「友達っぽい」の先――「かげきしょうじょ!!」7話レビュー&感想

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© 斉木久美子・白泉社/「かげきしょうじょ!!」製作委員会
熱き日々から一時の涼を納める「かげきしょうじょ!!」。7話、帰らないのならとさらさに里帰りへの同行を誘われた愛はその「友達っぽさ」に興奮する。そしてさらさと「友達っぽい」のは愛だけではない。
 
 

かげきしょうじょ!! 第7話「花道と銀橋」

 

1.異なるものを繋ぐ「友達っぽい」

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© 斉木久美子・白泉社/「かげきしょうじょ!!」製作委員会
自分の演技が名優の完璧なコピーであり、それが紅華で求められるものではないことを指摘されたさらさ。しかし彼女がもっともショックだったのは、演技講師の安道から「そのままじゃトップになれない」と言われたことそのものにあった*1。その言葉は憧れの助六に「なれない」と言われた幼き日を否応なく思い出させるものだからだ。
 

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© 斉木久美子・白泉社/「かげきしょうじょ!!」製作委員会

さらさ「なれないは、呪いの言葉ですよ」

 
もちろん、過去と現在の「なれない」は同じではない。前者は性別を理由に道を閉ざすものだったが、後者は課題の指摘であってむしろ道を開くためにある。安道自身、言われたことを思い詰めないようにとケアを欠かしていない。だが「なれない」という言葉は全く別のそれらをさらさの中で繋げてしまう。そう、比喩的に言えば「友達っぽく」してしまうのである。
 
 

2.「友達っぽい」の先

こうして比喩的に捉えると、「友達っぽい」のはけして「なれない」の一言に限らない。そしてこの友達関係が往々にして不幸な錯誤を生むことは、さらさの過去を見れば明らかだ。
 

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© 斉木久美子・白泉社/「かげきしょうじょ!!」製作委員会

 
女の子が歌舞伎役者になれるわけなどないのだが、さらさの天禀を見る度に人々は彼女が男であったらと想像せずにいられない。彼女の才能はありえない未来と現在を勝手に「友達っぽく」してしまって、ゆえに一部の人間は彼女を警戒し傷つけすらしてしまう。
さらさへの嫉妬に駆られた暁也は確かに害意を持って言葉を発したが、それがさらさと歌舞伎の縁切りまで招くとは思っても見なかった。幼い彼の言葉は、自分の想像以上の結果と「友達っぽく」なってしまった。
 
世界が人の想像に収まるようなものでない以上、こうした錯誤から人はけして逃れられない。愛の場合も、その美しさが呪いにすらなった。しかしこの錯誤は、友達っぽい関係は必ずしも悲しみだけを生むわけではない。
 
 

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例えば冬組トップの里美星は当初娘役志望だったが、予科生の間に背が伸びその夢は叶わなくなってしまった。しかしその叶わぬ夢と男役を「友達っぽく」することで彼女はトップにまで上り詰めた。
例えば演技講師の安道ははミュージカル劇団の人気俳優だったが、事故で引退を余儀なくされ自らが演技することは叶わなくなった。しかしやはりその叶わぬ夢と演技講師を「友達っぽく」することで彼は今も舞台に関わり続けている。
もっと言えば、帰省と打ち合わせで全く目的の違うさらさ達と星達が新幹線に居合わせたのも一種の「友達っぽい」関係であろう。
 

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歌鷗「言うな暁也。その気持ちも全部芸の肥やしだ」
 
友達っぽいものはあくまでそれらしいもので、同じものではない。錯誤であるのだから当然だ。さらさは歌舞伎の時のやり方そのまま(名優の模写のみ)で舞台に臨もうとして、両者が別物であることを突きつけられた。
だが、錯誤であり別物であるが故に、人は塗り替えられない過去を未来への糧に繋げることもできる。自分の浅はかさが取り返しのつかない亀裂を生んだ罪悪感に苛まれた暁也が、その思いを芸の肥やしにするよう助言を受けるように。舞台は確かに別物ではあるが、歌舞伎もまた名優の模写のみで成り立つものではないとさらさが知るように。暁也に誘われ再び歌舞伎を見たさらさの涙は、その錯誤の正負両面の再確認であった。
 

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愛(握手……? 恋人同士なのに)
 
帰省の時は終わり、さらさと暁也は再び東京と神戸に別れる。一緒にいられる時間はわずかで、それでもそのわずかな時間があれば二人はずっと一緒のように前に進める。助六とオスカルでけして交わらない道はしかし、二人がまっすぐ進むべき道である点で何も変わらない。
 
冒頭、愛は「友達っぽい」と言った。そう、友達っぽいは友達に近いが少し違い、また抱擁ではなく握手で別れるさらさと暁也の関係もまた一般的な恋人のそれとは少し違う。敢えて言うなら「同志」が近いのかもしれないが、本作は今はそれを目に見える言葉にしない。しかしその関係は、口にせずとも確かに表現されている。それは「友達っぽい」よりも先にあるものだ。
 
歌舞伎から離れきれていない――「友達っぽい」自分を痛感したさらさはしかし、そんな自分をも肯定して紅華へと戻るのである。
 
 

感想

というわけでアニメ版かげじょの7話レビューでした。歌舞伎とは蘇りの芸事でもある、という話や8月という時期から「鎮魂」なども考えましたが、アバンと終わりを重視してこういう読み解きになりました。さらさの家での愛の足のしびれも取り込んで書けるともっと確からしくなったのだけど。
 
いきなり夏休みに入ったのは困惑しましたが、いい意表の突き方だったのではと思います。脇に周りつつ、愛の二人への距離感もとても良い。次回は星野薫が主役になりそうですが、どんなお話なんでしょうね。
 
 

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*1:思い返せば、2話でもリサの「なれない」にさらさは過剰な程の反応を示していた