2021年に「機動戦士ガンダム」劇場版三部作を見た(後編)

2021/1/16に開かれる藤津亮太さんの講座「アニメを読む」に合わせて「機動戦士ガンダム」の劇場版を見ました。なのでこれを『「人間的」と「非人間的」を繋ぐ物語』としてレビューを書いてみたいと思います。後編は第二部「哀・戦士編」、第三部「めぐりあい宇宙編」をまとめて。
 
↓前編はこちら
 
 

1.視聴経験や環境

TVシリーズ:未視聴
過去に劇場版を見た経験:一度か二度
今回見たもの:あまり評判の良くない特別版(福山潤青山穣の声が聞こえてくると不思議な気分になるぞ!)
 
 

2.ニュータイプという仮説の意味

劇場版二作目「機動戦士ガンダムII 哀・戦士編」でも、人間的であることと非人間的であることへの苦悩は続く。奥深いのは、苦悩するのがホワイトベース隊だけに留まらないことだ。
 
例えば豪放磊落にして温情を策にする強かさを併せ持ちながら、旧交あるセイラ(アルテイシア)との再会によって戦いの中で戦いを忘れたランバ・ラル
例えば戦争という破壊の場で唯一ものを作れる補給部隊を指揮し、人間的であろうとしたマチルダ
例えば弟妹を養うために人を裏切るジオンのスパイになりながら、ホワイトベースの幼子を見捨てられずカイに協力したミハル。
 
他にもハモン、ウッディ、そして負傷した体でもできることとして特攻をかけたリュウ……多くの人が自分の中の人間的な部分と非人間的な部分を繋げようともがいては死んでいく。特に象徴的なのはミハルで、彼女は電気回路の破損で断たれた操縦席(人間的な部分)とミサイル発射装置(非人間的な部分)を繋ごうとして、発射の爆風で吹き飛ばされてしまう――つまり己を引きちぎられてしまう。
戦闘でコロニー外に吐き出されたアムロの父テムが酸素欠乏症己で見る影もなくなってしまったように、己を引きちぎられることなく人間的なものと非人間的なものを繋ぐことはとても難しい。ミハル達の死は、その困難さを証明していると言える。
 
数多の悲劇を経験しながら、それでもなおアムロホワイトベース隊は生き延びていく。つまり人間的な部分と非人間的な部分を繋ぐことにどうにか成功していく。それを為せる理由に仮説が提示されるのがこの哀・戦士編だ。前作でもマチルダが口にしてはいた「ニュータイプ」……ジオン共和国の祖ジオン・ズム・ダイクンが提唱した、宇宙に適応し新たな能力を開花させた人間。ホワイトベース隊の人間が「ニュータイプ」だから生き延びられたのではという地球連邦軍上層部の仮説はすなわち、ただの人間(素人)と非人間的な戦果を繋ぐ仮説なのである。
 
確かに、ニュータイプの筆頭と目されるアムロの成長は著しい。一個師団に当たるとすら評価される黒い三連星を一度の戦いで撃破し、かつては翻弄されたシャア相手にもジャブローではプレッシャーをかける場面があるほどだ。
しかしこの仮説には一つ問題がある。推論の誤りというより、矮小化という問題だ。これまでアムロ達が苦悩してきた人間的なものと非人間的なものの繋がりは、けして戦う力に限ったものだけではなかったはずだ。そんなことだけで済むのなら、アムロは戦死したリュウ達に贈られるのが階級章のみで感謝の言葉も無いことに憤ったりはしない。危険を承知で戦災孤児のカツ、レツ、キッカ達をホワイトベースに乗せ続けたりしない。
彼らがもがき続けた繋がりは、もっと別のところにあるのだ。
 
 

3.彼らが生き延びられた理由

1.混迷を深める歪み
劇場版二作目は人間的なものと非人間的なものの繋がりに対して仮説を提示しつつそこにひずみも覗かせていたが、三作目「機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編」ではそれは大きな歪み(ゆがみ)に至る。もっとも端的なのはジオン軍ニュータイプララァ・スンを巡る悲劇だ。
 
ララァはもともと正規の軍人だったわけではない。元々は民間人で、ニュータイプとしての高い素養を注目された存在……つまり彼女の根源は、敵対するアムロと全く同じものだ。そしてニュータイプにしか扱えないビットを装備するエルメスを操縦する点で、彼女の立場はニュータイプの軍事利用としてより先鋭的でもある。先の段で触れたようにその力は、その繋がりはけして殺し合いだけのためのものではないのに、矮小化され歪められているのだ。
 
アムロララァが共鳴したのはニュータイプだから、ではない。その力は手紙や電話と同じ手段に過ぎない。互いが同じ「人間」であると知ったことこそが2人の真の共鳴であり、だからアムロは戦いの中、誤って彼女を殺してしまったことに涙する。自分と同じ人間を殺した、その歪みに涙する。
 
戦局が混迷するにつれ、歪みはいっそう甚だしく凄まじいものになっていく。ジオンの新鋭機ゲルググが高性能でもパイロットが学徒で脅威とならないといった細かな部分もそうだが、その頂点にあるのはザビ家の内紛であろう。
ギレンは敵を撃つためのソーラ・レイを邪魔になった父デギン暗殺も兼ねて使用し、そのギレンも妹キシリアに撃たれ命を落とす。目の前で起きたその残虐を兵士は「名誉の戦死」と置き換え、指揮を奪ったキシリアは形勢危うしと見れば味方も謀って脱出しようとしてシャアに討たれる。物事がそのまま進むようなことはここでは一切起きていない。歪みに歪みきっている。
 
劇場版一作目で触れたように、人間的なものを非人間的に利用する彼らは歪みを利用し蔓延させてきた。ジオン・ズム・ダイクンを暗殺して国を乗っ取り、その思想を自分に都合よく書き換えたツケは、結局彼ら自身にも歪みとなって帰ってきたのだ。
 
2.人を救う歪み
歪みが爆発するのはザビ家においてだが、アムロやシャアとてけしてそれと無縁なわけではない。例えばアムロはソーラ・レイでズタズタになった連邦軍の作戦を不安がる皆に、ニュータイプの直感では大丈夫だからと嘘をついて勇気づける。シャアはララァの仇を取るため完成度80%のジオングで出撃するが、技術者は現状でも100%の性能を出せる、あなたなら上手くやれると伝え実際ジオングガンダムを戦闘不能に追い込んでいる。
どちらも歪みだ。そしてどちらも実際以上の効果を上げている――つまり人間の能力を超えた非人間的な効果を発揮している。仮説として挙げられたニュータイプの力とは関係なく、人間的なものと非人間的なものを繋いでいるのだ。アムロ達を苦しめてきた歪みはしかし、彼らを救う力ともなる可能性を秘めていた。
 
なぜ、これらの歪みはザビ家に対しての時のように牙を剥かなかったのか? 理由は一つではないだろうが、アムロや技術者のついた嘘がザビ家のそれと明確に違うのは、誰かを利用してやろうといった悪意を持っていなかったことだ。
純粋に相手(技術者の場合は「ジオング」に対してでもあるが)のことを思ってつかれたものなら、嘘と知っても必ずしも悪い気ばかりはしない。それは、アニメが虚構だと知っていてなお私達が心動かされるのと同じことだろう。
 
3.本当に大切だったのは
さんざん持ち上げられ軍事利用されたニュータイプの力などは、実際は大したものではない。マチルダを救えたはずなどとアムロが謝るのをウッディは傲慢だと否定したし、アムロララァは分かり合えても戦いから逃れられなかった。その力はモビルスーツの操縦に影響しても体を使った戦いには影響しないし、シャアはニュータイプだからといってアムロと相容れたりはしなかった。セイラが言うように、人がそんなに便利になれるわけはない。人間や科学が進化したとしても、能力が増えたり向上することそれ自体は幸せを約束しない。
 
ニュータイプとしての優秀さで人を殺し続けた アムロはしかし、最後にそれをホワイトベースの仲間達を救うためにこそ使った。そんな彼自身もまた皆に思われ、カツ・レツ、キッカ達によって脱出することができた。(後年の作品でまた戻ってしまうが)殺し合いの日々から脱出することができた。
本当に必要なのはニュータイプの力そのものではなく、人間を人間として愛する気持ち、互いに相手を思い合う気持ちなのだ。その気持ちこそは時に「人間的なもの」と「非人間的なもの」を繋げてくれる。人間に人間を超えた力を、奇跡のような力を与えてくれる。
 
ガンダムホワイトベースも失ったアムロ達にしかし、最後に残された互いへの思い。戦いの中で育まれたそれこそは、彼らが全滅することなく生き延びられた本当の、最大の理由だったのである。
 
 

感想

というわけで劇場版 機動戦士ガンダム三部作の考察・レビューでした。余力がないから雑感レベルのものを書くはずが前後編で分ける分量に。全部で400分以上の作品を見るのはさすがに骨が折れますね。三部作だけど90分映画で換算したら4本半!
僕はファースト世代ではないので設定やらストーリーやらは「そういうもの」としてただ受け入れていた部分があったのですが、今回の視聴を通して自分なりにそれをほどくことができたように思います。1話のアムロがどれだけとんでもないことをやったのかや、ララァに対する印象などずいぶん変わりました。
 
劇場版一作目の公開が1981年。2021年で40周年を迎える映画です。男女観などで古さを感じる部分はあるかもしれません。けれど本作の持つメッセージ性はけして色褪せていない。むしろ他者への嘲りが増える一方の今だからこそ、この作品を見る意味はあったと感じました。素晴らしかったです。