百聞と一見と――「灼熱カバディ」1話レビュー&感想

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©2020武蔵野創・小学館/灼熱カバディ製作委員会
隠れた熱を引きずり出す「灼熱カバディ」。1話は主人公・宵越のカバディ部体験が描かれる。カバディをほとんど知らない彼の目と耳はすなわち、視聴者の目と耳だ。今回は私達にカバディを、宵越という人間を、そして世界を擬似的に見学・体験させる視聴時間である。
 
 

灼熱カバディ 第1話「カバディってなんだよ」

 
宵越竜哉はサッカーの有名な選手だった。しかし、高校入学を機にスポーツと縁を切ってしまう。そんな彼をカバディ部に勧誘しようと畦道相馬が部屋に押しかけ、見学だけでもと強引に連れていく。アホ臭いネタスポーツだと思っていた宵越だったが、副部長である井浦慶の計略にハマり半ば強引にカバディを体験することに……。
 
 

1.点を得るのではなく"発生させる"行為

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©2020武蔵野創・小学館/灼熱カバディ製作委員会
宵越「タッチした分、点が入るのか?」
井浦「うーん、惜しいねー。接触後はストラグルって言って、点が入る一歩手前、点を手に握ってる状態なんだ」

 

カバディ部の副部長・井浦は当初、カバディを鬼ごっこに例える。道具は一切使われず、攻撃側はただ守備側に触れればいい――非常にシンプルだが、目を引くのはその後の「ストラグル」と呼ばれる状態だろう。攻撃側は触ればすぐ点を得られるわけではなく、守備側に捕らえられず自陣に戻らなければならない。戻れなければ得点するのは守備側の方。接触はあくまで点を発生させる行為であり、その時点ではまだどちらのものでもないのだ。そしてこの「ストラグル」はけして、競技の上だけで起きてはいない。

 
 

2.カバディの私達の生活の共通点

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©2020武蔵野創・小学館/灼熱カバディ製作委員会
宵越「半強制的に連れてこられたんだ、入部はしない!」
井浦「そう言わず、体験してから判断してくれないかな」

 

点を得るのではなく発生させた状態、ストラグル。他のスポーツではあまり見られない(あるいは言語化されていない)が、この状態は実生活ではけして珍しくない。例えば見学や体験入部は部活動にとって、「入部する/しない」=「得点/失点」のいずれにもなり得るストラグルだし、宵越の趣味の生放送主への支援と入部/不入部をかけた勝負も、双方に得失点の可能性があるのだから状態としてはストラグルだろう。どちらが得か(つまりどちらを選べば損しないか)の選択に悩むストラグルは日常に、人生にありふれている。

 
カバディとは日常。そう考えた時、カバディは練習場所でない体育館の外にすら姿を現す。例えば宵越の部屋はシンプル極まりないワンルームだが、見ようによってはそれは彼の「陣地」でもある。サッカー部は侵入すら許されなかったが、畦道はその中に入り宵越という点を見事自分達の練習場所(=陣地)へと連れて戻った。
 

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畦道「ウッス!おらは1年の畦道相馬!カバディ部に勧誘すっために来ましたァ!」

 

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畦道「攻めさしてもらいます!」
 
宵越の部屋に入った時も、2年生組の陣地に入る時も畦道はきっちりと挨拶をした。それは彼にとってこの二つが本質的に同じ行為=カバディだからなのだろう。
 
 

3.百聞と一見

ストラグルを例にカバディの私達の生活との共通点を挙げてきたが、一つ見逃せない点がある。ストラグルは、得失の機会はそもそも「接触」しなければ発生しないのだ。
 

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井浦「特によいご……ゴホン、ナイトエンドの放送は録画するほど好きで。学校中のみんなに見てもらいたいくらいなんだよね。送信準備もホラ!」
宵越「貴様、脅しか……!?」

 

接触とは対象を知るもっとも原始的な行為だが、人間は手で触れずとも想像である程度の代替ができる。井浦のように狡猾なほど頭の回る人間なら、会ったことのない宵越のカバディへの適性を見抜き入部への策を立てるのもけして難しくない。
 

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©2020武蔵野創・小学館/灼熱カバディ製作委員会
宵越「(た、倒れん……!)
 
しかし一方で、接触が対象の情報をもっとも大量に引き出す行為なのも確かだ。「カバディと連呼しながら走る」とだけ聞けばアホくさいスポーツと"想像"もするが、宵越のカバディとの"接触"を通して私達が知る実像は格闘技とすら呼べるものだった。また宵越は高い判断力(想像力)でカバディにおける有効な戦い方を見抜いていくが、畦道の異常なパワーは初対面の時も入部をかけた勝負でも接触するまで気付けなかった。*1想像力は確かに優れた力だが、それだけで全てを理解できるほど世界も人も単純ではない。
 

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井浦「身長と運動神経だけかと思ってたが、判断力に加えてプライドの高さ……レイダー(攻撃手)タイプだな」
 
そして、接触によって情報を明らかにされるのはカバディや畦道だけではない。主人公である宵越もまた、想像だけではその実像を掴ませていなかった。
井浦はその高い知性で宵越のカバディへの適性を想像し、事実それは当たっていた。しかし見抜けていたのは身長と運動神経だけで、判断力やプライドの高さは接触しなければ分からなかった。接触したからこそ分かったのだ。
接触すればするほど人は相手を知ることができる。ならば今回、宵越にもっとも接触しているのは誰か――そう、畦道である。
 

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畦道「おらさ、無理やり連れてきたんで少し悪ぃことしたかなと思ってたんだ。でもよがった」
畦道「宵越、試合の途中からいい顔してたべや!」
宵越(いい顔……カバディをしながら?そんなわけ……!)

 

 
最初に勧誘に来て、8時まで追いかけっこして、畦道は宵越と徹底的に接触した。だから彼は見抜けたのだ。サッカーでも周囲の人間関係でも人に「触られる」のが嫌だと避けている宵越が、カバディをしている最中「いい顔」をしていると。そこにある関係を本当は彼が欲していると、見抜けたのだ。想像力はけして豊かとは言えなそうな彼はしかし、接触によって相手を知る術にはこの場の誰よりも長けていた。
 

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畦道「宵越、これからは仲間だ!よろしくぅ!」
 
宵越が接触によってカバディを知ったように、畦道もまた接触によって宵越竜哉という人間を知った。いや宵越自身、今まで気付かなかった自分と"接触"したのだ。"想像"だけではきっと、そこにはたどり着けなかったろう。
 

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井浦・水澄・伊達・畦道「ようこそカバディ部へ!」

 
道具を使わず肉体だけで行うカバディは"接触のスポーツ"とも言える。ならばおそらく、この作品は私達に相手を知る二つの手段、"想像"と"接触"の均衡を問う物語としての一面を持つ。そこにどんなドラマが待っているのか、次回からの話を期待して待ちたい。
 
 

感想

というわけで灼熱カバディの1話レビューでした。なにこれめっちゃ面白い。「試合外でもカバディしてる、ストラグルが起きてる」くらいの認識から書き始めたのですがが、気がついたらコミュニケーションに関する結論にたどり着いていました。いいなこれ、「これからは仲間だ、よろしく!」って投げられたあの瞬間に宵越は救われたんだと思うと泣けてくるし、畦道という人間がすごく好きになる。
 
想像で「あの情弱ども」と嘲る声が満ちている今、それだけが相手を知る手段なのか問い直すのは私達に必要な課題だと思います。同時に本作は、単純に接触を礼賛するだけの物語ともなりえない(だったら畦道を主人公にしてるはずだ)。井浦や宵越の持つ想像力も確かに有効なものだし、何より私達は(接触するだけでは)絵や動画に過ぎないこの物語を"想像"によって実在のものと同じように捉えているのですから。
 
カバディってなんだよ。コミュニケーションだよ。これはいい視聴時間になりそう。楽しみです。
 
 
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*1:パット見で井浦を「話の通じるヤサ男」と想像したのも同様の失策