デカダンス #10「brake system」
ガドル工場の破壊とナツメが世界の実相を知ることで虚構と現実の境が破壊された「デカダンス」。結果として10話冒頭、ナツメはショックのあまり気を失う。それは虚構と現実の区別をつけられなくなった彼女の「ログアウト」だ。リセットボタンを押すように意識を消せば全ては夢――虚構になってくれると願う、そういう行動だ。
ナツメを本当に傷つけたのは何か
目覚めたナツメはしかし、変わらぬカブラギの負傷に虚構と現実の境がもう戻らぬことを知る。カブラギの自分達についていた嘘(虚構)も、世界が作り物であるという現実も、ナツメにとっては心を折るものであることは変わらない。話せなかったこと話したことのどちらをもカブラギが後悔しているように、虚構か現実か自体はナツメが傷ついた本因ではない。
彼女が本当に傷ついたのは、何を信じればいいかが分からなくなったから――何が虚構で何が現実なのかが分からなくなってしまったからこそ、ナツメは酒盛りにも参加できず行き場を失ってしまうのである。
虚構と現実の区別なんてつかなくても
しかしそもそも、虚構と現実を見分られることはそれほど重要なのだろうか? ふさぎ込むナツメを励ますクレナイは、この世界が作り物であることもカブラギの正体も何も知らない。虚構と現実の区別がついていないのは実際のところ、彼女だって変わらないのだ。
けれどクレナイは言う。ナツメが無事で良かったと。ナツメが仲間で良かったと。その言葉にあるのはナツメが大切だという"真実"だけだ。一人の人間が見て聞いて感じたことはその人間だけのかけがえのない真実であり、そこでは虚構と現実の区別は意味を持たない。虚実の別という余計な悩みが剥がれ落ちたからこそナツメは空腹に戻り、食物と共に自分の中の真実を腹落ちさせることができる。
一番大切なものと、それが招く危険
そうして腹に落ちた真実は、カブラギと自分がこれまでしてきたことへの信頼だった。彼が嘘(虚構)をついてきたこともこの世界の現実もショックだけれど、そこには、そこにだけは嘘はない。だからナツメは再び、共に戦うことを申し出られるのだ。
しかし真実が虚構や現実と別にあるなら、それは一面とても危険なことでもある。例えゲームのためだろうとサイボーグがガドルという生命を作り弄び虐げてきたのは変わらない。例え苗床が別の生物のそれも偽物の体であろうと、そこから新たな生命が育ったことも変わらない。工場長の体を借腹に、ゲーム内の脅威でしかない存在から「ログアウト」したガドルは、その己の中の真実でもって世界の脅威となるだろう。
感想と追記、ナツメの「虚構的健全さ」について
というわけでデカダンスの10話レビューでした。今回まで来て、ようやく本作に感じていた困惑が少し解消されたように感じています。僕は本作の何が虚構で何が現実か、どこまでがアクセルでどこからがブレーキか解りかねていたのですが、どうもそのあたりの根本はナツメにあったように思うのです。
ナツメはカブラギを感化するある種の神聖な少女として描かれてきましたが、僕は彼女をずっと「絵に描いた良い子」(「ような」ではない)だと感じていました。初回のカブラギへの謎にお節介な絡み方も、戦いたいが仕事はちゃんとやるという行儀の良さも、眩しさを疎まれるほどの強さがカブラギ不在の強がりであることも、全部「健全過ぎて人間味を感じない」。欠点ではなく、危うさがない。美質あれどそれゆえに道を間違えそうな不確かさが全然感じられない彼女の姿を理想としているのなら、それこそ絵空事に過ぎないと不信感を抱いていたのです。
ですが今回見ていてなんとなく、彼女が「絵に描いた良い子」であることにスタッフは自覚的であるように感じました。彼女の精神的強さは「人並み外れた」なんてものではなく「非現実的な」――つまり「バグと見紛うような」レベルにある。現実を使ったゲームという虚構と現実の区別のつかない世界に生きる彼女の精神性そのものが何より「虚構的に設定されている」のではないか、と。7話レビューで書いたように彼女が嘘臭いからこそ、スタッフの描こうとしている「真実」にたどりつけるのかもしれない。そう感じたのです。
であるならば僕も、彼女を好きにはなれなくとも「納得」することはできるかもしれません。困惑しながら続けてきた視聴ですが、ようやく僕にも光明が見えてきたのか……?