輝きの欠片は月に――「プラネテス」5話レビュー&感想

月と地を繋ぐ「プラネテス」。5話ではルナフェリーでの騒動が描かれる。この船の目的地はもちろん月であるわけだが、そこにはどんな意味が込められているのだろう?
 
 

プラネテス 第5話「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」

久しぶりの休暇で月に向かうことになったハチマキたち。初めて月に行くタナベは大喜び。月までは定期便で4日間の道のりだ。その船の中で、ハチマキはシアという少女と出会う。宇宙船の話で、すっかり意気投合するシアとハチマキ。定期便に乗って3日目。ハチマキたちはある事件に巻き込まれるのだが…。
 

1.非日常への切符

ハチマキ「お前は観光客かって」
フィー「仕方ないでしょ、初めての月旅行なんだから」

 

 
これまでデブリ回収の仕事を描いてきた「プラネテス」だが、今回の舞台はデブリ課ではない。ハチマキが乗る宇宙船ルナフェリーは呼称の通り月への定期便であり、彼がこれに乗ったのは仕事ではなく休暇によるもの。月に向かうこの船はハチマキにとってちょっとした非日常への船だと言えるが、実際、旅行など普段行かない場所への移動はみな非日常への移動に例えることができるだろう。……その大小軽重を問わず。
 
父親「だから宇宙で死のうって決めたんだ。シアだってその方がいいさ」
母親「そうね。この子、宇宙が大好きだものね」

 

この5話には、ゲストとして1人の少女とその家族が登場する。ハチマキがフェリーで出会った少女シア、そしてその両親だ。宇宙が大好きなシアは家族で月へ行けることに大喜びだが、実は両親の目的は月旅行には無かった。工場の経営に行き詰まった2人は、借金取りが追ってこない場所で一家心中しようとこの宇宙船に乗り込んでいたのである。
シアの両親の目的地は非日常の極み、現世の苦しみから解放される別天地だ。正確な意味とはもちろん違うのだが、便宜上ここでは彼らが目指す場所を「聖」と定義しよう。憂き世たる「俗」から解放される場所を目指してシアの両親はルナフェリーに乗っているのである。
 
 

2.離れられない日常

休暇という非日常、一家心中による別天地。向かっている場所は違えど同じ船に乗り合わせたハチマキとシア、その両親達。しかし物語は、仕事であろうが借金であろうが人々を「俗」から離してくれない。
 
シア「あはははは!」
ハチマキ・タナベ「いた!」

 

例えばハチマキは暴漢に襲われる女性を見かけヒーローの非日常へ飛び込もうとするが、実はそれは撮影で彼に舞い込むのは暴漢の代役止まり。しかもタナベに自分が本当に暴行しようとしていると勘違いされそれすらできない。そもそも月行きにタナベやフィーが同行しており、この時点でそれは完全な非日常ではない。
またシアの両親はいよいよ心中を決行しようとするが、そんなことはつゆ知らぬシアは子供らしく好き放題動き回って2人を困らせたりする。
 
フィー「映画ね……撮影の許可取ってんの?」
 
ルナフェリーは非日常への船ではあるが、船の中にはやはり俗世の日常がある。撮影禁止の場所で映画を撮ろうとする不届き者もいれば、宇宙空間への不慣れを装って人の貴重品を盗むスリだっている。また航宙課のチェンシンや彼に懸想するリュシーにすれば、今回行っていることは紛れもなく仕事やアプローチという日常だろう。
 
月へ行くのが訓練を積んだ宇宙飛行士の特権ではなくなった未来でも、「俗」から離れられるわけではない。このままならなさは後半、意外な作用を見せることになる。
 
 

3.輝きの欠片は月に

非日常を目指す人を多く乗せるルナフェリー。しかしそこにある非日常はけして幸せなものばかりとは限らない。例えば一家心中、例えば旅行者狙いのスリ、例えば……立てこもり。
 
スリ「ガキの命が惜しかったら俺の指示通りにしろ!まずはそこのパイロット、お前らから出ていけ!」
 
ルナフェリー号に乗船していたスリはタナベの財布などを手際よく盗んでいたが、チェンシン達に犯行がバレ追われる身になってしまう。展望ラウンジに逃げ込んだ彼が苦し紛れにとったのは、シアを人質に人払いをすることだった。心中のための薬が入ったケースを紛失した両親が彼女と共にラウンジに来ていたばかりに、シアは命の危険にさらされてしまったのである。……しかし、そもそもシアの両親は彼女と共に心中するつもりだったのではなかったか?
 
スリ「俺だってガキの頃から手先が器用でピアニストになるとか言われてたさ!それがどうだ、器用な指は人様のものをかすめ取るだけ!」
 
人間の持つ全てのものは善にも悪にも、幸にも不幸にもにもなり得る。シアの両親は親バカなほど娘の長所を語るがスリは自分の盗みの手管がピアニストにもなれると褒められた器用さの成れの果てだと語るし、かつて抱いたような夢がかなわなかったからこそスリやシアの両親は窃盗や死を選ぼうとしている。永遠にきれいなままで――"聖"のままでいられるものなど存在しない。しかしそれは逆も然りのはずだ。
 
父親「シアの将来を勝手に決めるな!」
母親「シアの未来はシアのものでしょ!」
父親・母親「……!」

 

「禍福はあざなえる縄の如し」ということわざがあるが、この5話の展開は物事が予期せぬ方向に転ぶことばかりだった。スリの"仕事"がバレたのは禁止されている場所で撮影していた映画スタッフのカメラが押収されたのがきっかけだったし、シアがラウンジにいたのは心中用の薬が入ったケースを誤ってスリが盗んだから。
結果的に犯罪の証拠が見つかったり心中が延期になったりはしたが、映画スタッフやスリがそれを狙っていたわけはもちろんない。彼らはあくまで自分の欲や生活のために――"俗"のために悪行を働いたに過ぎない。しかし間違いなく悪行にも関わらず、後から見ればそれは善行にもなっていた。シアの両親にしても、心中の身勝手さに気付けたのはスリに娘を人質にされ説得を試みる必要に迫られた結果だ。
 
父親「頑張るから、お父さん頑張るからな」
母親「3人でもう一度やり直しましょう、どこか新しい場所で」

 

事件は結局、チェンシンの機転で回転した船が一時的に発生させた重力にスリが動揺した隙をハチマキがつくことで解決した。宇宙空間を飛ぶルナフェリーの中は確かに無重力空間だったが、それでも重力と無縁ではなかった。これは、憂き世たる「俗」から心中の「聖」へと逃れようとしていたシアの両親がそれでも俗世の事件に巻き込まれ、結果的には親バカなほど俗な娘への愛情をきっかけに心中を考え直したのと同じことだろう。結局彼らは「俗」から逃れられなかったし、けれどそこに幸せはあったのだ。
 
シア「変なの、これからお月さまに行くのに」
父親「ああ、そうか。そうだな……」

 

あらゆる「俗」は「聖」に、またあらゆる「聖」は「俗」に通じ、どこまで行っても人は両者の間から逃れられない。それは例えるなら、大地の上に立つ人が地球と太陽の狭間にいるのと同じことだ。そして月は地球の周りを回転し、太陽が見えない時もその光を反射することで暗闇を照らしてくれる。太陽そのものでなくとも、その輝きは十二分に眩しい。
 
月とはきっと、太陽そのものに手を伸ばせば焼けてしまう私達にも輝きの欠片を掴ませてくれる場所なのだ。
 
 

感想

というわけでアニメ版プラネテスの5話レビューでした。1話でタナベの見たハチマキが太陽を背負っていたのを思い出す回でした。太陽信仰と重ねて考えることもできるのかな。タナベの出番はおとなしめでしたが、展開よりは構図にダイナミックなスケールを感じる回というか、これまでとはまたちょっと違った趣のある話だったと思います。レビュー書く上でちょっとずつ勝手が分かってきたのだとありがたいなあ。
 
 

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