もう一つの境界線――「プラネテス」11話レビュー&感想

遠近で眺める「プラネテス」。11話ではエルタニカという架空の国から来た男を通じて違った世界が描かれる。今回の話が描く"境界線"とは、けして国境線だけを指すものではない。
 
 

プラネテス 第11話「バウンダリー・ライン」

テクノーラ社へ宇宙服の営業の為に、小国エルタニカから一人の技術者、テマラがやって来た。彼の仕事に対する純粋な姿勢を見て、採用試験を手伝うことになったハチマキたちとクレア。ところがその最後の試験のため宇宙へ出たハチマキたちの前に、軌道保安庁の巡視船が現れ、試験の中止を告げるのであった…。
 

1.厳格さと柔軟さ

クレア「私は8歳だったけど、アメリカでは幼稚園児以下だった。エルタニカでは私に文字を教えてくれる人はいなかったから」
 
架空の小国エルタニカで作られた宇宙服の採用試験を巡るこの11話は、同時にレギュラーの一人であるクレアを掘り下げる話だ。これまではどちらかというと頑なで視聴者にあまりいい印象を与えてこなかった彼女だが、エルタニカという小国からやってきたビハインドを背負って懸命に頑張ってきた事実を知って印象が変わったという人も多いだろう。
 
テマラ「彼女はな、俺達と同じエルタニカ人だ。しかもテクノーラのエリートなんだぞ!」
 
また、そんなクレアの心が解きほぐされていくのは同じエルタニカ出身のテマラの性格によるところも大きい。食事の仕方から持ち込んだ宇宙服に至るまで彼は何よりおおらか、緩やかな人間で、それが今の国籍はアメリカ、働く場所は宇宙と既にエルタニカからは距離を置いていたはずのクレアにもいつの間にか親身な態度を取らせていく。今回は厳格だったクレアがテマラに感化されて柔軟になっていく話、と捉えることもできる。
 
テマラ「宇宙服っていうより宇宙船だと考えてください。だからホラ、中で手が自由になります」
 
柔軟であることは大切だ。テマラの持ち込んだ宇宙服は服と呼ぶには大きく不格好に見えるが、彼が言うように宇宙船として考えればむしろ内部スペースの広さが利点になってくる。その中で煙草が吸いたいという私的な理由でフィーが採用に乗り気になるのを含め、柔軟であることはけして悪いことばかりを呼ばない。……しかしそれは悪いこと「ばかり」ではないというだけのことでもある。
 
 

2.悪用される柔軟さ

柔軟であることは融通が利くことでもあり、基本的には気楽なものだ。しかし一方、この柔軟さは悪用できるものでもある。
 
クレア「宇宙産業機械均等協定によれば、採用を検討する義務があるはずです」
課長「検討はしたさ、書面でな」

 

テマラの持ち込んだ宇宙服は、エルタニカ製であることを理由に当初ほとんど門前払いに等しい扱いを受けていた。管制課の課長は書面で検討したことにして追い返そうとしたし、他の課でも実際は行っていないテストをやったように見せかけようとした。劇中のクレアのセリフによれば宇宙服の採用はきちんとテストを行い検討するよう義務付けられているにも関わらず、だ。小国という時点でスタートラインにも立たせないこの差別的な扱いを、しかし彼らは全く恥じていない。これは彼らにとって法律や決まりの"柔軟な"運用なのだ。柔軟であれば全てが上手くいくわけではないのである。
 
ハチマキ「最後はなんなんだ?」
クレア「減圧対処テスト。急減圧して45秒で回復できるか」

 

また、世の中にはどうしても厳格でなければならないものもある。デブリ課はテマラの宇宙服に柔軟に、ほとんど私的な理由で興味を示したが、そうだとしても採用には国際規格を満たしているかどうかのテストを経ねばならない。一歩間違えば即座に死が待つ宇宙で使うものなのだから、厳格な基準を求められるのは当然のことだろう。リスクあるエネルギーの運用に相応の基準が求められるように、こうしたことは柔軟であってはいけないのだ。
 
 

3.もう一つの境界線

あちらを立てればこちらが立たないように、柔軟さと厳格さはどちらか片方だけではやっていけない。いや、全てのものは正反対の要素なしでは成り立たない。
 
ハチマキ「チューニングがピーキー過ぎるんだよ。もっと遊びを作らねえと0Gじゃ作業できねえぞ」
 
テマラ「国際規格……エルタニカ初の、私達の宇宙服……!」
 
例えばテマラの宇宙服は当初精密作業のテストに失敗したが、それは調整がピーキー過ぎたこと――厳格過ぎたことが原因だった。もっと遊びのある、即ち"柔軟"な調整こそが"厳格"な規格テストの突破には必要だったのだ。またこの国際規格は合格すれば例え先進国でなくとも採用される資格を持つわけだから、その点では逆に厳格だからこそ柔軟になれるとも言える。この11話で並行して描かれる恋愛模様が一方通行の色彩が強くなかなか進展しないように、片方の要素だけが強くても物事は進まないものなのだ。
 
物語は最後、宇宙服が見事に国際規格に合格するも連合がエルタニカに侵攻を始めたため採用は見込めない状況となり、テマラの身柄も軌道保安庁に保護されるという報われない結末を迎える。ラスト、1分の猶予をもらい地球を見るテマラの言葉は印象的だ。
 
テマラ「どうして……どうしてなんでしょう?ここからは国境線なんて見えないのに。ただ地球があるだけなのに」
 
彼が宇宙から見た地球、そこにあるエルタニカは今まさに戦争の真っ只中で、テマラの工場も砲撃を受けて破壊されていた。連合とエルタニカが国境を、国の境界線を巡って争っているのは抗いがたい事実であり、テマラが何を言おうとそれは変わることがない。しかし彼が言うように、宇宙から見れば国境線など存在しないのもまた事実だ。
両者はどちらが間違っているのでもなく、微視的に見るか巨視的に見るかという正反対・・・の距離で見た等しい事実に過ぎない。ならば宇宙服の採用試験を巡る出来事が厳格さと柔軟さの両方を求めたように、私達はどちらか片方の事実だけを見るようになってはいけないのだろう。それは本来手を取るべきもう一つの、正反対の事実を境界線の向こうに追いやってしまうことだ。
 
11話の副題は「バウンダリー・ライン」……境界線を指す言葉だが「ボーダーライン」ではない。「ボーダーライン」は2つの区域の境界線を指すのに対し、「バウンダリー・ライン」は領域の最も外側の線を示しているのだという。厳格さと柔軟さがそれだけでは良し悪しの境界線を持っていないように、今回の話が否定しているのは対等な2つの境目にある線ではない。世界にはテマラや彼の宇宙服の採用を弾いてしまったような、やはり目に見えないもう一つの境界線がある。
誰かや何かを自分達の領域外に追い出してしまうこの境界線こそ、私達を分断するバウンダリー・ライン」なのだ。
 
 

感想

というわけでアニメ版プラネテスの11話レビューでした。すみません、ルパン三世 PART6最終回のレビューで精魂尽きてたことや「境界線」に拘泥してしまったことなどからなかなか見立てが作れず遅くなってしまいました。いったん「境界線」から離れてこれまで描かれている「双方向(あるいは離れてこそ見える近さ)」に立ち戻って書いて、そうしたら最終的にやっぱり境界線にたどり着いたという感じです。
 
今回直接描かれているのは国境や戦争といった2022年春現在連想するところの多いものですが、読み取れる境界線は就業機会や価値観なども含めたもっともっと幅広いものであるように思います。「話せば分かる」なんてのはもちろん幻想に過ぎないでしょうが、「あいつらはバカだ、非論理的な感情の生き物だ」と領域外に追い出してしまったらそれこそ殺し合うしかなくなってしまう。私自身を含め、憎む相手をそうやって境界線の向こうに追いやってしまう行為はこの19年間増えるばかりであるように思います。
 
意見が一致する必要はなく、そこに境界線はあっていい。でも、領域の外に追い出してしまうことだけはしない。そんな世界には、どうやったら近づけるのでしょうね。
 
 

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