「エヴァ」の終わりが近づいている。1995年に放送されアニメ史に名を残した「新世紀エヴァンゲリオン」のリビルド(再構築)として2007年に公開の始まった4部作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」。その完結作となる「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」は、前作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」から8年を経てようやく近日公開が予定される運びとなった。
30分アニメを1本見るだけでも消耗する私には3本の映画はバーベルのように重く見えたが、8年の空白を放置したまま新作に臨むのはさすがに無謀だ。近づく公開の前に、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」に対する私の認識もリビルドしておこうと思う。
1.自己の不在とそれ故の他者との重なりを描いた「序」
始まりからヤシマ作戦までを描いた「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」では、旧シリーズからの変更点はそう目立たない。リビルドを謳いながら小規模の変更に留まる作りはどこか息苦しさを感じるほど――本作の意思の所在に迷うほどだ。しかし意思の所在に迷う姿はそもそも、本作の主人公である碇シンジのものではなかったか。
シンジの処世術は言われたことへの従属であり、また実際従わないことを状況も許さない。彼だってそれは嫌なのだけれど、他の道をどうやっても見つけられないのだ。第5の使徒との戦いでの勝手を咎められたシンジがさまようのはそういう「他人に侵されぬ自分」を探し求めているからだが、進む道は結局崩れて進めないし彼は自分がずっと監視されていることに気付いている。最終的に「いいですよもう、ミサトさんのところに連れてってください」と吐き捨てるのは、そんな自由な自分がどこにもいないことへの絶望なのである。
けれど他者から自由でない自分は同時に、他者と重なり代替できる自分でもある。シンジを一方的に殴りつけてきたトウジは謝罪に自分もまた殴るように求め、ミサトはシンジだけでなく自分達も決死の覚悟で戦っている(最終手段として施設の自爆を厭わない)ことを告げる。そして何より、自分と同じくエヴァに乗り自分以上に自己を表さない少女・綾波レイにシンジは自分を重ねる。
シンジには他者に侵されぬ自分の意志などはない。その行動は旧作の焼き直しでしかなく、そうしたメタ的な視点を差し引いてすら、彼の行動は全て大人の計画通りであり、第6の使徒を倒した後のレイの救出すらかつて父ゲンドウが行ったものの焼き直しでしかない。しかしそこには確かに「碇シンジ」がいる。誰かに重ねられる行為の中にしかし、だからこそ確かに自分の意志がある。
レイに「笑えばいいと思うよ」と言ってあげられたその時、シンジはまた自分にも同じ言葉をかけることができたのだ。
2.暴走する重なりに対して自己を叫んだ「破」
他者と重なり代替できることに自分を見出したのが「序」なら、それに反旗を翻したのが続く2009年の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」だ。本作ではレイと並ぶもう1人のヒロイン・アスカが登場するが、この新劇場版における彼女は旧シリーズとは大きく異なっている。憧れだった加持リョウジへの恋心や母親に関するトラウマもなく、社交性がないわけではないが1人でいることを好む。苗字が旧シリーズの惣流から式波に変更されているのは、よく似た自分との重なりを拒絶する意思表示なのだ。
だがそういう態度は本質的には、他者に侵されぬ自分を求めた「序」のシンジと変わらない。自分の唯一性を誇示すればするほどそれはシンジと重なるものになってしまうから、彼女もかつてシンジが歩んだのと同じような道を歩むことになる。協力しなければ倒せなかった爆弾型の第8の使徒との戦いを経て彼女は自分が特別(唯一)でないと知り、替えの効く自分としてシンジとレイのために参号機の起動実験に志願すらする(メタ的には旧シリーズのトウジの代替でもある)わけだが――しかし代替性とは、重なりとはけして万能ではない。いや、全てが代替されたり重なってはいけないものだ。
例えばレイとアスカはそれぞれシンジに恋心を懐くが、一般的にその恋はどちらか片方しか選ばれない。互換するようなことはない。また前作でシンジは決死の覚悟で戦わなければならないのは他の皆も同じと教えてもらったが、それは他の皆がエヴァに乗って戦えることまでは意味しない。重なれど互換すれど、どうしても不可侵の領域は確かに存在する。「破」の後半で起きるのはそういう、不可侵であるべきはずの領域の崩壊なのである。
シンジの乗った初号機を強制操作し参号機を破壊させるダミーシステムは、シンジの自己と他者の領域の侵犯。
全ては自他の重なりと互換性の暴走であり、だからそれに打ち勝つには改めて不可侵の自己を主張する必要がある。アスカに代わって2号機に乗り込んだ劇場版オリジナルの新キャラクター、真希波・マリ・イラストリアスが旧シリーズのアスカと同じ負け方をしながらもそれとは違う意地を見せるように、「破」は旧シリーズとは違う展開を――不可侵の自己を主張する。
「僕はエヴァンゲリオン初号機のパイロット、碇シンジです!」の台詞も、エネルギー切れ後のエヴァが覚醒するのも同じでも、シンジが戦う理由は旧シリーズとは違う。自分も世界がどうなってもいい、レイだけは助けたい……それは他の誰も思いようのない、誰に侵犯されることもない願い。「誰かのためじゃない、あなた自身の願い」だ。
かくてシンジの打ち立てた不可侵の自己によって旧シリーズをなぞる物語は「破」壊され、全ては変化した――かのように見えた。しかし世界は、そんなに都合よく変わってくれるものなのだろうか? シンジの奮闘はしかし、使徒がリリスに接触して起きるはずのサードインパクトを代替しかけもしたのだ。
3.相反する序・破をまとめて「ままならぬもの」とした「Q」
続く第3作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」は「破」から3年後の2012年に公開された。目を引くのは本作が序破急の急ではなく、アルファベットのQを冠していることだろう。文字からすれば変わっているし、発音からすれば変わっていないとも言える。この変化と変われていないものの折衷こそは実は、本作の性質をよく表している。
意識を取り戻したシンジは、ミサト達の冷たい視線とエヴァに乗らなくていいという指示に困惑する。何の説明もされずにそんな対応をされれば混乱するのは当然だが、彼がそういう状況に置かれるのは初めてではない。そう、初めてエヴァに乗った時だって彼は事情も説明されず、再会した相手に冷たく指示を受けたのだ。エヴァ搭乗についての指示は逆になっていても――変わっていても、彼の置かれた状況は実はあまり変わっていない。
「破」で旧シリーズをなぞる物語を変えたシンジの行為は、確かに世界を以前と変えている。14年の月日はトウジの妹サクラをシンジより年長に変えているし、ミサト達の所属は今やNERVではなくそれに敵対する組織ヴィレだ。彼女が艦長を務める巨大戦艦ヴンダーの迫力の発艦シーンを見れば、私達は嫌でもエヴァが新たなステージへ進んだことを認識せざるを得ない。
しかし一方で、世界はその様相に比してあまり変わっていない。エヴァの呪縛によってアスカとマリの肉体は成長を止めているし、再会したゲンドウは月日の流れなど無かったようにまた冷たくエヴァへの搭乗をシンジに命じる。
そして彼は知る。自分は本当はレイを救えていなかったことを。自分のその行動が引き金であまりにも多くの人が死んだことを。不可侵の自分の願いによって世界を変えたはずだったシンジはその実、変えたいものを変えられず変えるつもりのなかったものを変えてしまっていたのだ。
「世界を崩すことは造作もない。だが作り直すとなるとそうもいかん」
冬月が言うように、変化――破壊と再生はそう容易く、都合よくいくものではない。この言葉は旧シリーズからリビルドする行為を指してもいようが、人が何かを変える時は狙った効果が出るとは限らず、一方で思わぬ不具合ばかりが出るものだ。
運命を仕組まれた子供達は、そうしてこの「Q」でも変化と変えられないものの狭間で翻弄されることになる。エヴァに乗ることは変わらぬ良いことだと信じたいシンジはサードインパクト同様にフォースインパクトを起こしかけ、カオルは結局は旧シリーズ同様罠にかけられ死ぬ。「アヤナミレイ(仮称)」はオリジナル以上に人形のようでありながら、結局は自我の萌芽を見せる。そしてアスカは参号機の時と同様に、シンジに助けてはもらえない。
こうして「Q」は、絶望的にも思える「変われない」と「変わってしまう」を繰り返す。しかしそこに、やはり変化はある。旧シリーズから脱却したようでその線の上を外れきっていなかった物語はしかし、カオルの死を経てなおかつてと同じ状況ではない。
同時に、あまりにも変化に満ちた中に不変もある。シンジに不条理なほど冷たく接し、首輪に爆弾まで付けるほど変わったミサトは結局、その爆弾のスイッチを押せない。
4.感想
というわけでヱヴァンゲリヲン新劇場版3作の振り返りレビューでした。6月公開が発表された時は正直見返す気力が起きなかったのですが、どうにかこうして自分の中でリビルドできて良かった……「破」でぽか波にキュンキュンしたりシンジの奮闘に興奮したり、「Q」で困惑したのも懐かしい。振り返ってみればずいぶん振り回された(手のひらの上で踊らされた)もので。
旧シリーズを見て当時自分が何を考えたか、今の僕はほとんど覚えていません。けれどそれは見えなくとも残っているのだろうし、これからもどこか影響していくことでしょう。そしてリビルドされたシンジ達の物語もきっとまた、僕の心に爪痕を残す。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」、公開をお待ちしてます。
「Serial experiments lain」の岩倉玲音と並んで、綾波レイはやっぱり僕の中の究極の美少女なのだなあ……