2021/11/6,7の2日間、3公演が披露された朗読劇「刀使ノ巫女 清夏奉燈」(通称"とじよみ")。今回は朗読劇ならではの語り口を起点に、タイトルにも使われた「奉燈」について考えてみたい。
*バリバリのネタバレです
朗読劇「刀使ノ巫女 清夏奉燈」
衛藤可奈美と十条姫和が隠世の深層から生還して三ヶ月と少し。季節は夏。学生にとっては夏休みの時期である。関東一帯では『年の瀬の大災厄』以降、荒魂の出現頻度が急増。この事態に特別祭祀機動隊強化が急務となった警察庁特別刀剣類管理局は、折神紫体制時代に使用されなくなっていた、伊豆諸島にある刀使訓練宿舎再稼働を決定した。しかし、その島で荒魂が目撃された。姿を眩ませた荒魂に対し、真庭本部長は調査任務を下達。衛藤可奈美、十条姫和、柳瀬舞衣、糸見沙耶香、益子 薫、古波蔵エレンの六名が派遣されることに。久しぶりの再会に喜ぶ六名は調査任務に就くが、舞衣にはさらに羽島学長から別任務も与えられていて―――。これは夏休み、とある島での任務記録。
(公式サイトあらすじより)
1.朗読劇の語り口
アニメやゲームなど様々なメディアで展開されてきた「刀使ノ巫女」だが、この朗読劇の特徴として挙げられるのは説明台詞が多い点だろう。八幡力でどれくらい飛べるかだとか、可奈美の能力「心眼」がどういったものであるかだとか……シナリオブックに収録された初稿は更にこの傾向が顕著で、宿舎の電力設備や島内の状況なども事細かに語られている。
こういった説明台詞は、朗読劇というメディアの特性上必要とされているものなのは言うまでもない。マイクの前に立って台本を読むだけでなく動きを交えた半分舞台に近いものとは言え、アニメのように全てを視覚化できるわけではないから語りで代替しなければならない。……そして語りの形を採れば必然的にそれは、キャラクターの視点で出来事を語り直すものになる。朗読劇とは物事の「再認識」を必要とし、またそれに適したメディアであると言えるだろう。
2.再認識は発見である
再認識――朗読劇が持つこの特性を、「清夏奉燈」の物語は極めて自覚的に展開している。2本のドラマCDで新しく分かったことはこの朗読劇の中でも説明されるし、今回討伐する鳳凰型荒魂も可奈美達が最初に発見したものではない。その出現条件の再現やタギツヒメと関連した正体などからも言えるが、再認識は本作の物語を進めるメインエンジンだ。そして重要なのは、この再認識の範囲がけしてその場その場や個人の話に留まらない点だろう。
本作では荒魂の討伐と並行して、レポート作成のための舞衣の皆への聞き取りが行われる。刀使になった経緯、TVシリーズの戦いで考えていたこと……聞き取りは全員に続けては聞かないし、内容も一様ではない。見ようによってはこの聞き取りは都度都度で途切れて いる。
しかし一見途切れていても、聞き取りの中には確かな連続性がある。舞衣はエレンへの聞き取りの中で沙耶香とも同じ話をしたことを思い出すし、薫の話の中では舞草は突如出現した組織ではなく前身がOB会のようなものであったことや、彼女の舞草入りがエレンに付き合ってのものだったことなどが語られる。舞衣の聞き取りは、全く無関係に思えるものの間に連続性を再認識――いや、発見させているのである。
3.連続性の燈
再認識とは連続性の発見である。こう考えた時、本作で可奈美達は実に多くの発見をしている。この任務がどこか合宿のようでもあること、鳳凰型荒魂の出現条件の共通性、姫和が今も禍神の力を引き出せること、力を集めていたはずのタギツヒメが自分の力の一部を切り離していた理由、エトセトラエトセトラ……倒した鳳凰型荒魂から再生した雛がタギツヒメにとって現し世に戻るための「縁」であるというのも、それがある種の連続性であることと無縁ではあるまい。
そして可奈美達は任務最後の夜、文字通り一つの発見をする。土に埋もれていたビデオテープ、20年前の相模湾岸大災厄が起きる直前に紫達がここを訪れた映像記録であった。
高津学長の変貌ぶりに沙耶香が絶句するように、20年の間に起きた変化はあまりに激しい。かつて共タギツヒメと戦った8人の少女(+朱音)達の中には既に故人もおり、また敵味方に分かれて戦いすらした。タイムカプセルとして埋めていたテープを掘り返すに掘り返せなかったのは、それが紫達の中ですっかり連続性を失っていたからに他ならない。しかし、可奈美達なら話は別だ。
現在とはかけ離れた姿の少女を「雪那」の呼称から高津学長と判断したように、可奈美達はビデオテープの過去からから現在に確かに続くものを見つけていく。紫だけでなく羽島学長達も今と雰囲気が変わらないことや、逆にこの頃の紫の今と違う笑い方をしていたこと。彼女たちが合宿最終日にしていたバーベキューを今自分達もしていること。撮影した紫達が願ったように、このビデオテープが自分達に元気を与えてくれること……実はこのテープの発見こそが最大の任務だったのではと推測する点を含め、可奈美達は見事テープの連続性を回復してみせた。絶えているように見えた過去と現在の間に、灯りを燈してみせたのだ。
4.交わす燈
少し視点を変えた話になるが、刀使ノ巫女はけして規模の大きいファン層を獲得できた作品ではない。放送終了後のラジオ開始もショートアニメの製作も当初の予定には無かったもので、展開はいつ終了してもおかしくなかった。ここまで続いてきたのはファンが「篝火を絶やすな」を合言葉に応援したからだと、スタッフは折に触れてそう言ってくれる。それはつまり、ファンの思いが作品の現在と未来の間に灯りを燈してきた――いや、燈を捧げてきたということであろう。連続性は、篝火は、公式とファンが互いに燈を灯し続けたから絶えず燃え続けてきた。
奉燈は灯りを捧げることであり、この灯りは神仏への感謝を供物としたものだと本作は言う。おこがましい捉え方を許してもらえるなら、この朗読劇はスタッフが私達に捧げてくれた燈だ。これまでファンと共に焚き続けられてきた篝火の最前面に灯る、ひときわ大きな光だ。私達がまたこれに負けない燈を捧げることで、刀使ノ巫女はこれからも篝火を絶やさぬことができる。舞衣が可奈美に尽きぬ話を始める本作の幕引きに、尽きぬ物語への願いを見るのはけして強引なことではないだろう。
スタッフと私達が互いに交わす、その美しい灯りこそが「奉燈」なのである。
感想
というわけで朗読劇「刀使ノ巫女 清夏奉燈」のレビューでした。当初は「再認識することで燈を再び灯せる」みたいな方向で書き始めたのですが、それって篝火を「絶やさない(連続性)」のとは違うよな……とひっかかりを感じまして。整合性を取れるのはなんだろう?と考えた結果、連続性の発見(再認識)という形で考えをまとめることになりました。「奉燈」についてはそれらを書いている間にポンと思いついたものです。おこがましい解釈ですが、こう考えるなら私達もいっそうの感謝を捧げ返さなきゃなりませんね。それは可奈美と姫和の時同様に、刀使ノ巫女が再び現し世に戻るための光や縁にもなるはずですから。
今回が初めての朗読劇体験で、1回見れば十分では……なんて考えもあったのですが、トークショーを含め結局会場のところざわサクラタウンに入り浸る2日間となりました。でも、それで正解でしたね。完成品の状態で届けられるアニメと違って生もの故の揺らぎや変化があって、そこに代えがたい面白さがある。ファンイベントとはまた違った形で、空間を共有する楽しさを感じました。動きながら台本読みながら演技して、しかもそれを何事もないように感じさせちゃうのは凄まじいことだと思います。マイク越しではありますが、こんなにたくさん6人の声を生で聞けた時間はなかった。
最高に楽しい2日間でした。また可奈美達に会えるよう、微力ながら恩返しできればと思います。ありがとうございました!
朗読劇未視聴の方はぜひ、公演収録CDのご購入を!ファンなら絶対後悔しない出来です。