「そっくりさん」の私達へ――「シン・エヴァンゲリオン劇場版」レビュー&感想

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©カラー ©カラー/Project Eva. ©カラー/EVA製作委員会
およそ8年ぶりの続編「シン・エヴァンゲリオン劇場版」によって完結した「新世紀エヴァンゲリオン」。25年に渡る青春の終わり、社会的影響、ビッグタイトルとしての切り口は色々あるだろう。しかしここではあくまで一作品として語りたい。テーマは「唯一性と代替性」だ。
 
 
 

1.唯一性と代替性に引き裂かれるアヤナミレイ(仮称)

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©カラー/Project Eva. ©カラー/EVA製作委員会 ©カラー
唯一性と代替性。相反するこの二つを考えるに当たって、本作は格好の人物に序盤のスポットを当てている。「アヤナミレイ(仮称)(*以下レイ(仮))」だ。
 
レイ(仮)は綾波レイのクローンであり、旧TVシリーズにおける3人目の綾波レイに相当する。すなわちその存在は、劇中目線でもメタ目線でも「代替性」の存在だと言える。
そんな彼女はQでの登場当初こそ感情を見せなかったが、本作では第3村での生活で自我を獲得していく。ありがとうやさよならといった言葉、小母さん達との農業、笑顔……1人の人間になっていく彼女の姿は微笑ましく、愛らしい。しかしそんな彼女の姿に「破」で綾波レイが見せた「ポカポカ」ぶりを思い出してしまった人は多いはずだ。
 
レイ(仮)は自我という唯一性を獲得しているのに、そこではむしろ綾波レイとの代替性が強まっている。プラグスーツを脱いだ彼女が綾波レイと同じ制服を着る場面からも、その代替性は視覚的に感じることができる。
 
こうした唯一性の代替性への変化は加速度的に進行し、レイ(仮)を侵食していく。いわくクローンが作られるのはレイだけでなくアスカも同様であり、人間的な感情はリミッターとして設計されていることをアスカは明かす。シンジへの好意も、綾波タイプは皆彼に好意を寄せるようプログラムされているに過ぎないことをレイ(仮)は知る。
 
全ては代替性の産物であり、かくてレイ(仮)はそのプラグスーツを綾波レイ同様に真っ白に染めて死ぬ。そしてその死は、ゲンドウがシンジに自分と同じ体験(代替的体験)をさせたものであることも冬月からは指摘される。唯一性と代替性の"カオス"を示して、レイ(仮)は舞台から退場するのである。
 
 

2.これまでのヱヴァンゲリヲン新劇場版

先の段ではレイ(仮)を題材に唯一性と代替性について書いたが、こうした問題は実はこれまでの新劇場版がずっと描いてきたものでもある。
 
 
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」鑑賞前に行ったこのレビューでも、唯一性と代替性は大きな要素となっていた。
 
自分だけの意思などなく、その代替性を認めることで自分と他者を救った「序」(「笑えばいいと思うよ」)
全てが代替できるわけではなく、唯一のものがあることを叫んだ「破」(「誰かのためじゃない、あなた自身の願いのために」)
 
そして「Q」について上記のレビューでは、舞台の大きな変化と一方で3人目のレイやカヲルの結末などが変わらぬ「ままならぬ変化の物語」としたが、本稿を書く上ではここは少し書き加える必要がある。「変わる」とは時に「代わる」でもあり、つまり代替性と唯一性を巡る話として読み直せるのである。
 
エヴァがリビルドされると聞いて新展開を期待した人は多かったが、そこで望まれた変化とはおそらく「破」のようなもので、「Q」のようなものではなかったろう。14年後の崩壊した世界を舞台とした「Q」は間違いなく唯一性を獲得した。
しかし同時に、そこにあったのは「破」の興奮がそのままヒロイックに展開されるような物語ではなく、シンジが報われることなく廃人同然の状態にすらなってしまう陰惨なものであった。多くの人は打ちのめされると同時に納得もしたはずだ。「やっぱりエヴァだ」と。そこにあったのは間違いなく、TVシリーズや旧劇場版の結末で多くの人が味わった気分と同じもの、これまでのエヴァとの代替性の高い展開だった。またシンジ自身にとっても「Q」の状況は、世界やレイといった代えたくなかったものが代わってしまい、逆に絶望的な状況の方は代わらないのだから打ちひしがれもする*1
 
これまでにない唯一性を獲得しながら、これまでのエヴァとの代替性の極めて強い作品。それが「Q」だった。かつて僕は「ままならぬ変化の物語」と読んだが、こうして見るならばその皮の下には「ままならぬ唯一性と代替性の物語」という性質が隠れていたのだ。
 
 

3.シンジが、本作が対峙すべきは

唯一性と代替性が逆の関係にあり、手に入れたものと逆方向にばかり人も世も進むカオス。それがヱヴァンゲリヲン新劇場版の理であり、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」最終決戦で見られるのはその応酬だ。
 
例えばAAAヴンダーは本作では同型艦が3隻も登場し代替性を獲得してしまうが、それは未成艦であることや主機が初号機であるといった唯一性を高めもする。
例えばアスカは裏コード999で第13号機に停止信号プラグを打ち込める唯一性を獲得しようとしたが、それは使徒との代替性の獲得によってなされる。
例えばミサトは加持の子を生み母としての唯一性を獲得したが、息子と合わないそのありようは立場もあってゲンドウとの代替性にも繋がっている。
 
カオスのぶつけ合いは物語の抱える矛盾の解決とはならないから、AAAヴンダーはコントロールを乗っ取られ敗北する結果になる。そしてその極みと言えるのが、事態の収集のため初号機に乗ろうとするシンジを巡るやりとりだろう。
かつてニアサードインパクトを引き起こし多くの人の命を奪ったシンジの再搭乗は当然、そう簡単に周囲の納得を得られない。しかし本作が特徴的なのは、彼を止めようと銃を持ち出すのが対照的なミドリとサクラの二人である点だ。
 

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©カラー/Project Eva. ©カラー/EVA製作委員会 ©カラー 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」より

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©カラー/Project Eva. ©カラー/EVA製作委員会 ©カラー 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」より


かたや家族を奪われた憎しみと不信をシンジに抱き続けてきたミドリ。
かたや家族を奪われながらもシンジを献身的に支えようとし、帰還時には女房かとツッコまれるほど親身だったサクラ。
 
憎悪と親愛。同じような過去を持ちながらシンジに全く逆方向の感情を抱いている二人は、彼を止めるために同じように銃を向ける。唯一性の結果、二人は代替可能になってしまう。シンジが解決しなければならないのは何より、このカオスの悲劇性なのである。
 
 

4.「そっくりさん」の示すもの

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©カラー ©カラー/Project Eva. ©カラー/EVA製作委員会
人はたった一つのものであろうとすればありふれ、同調してありふれようとすればむしろ孤立してしまう。例えばオリジナリティを求めて平凡になってしまうのも、「普通の人間」になろうとしてかえって浮いてしまうのも根源的には同じ過ちに過ぎない。
この逆転する矛盾、カオスを解決するにはいかにすべきか。求められるのは対立するカオスを叩き潰す暴力……ではない。第13号機を駆るゲンドウもそれは否定している。必要なのは、逆転性の受容だった。
 
シンジは、TVシリーズの終盤も彷彿とさせるようなやりとりでエヴァに関わる人々を救っていく。ゲンドウもアスカもレイも、カヲルでさえもその中では苦悩する平凡な人間としての姿があらわになっていく。つまり代替性を獲得していくわけだが、そこには彼らが一個人として、唯一性を持つ存在として認められる喜びが伴ってもいる。いや、アスカを救うのがシンジではなくケンスケの「アスカはアスカだ、それでいい」であるように、唯一性の承認が彼らに代替性ある平凡な人間になることを(スーパーマンを強いられないことを)許しているとも言えるだろう。この時カオスは、断ち切られるのではなく祝福の円環へとその性質を変えている。カヲルが言うところの「相補性」がそこに生まれている。
 
振り返ってみよう。
ゲンドウと近い立場に立っていたミサトの死に様は、シンジへの支援をどこか息子へのそれに重ねているようでもあった。
トウジは自分を本物の(唯一性のある)医者とは思っていなかったが、その姿勢こそ何より医者にふさわしいものだった。
ユイの唯一性ゆえその不在にもがいたゲンドウは、自らの意思で自分と向き合ったシンジの中にユイ(の代替性)を見た。
シンジはゲンドウと違う唯一つの道を選んだからこそ、ゲンドウの心の底の望み(妻を見送りたい)を叶えられた。
レイ(仮)は自分のシンジへの好意がプログラムの産物であると知っても絶望しなかった。好きになって良かったと思った。
レイ(仮)は第3村では「そっくりさん」と呼ばれていた。それはレイとの代替性の証明であるが、別の個人という唯一性も同時に含まれていた。
 
 
人は唯一性を求めて代替性を手にしてしまうのでも、代替性に埋もれようとして唯一の存在になってしまうのでもない。
 
人は自分の唯一性を受け入れられてこそ誰かの代わりになれるし、自分の代替性を受け入れてこそたった1人の自分になれるのだ。
 
自分も他人もたった1人しかいないと思えるから、あるいは思ってもらえるから同じように大切にできて、自分のちっぽけさを知ってこそ自分だからやれることを見つけられる*2
それはどこまでいっても誰かの「そっくりさん」に過ぎない私達の、だからこそ「普遍性」のある答えではないだろうか。
 
 

感想

というわけでシンエヴァのレビューでした。2時間半という長丁場、30分アニメ1回を5,6回見ないとレビューを書けない最近の燃費の悪さから同日2回予約して臨みましたが、思ったよりすんなりまとめられてホッとしました。
 
なんだか不思議な感覚です。「終わらなくても終わってる」みたいな感覚で自分の中で落ち着いていたので、逆に終わったのに終わってないような感覚もあります。けれど、シンジ達が幸せになってくれたのはただ嬉しかった。幸せの形も、僕が想像するよりずっとたくさんの形があった。そういうものを示す意味でも、最後がマリと一緒というのはこの上なかったと思います。
 
仕事や通常のアニメレビューを優先して鑑賞は公開日の3/8(月)ではなく3/12(金)まで遅れましたし、ここで書いたようなことはきっと既に誰かが、あるいはこれから誰かがずっと上手く書いているのでしょうけども。そうだとしても、僕はこれを書いたのだ。
無数の「そっくりさん」の中の一人として、まだまだ生きていこうと思います。
 
 

*1:現実においても、こうした流れは加速する一方にある

*2:もちろん、誰とでも手を取り合えるとまで言えば絵空事になってしまうし、それを強いるのはもはや拷問だ。しかし顔を見ずに相手を嘲り合う関係からこの相補性は生まれ得ない