人生と書いてラクガキと読む――「クレヨンしんちゃん 激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者」レビュー&感想

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(c)臼井儀人双葉社・シンエイ・テレビ朝日ADK 2020

エネルギー源である自由なラクガキの不足に悩む王国、ラクガキンダムの春日部侵略を巡る騒動が描かれる「クレヨンしんちゃん 激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者」。ラクガキンダムの防衛大臣は愚かにも子供達にラクガキを強制させ、ラクガキのラクガキたる所以を失わせてしまうわけだが――それはけして彼だけの愚行ではない。本作のキーアイテム、ミラクルクレヨンもまたラクガキのラクガキたる所以を失わせる力を持っている。

 

 

 

特別なクレヨンは呪いのクレヨン

王族以外ではしんのすけだけが使えるミラクルクレヨンは、描いたラクガキが動き出す魔法のアイテムだ。仲間・武器・囚われた人々の救出……しんのすけラクガキはみな実体となり、数々の奇跡を巻き起こす。その奇跡ゆえに人々はしんのすけを勇者と崇め称えるわけだが、見方を変えれば彼らが見ているのは奇跡だけだ。ミラクルクレヨンで描くものだけが彼らにとって「ラクガキ」であり、そこには本来のラクガキの自由さは既に無い。
そしてしんのすけの描くラクガキ自体は他の誰とも大差ないのに、人々は彼の描くラクガキでなければ無価値だと思い込んでいる。ミラクルクレヨンだって精密さや量といった制限を抱えているのに、みな勝手に勇者(才ある者)を特別視し勝手に自分の価値を貶めているのだ。
 
 

特別なものがなくたって

しかし、特別に思えてそうでないものなど世界にあふれている。ラクガキをする場所はその最たる例で、スケッチブックを失くしたなら壁や地面に描けばいい。クレヨンがなければラインパウダーを使ったっていい。ラクガキする場所だって物だって、本当はほとんどどこにも――ほとんど誰にも余地はあって、絶望するほど特別なものではない。
 
ラクガキは特別な人間にしかできないものか? 違う。
ラクガキは道具がなければできないものか? 違う。
ラクガキは指定された場所にしかできないものか? 違う。
 
ラクガキは誰にでもどこにでも許された、解放された"自由"なものであるはずだ。そしてそのように捉えた時、ミラクルクレヨンを使っていないどころか当人が描いた自覚のないものですら本作では「ラクガキ」として動き出す。
 
 

人生とはラクガキである

序盤、ラクガキングダムの襲撃を受けた春日部は大混乱に陥り、しんのすけは紙飛行機となって辛くも難を逃れるも富士山の近くまで飛ばされてしまった。そこから春日部に戻るまでの道程が仲間達との楽しい時間でもあったわけだが、振り返ったならそれは地図上の「ラクガキ」となることだろう。人の足は人生のクレヨンであり、ぐねぐねと曲がりくねった下手っぴなものでも確かにその足跡は残されている。生きることは自分や他者の心の中に自分の人生をラクガキすることなのだ。
 
ただし、しんのすけが最終的には春日部に戻ったように、本作ではラクガキに一つだけ条件が課せられている。ブリーフの遺言だが、それはちゃんと「描き終える」ことだ。
 
 

自分の人生を描き終えるために

例えば仲間の一人であるニセななこは、「しんのすけが好き」であることを命題にミラクルクレヨンによって命を吹き込まれた存在だ。ならば彼女にとっての人生の足跡、つまりラクガキも「しんのすけが好き」を貫くこと――描き終えることにこそある。それを躊躇ってしまったら、彼女はどんなに利口に生きたとしても自分のラクガキを描き終えることはできない。
だからニセななこは最終的に、ラクガキである自分は濡れれば死ぬのを承知で雨の中しんのすけへを助けようと駆け出す。自分が死んでも、自分の人生を死なせないために駆け出すのだ。
 
 

「その他大勢」は特別ではないが、無力でもない

そうして見た時、ユウマの説得で人々が「ラクガキを描きに」戻る場面は示唆的だ。彼らは勇者しんのすけだけがこの事態に関われて、自分達には何もできない関係ないと決め込んできた。けれどそもそもラクガキングダムが侵略果ては落下の危機に陥ったのは人々がラクガキをしなくなったからで、今からでもラクガキをすれば浮上させることができる。自分達が大きな影響を及ぼしてきたし今も力を持っているのに、それに目をつむっているのだ。
だからユウマはその目をこじ開ける。自分達は無力だ無関係だというけど、しんのすけに助けてもらったじゃないか。あなたの心にラクガキしてくれたしんのすけを見捨てて逃げ出したら、あなたは自分の人生のラクガキを描き終えられないのじゃないかと。
 
ブリーフは、描き終えなければラクガキがかわいそうじゃないですかと言った。どんなに下手くそでも、それはあなたのラクガキ――人生だ。だったらそれは、そんな簡単に諦めていいものではない。小利口に自分を諦めていては、ラクガキを描き終えることはできない。
 
 

だからあなたも、勇者になれる

ユウマの叱咤に、人々は動き出す。ただの幼稚園児であるしんのすけが巨大なぶりぶりざえもんの地上絵を描こうとするように、誰でもラクガキは描くことができる。特別な才能(ミラクルクレヨン)がなければできないことなんて、世界を動かすような巨大なものを描く時に最後のひとつなぎをする程度のものに過ぎない。1人1人はラクガキのように無力に等しいけれど、上から見た時それは確かに世界を動かす力を――勇者の力を持っている。
 
勇者の資格は特別な才能にはなく、ただ自分の人生を、ラクガキを描き終えようとする意思にこそあるのだ。だからしんのすけ、ブリーフ、ニセななこ、ぶりぶりざえもん、ユウマの不揃いな5人は誰もが勇者としてこの物語に、いや他の4人に記憶される。心の中に保存されたそれは、ラクガキがラクガキングダムを支えるように互いの心を支えていくだろう。
 
 

感想

というわけで「クレヨンしんちゃん 激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者」のレビューでした。ぽんずさんの感想記事が面白かったので、初めて劇場でクレしんの映画を見てみた次第です。
 
 
というかクレしん自体「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」くらいしか見たことがなかったのですよね。あちらは時代劇以上の描写の緻密さが評判ですが、こちらはむしろ超現実的で起きることはいつも想像を軽く超えていて。映画という形でそれこそラクガキを見ているような自由さがありました。「その他大勢」に過ぎないがゆえに社会に対して諦観し、無力さを冷笑して追認するだけの行為への戒めとしての力も持っていたように思います。
 
来年も見るかどうかは分かりませんが、新しい経験ができました。面白かったです。