「turbocharger」

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©DECA-DENCE PROJECT

デカダンス」9話で破壊作戦の決行されるガドル工場周辺にはチップに反応する不可視のシールドが張られている。内外を分けるその境界線にナツメは気付かず、カブラギはおっかなびっくり越えるが、チップの無い彼らの体には内外の違いは意味がない。内と外は別のようだけれど変わらない、それがこの9話のルールだ。

 

 

己のありようの内外

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人は己の行動を内と外(公私などと言い換えても良い)で使い分けて生きているが、内側に込めたものは案外外に漏出しているし、外側で演じているものは案外内面に影響していて区別がつかない。例えばジルは前回から類まれなクラッキング能力を強調されているが、彼女はコンピュータだけでなくドナテロの精神もクラッキングしている。誰にも手がつけられない暴君の彼が震え上がるのは、腕っぷしでの勝負やスクラップへの脅しとは違った恐怖がその精神に入り込んでいるからだ。
また、ターキーの裏切りはカブラギ達だけではなく共に裏切ったサルコジにまで向いている。仲間を救うためと彼をそそのかしたにも関わらずそれ自体が嘘(裏切り)であったし、負傷して足手まといになればサルコジ自身すら平気で切り捨てる。ドナテロがゲームの内でも外でも大暴れするように、内と外の違いは案外と小さなものなのである。
 
 

私と他者という内外

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©DECA-DENCE PROJECT
先に述べたように、内と外は案外変わらない。だが内外の別とは自分の中だけにあるものだろうか。自分とまるで違う人間と認識している「他者」とは、見ようによっては「外」ではないか。
 
サルコジにとってカブラギとは「外」の存在であった。クソまみれの矯正施設でもくじけぬ意思を持ち、クソ酒を作るしか能のない自分よりずっと俊敏で勇敢で賢い。一方の自分は、死に瀕して見捨てられけなされてすら、何をしていいのか何をしたいのか分からない。カブラギのようにはとてもなれそうもない、自他ともに認めるくだらない人生。
しかし嘆く彼の姿はその実、カブラギに酷似している。漏れたオキソンによって近づく「活動限界」がカブラギの言葉を思い出させ、その言葉をサルコジにも実行させる。ナツメのようになれないカブラギのようにはなれなくとも、ナツメのようにカブラギのように「限界まであがく」ことはできる。クソ酒で動き燃えるクソを口に含もうがその行為に変わりはなく、つまり内と外の別はない。そして「楽しかった」と言えたなら、それは内外の誰からもその人生をくだらないと言われる筋合いはない。
 
 

諸共に壊れる内外

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しかし内と外が変わらないのなら、どちらか片方だけ終わらせるような都合のいいこともできない。ガドルを全て破壊してナツメが幸せになって終わり、ということはできない。ガドルの肉体的死が「外」なら、ナツメのガドル(およびこの世界)への認識の死は「内」にあり、それはセットで破壊されることになる。そしてデカダンスというゲームの外が壊れる時は、その内でだけ成立していたカブラギとナツメの関係もまた壊れざるを得ない。破壊の先にあるのは、一体なんだろうか。
 
 

感想

というわけでデカダンスの9話レビューでした。内外という区分けだけ浮かんでレビューが止まっていたのですが、サルコジとカブラギやナツメとの関係にも当てはめられると思いついてだいぶスッキリしました。そうなるまであの死に様にそれほど感情が動かなかったあたり、やっぱり僕はこの作品に向いていないんだと思いますが。残り3話、どんな結末になるんでしょうね。