一文字號を主人公に描かれる「真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ」、本作を見た人の多くは「対決してないじゃん!」とツッコむことだろう。だが「真」と「新」は本当に対決していないのだろうか?
1.真なるゲッターとは
「真」と「新」は本当に対決していないのか。その疑問を解くためにまず、本作の始まりを振り返ってみよう。
武蔵「貴様らの祖先を絶滅させたエネルギーの源だ!もう一度滅びやがれ!」
「真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ」は本編の5年前、初代ゲッターロボを一人駆る武蔵と恐竜帝国の激闘で幕を開ける。武蔵の自爆という悲劇的な結末を迎えるこの戦いは漫画版を踏襲しており、ゲッターロボサーガの正伝とリンクしたものであることを強く感じさせる展開だ。
ここで重要なのは、武蔵が時間を稼ぐ間に起動を試みられたのがゲッターロボGではなく真ゲッターロボである点、そしてその真ゲッターロボを起動できなかった点だろう。次なるゲッターロボの不在により、竜馬は失意の内に早乙女研究所を去りまた人類はゲッター線の研究を禁止してしまった。武蔵の自爆が反攻ではなく停滞にしか繋がらなかった点で、本作の始まりは正伝よりも悪い状況にあると言える。
そう、本作はゲッターロボサーガの正伝を――「本当のゲッターロボ」を背負うことができなかった。この作品における「真」ゲッターロボとは、機械やゲッター線の使徒である以上に"正伝の体現者"であり、それを背負う覚悟を問う存在なのだと言える。
2.新たなるゲッターとは
「ゲッターロボ」の名こそ冠しているが、ネオゲッターロボはゲッター線を使用しないロボットだ。本作の世界は武蔵の捨て身の戦いで仮初の平和を得たものの、ニューヨークを破壊する大惨事を起こしたゲッター線の研究は禁止されてしまった。予想される恐竜帝国の復活に対抗するには、ゲッター線を使わずに同等以上のロボットを作らねばならない。そのために生み出されたのがプラズマ駆動エンジンを搭載する新たなゲッターロボ、ネオゲッターロボであった。
この開発経緯を鑑みた時、「ゲッター線を使わないのにゲッターロボなんておかしい」というネオゲッターロボへのツッコミは一面的な理屈に過ぎない。本作の世界が新たに求めたのは「ゲッター線を使わずゲッターロボたり得る存在」であり、ゲッター線を使ってしまえばそれはもう旧来のゲッターロボと変わらなくなってしまうからだ。逆説的だがネオゲッターロボはゲッター線を使わないからこそ、背負わないからこそ「新たに」ゲッターロボの名を背負えていると言える。そしてこの新たなゲッターロボの定義は、パイロットを見てもまた変わらない。
ネオゲッターロボを駆るのは主人公の號、そして翔と凱の3人だが、彼らの共通点としてはバックボーンの乏しさが挙げられる。號や翔には一応戦災孤児や元軍属といった過去があるが口頭で簡単に触れられるに過ぎないし、凱に至っては巨漢のムードメーカーであること以外は全くの不明。異なる意見のぶつかり合いが物語の中心になることもなく、そういうドラマを期待した視聴者は肩透かしを食うことになる。……だが、これは彼らの人間味が乏しいことを意味しない。
號の獣じみた野性や翔の冷静さ、凱の抜け目のなさといったキャラクター性は短い時間でもはっきりと示され、彼らに好感を抱かせるに十分なものとなっている。むしろ4話の作品になまじドラマを持ち込だり、あるいは號達に先代パイロットとの因縁などを付加すれば、薄味のそれに引きずられて彼らの魅力はかき消えてしまっていたことだろう。
ドラマを背負わないからこそ號達は本作の物語を背負えている。これはゲッター線を使わないからこそネオゲッターロボが恐竜帝国との戦いを引き受けられるのと全く同じ構造だ。ならば號達は存在そのものが新たなゲッターであり、3話の彼らの真ゲッターロボへの搭乗はそれ自体が「真」と「新」の激突となる。
3.タイトル詐欺にあらず
最初に触れたように、真ゲッターロボはゲッターロボの正伝の体現者だ。漫画「ゲッターロボ號」では錯乱した剴を取り込み、最終的には触れるもの全てを吸収して火星に飛び立ったほとんど人智を超えたに等しい存在。本作でも真ゲッターロボの力を引き出そうとした號達はあわや取り込まれかけており、一歩間違えば漫画同様の結末になるところであった。つまり「新」は「真」に膝を屈しかけたのであり、しかしそうならなかったことにこそ本作の意義はある。
號「翔、剴!何トカゲ野郎にベラベラ喋らせてんだ。これは戦いだ!やるかやられるか、答えはその先にあるんだ!」
號「俺はてめえみてえに何か背負ってんじゃねえ、俺は俺自身のために生きてんだ。そいつを邪魔する奴は許さねえ!」
恐竜帝国の帝王ゴールとの最終決戦、號は主人公らしからぬ物言いを繰り返す。相手の事情にも想像の手を伸ばす翔と剴を否定し、地球の命運のかかった戦いにも関わらずその重責など感じていない。下手な作品ならむしろ主人公に軽々しく背負わせるものを、號は真っ向から否定している。だがこれは彼が単なる無責任な男だというわけではない。
號「苦しそうじゃねえか、俺にもやらせろ!」
1話で號は、まだ巻き込まれたに過ぎない身の上でありながら隼人を死の危機から救った。あまつさえ、ワクワクするのを理由にネオゲッターロボの操縦桿を握りもした。
號「んなこと言ってる場合か!お前の友達じゃねえのかよあの二人は!」
2話ではジャックとメリーが危機に陥っていると知るや、彼らとはさっき知り合い喧嘩したばかりにも関わらず號は出撃しようとした。戦場がアメリカであり、早乙女研究所が防衛を求められているわけではないにも関わらずだ。
號「ゴタゴタ言ってる暇があったら自分の力で動かせってんだ!」
また3話では、これまた面白そうだという理由で勝手に隼人と同行。更には外部からではなく自ら乗り込んで真ゲッターロボを起動させ翔と剴を危機から救った。
自分は何も背負っていないと號は言う。事実彼には恐竜帝国との戦いに首を突っ込む理由は一切ない。しかし同時に、彼は自ら勝手に他人の荷物を背負いに行く。
「背負っていないから背負える」、新たなゲッターロボの真髄は彼の精神性にこそあり、だから彼は劇中の人やものが背負いきれぬものをいくつも解放していくのだ。3人揃わないが故にネオイーグルに搭乗し血を吐いた隼人を、祖国防衛のため絶望的な状況でも戦うジャックとメリーを、5年前の戦いで武蔵を死なせた後悔を拭いきれない竜馬を、そして正伝の物語に束縛された真ゲッターロボを號は解放していく。
隼人「フッ……遂に3人揃ったぞ。見てくれたな、武蔵」
解放された者達の表情はみな晴れやかであり、また自由だ。隼人は司令役に徹することができ、ジャックとメリーは決戦では逆に救援に駆けつけてくれ、竜馬はスーパー空手家として恐竜帝国の兵士をバッタバッタとなぎ倒した上に隼人とのコミカルな掛け合いすら見せてくれる。號によって背負うものから解放された彼らは、今度は彼ら自身が「背負わぬ者」として號を解放してやれるのだ。なら、正伝の呪縛から解放された真ゲッターロボが神ゲッターロボという新たな姿を見せて號達の力となるのも当然であろう。
背負わぬ故に背負える者、號の戦いはかくて解放によってその物語を終える。ゲッターロボは必ずしも人類の進化といった深いテーマを背負わなくてもいいし、血みどろのダークな展開を背負う必要もない。単なる痛快娯楽作品として作られようと確かにゲッターロボなのだと、本作は爽快さをもって教えてくれる。
「新」が「真」に戦いを挑み、見事勝利を収めた快作。それこそが「真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ」なのだ。
感想
というわけで「真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ」レビューでした。アークでの櫻井號の操る真ゲッターロボタラクの登場にテンションが上がり視聴してみたのが8月。スパロボなどで触れたチェンゲのイメージからはかけ離れたシンプルな展開に最初は拍子抜けしたのですが、見終わってふと浮かんだ気付きを文章化したくてこれを書きました。構想は8月にはあったのですが余力の関係で後回し&後回し。ギリギリですがアーク最終回前に形にできてホッとしました。
頭空っぽにして見てもよし、こうやってアレコレ考えてもよし。緻密さだけが物語の面白さじゃない。この作品を見たことがアークのレビューを書く上でも頭の体操になったのじゃないかと思いますし、まーもうホント楽しい視聴時間でした。かっこよかったぞ!
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— 闇鍋はにわ (@livewire891) September 26, 2021
東映まんがまつり的な題の意味に迫る。#真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ#ゲッター線を浴びよう#アニメとおどろう