幸せと自由は観覧車の中――「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」2期5話レビュー&感想

翼広げる「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」。2期5話はしずくが自由の何たるかを感得する話だ。自由自由と言うけれど、本当に自由になるのはとても難しい。
 
 

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会2期5話「開幕!ドリームランド↑↑(*'▽')」

いよいよ第2回スクールアイドルフェスティバルが近づいてきた。文化祭との合同開催も決まり、慌ただしくなる学内。そんな中、しずくも所属している演劇部が、前夜祭の演出を任されることになった。歩夢とせつ菜による歌と芝居のユニットを想像していたしずくは、内密に侑に相談。すると侑からある提案があり、休日に2人だけで出かけることに。だが侑の様子を怪しく思った歩夢はたまたま出会ったせつ菜を巻き込み、そっと2人の後をつけるのだった。そして、楽しそうに会話をする侑としずくが向かったのは、なんと遊園地で……。
 

1.自由から生まれる制約

栞子「文化祭とスクールアイドルフェスティバルの前日に行うのですが、その総合演出を演劇部の皆さんにぜひお願いしたいと思いまして」
 
今回の話は、同好会の一員である桜坂しずくが文化祭兼スクールアイドルフェスティバルの前夜祭の企画に悩んだところに端を発している。別に予算や内容の成約が厳しいというわけではない。依頼した取りまとめ役の栞子はむしろ、どんな企画をやるかから全く任せているのだ。権限としてはほとんどフリーハンド、つまり"自由"。にも関わらずしずくの手は止まっていた。
 
しずく「配役を悩んでたら続きが書けなくなってしまって……」
 
しずくが企画したのはスクールアイドル、優木せつ菜と上原歩夢が演劇仕立てで歌い踊る新ユニットの結成だったが、彼女はその配役に悩んでいた。「美女と野獣」をほうふつとさせる演劇について、せつ菜と歩夢とどちらを野獣役にするか決めかねていたのである。
情熱的なせつ菜を野獣役にするのが一般的であろうところ、逆にふだん控え目な歩夢が野獣役を演じた時の可能性も考えられるしずくの着眼点は優れたものだ。一般的でない可能性に目を向けられるのは彼女の発想が"自由"な証明であろう。……しかし、しずくの手が止まってしまった原因もまさにそこにある。どちらの配役も魅力的だから甲乙つけられず、配役が定まらないから脚本も続きに移れない。彼女がハマってしまったのは、配役が"自由"だからこそ制約を受ける落とし穴であった。
 
 

2.制約から生まれる自由

多様なカスタマイズができるスターバックスコーヒーでのオーダーが慣れない人からは呪文などと呼ばれるように*1、世の中には自由だからこそ制約を受ける矛盾した状況が存在する。ということは、その逆もまた然りだ。
 
歩夢「だ、だって、侑ちゃん寝不足で疲れてるし、倒れたりしないか心配で……」
 
今回の主軸は先に書いたように前夜祭用の新ユニットにあるが、序盤では幼なじみの侑がしずくと二人で出かけるのを目にした歩夢が、偶然出会ったせつ菜と共に侑達をこっそり尾行する様が描かれている。
侑を取られてしまうのではと気が気でない歩夢のコロコロ変わる表情は非常にコミカルだが、もちろんそんな気持ちはそのまま表に出せるものではない。よって彼女が尾行をするには言い訳が必要だ。これは懸念によるやむを得ないもので、別にヤキモチを焼いているわけではない……と。かろうじてひねり出した「侑は寝不足で疲れているし、途中で倒れたりしないか心配」という言い訳はいかにも苦しいが、ともあれこの言い訳によって歩夢が後ろめたさからある程度解放されるのも事実であろう。そう、彼女はしずくと逆に、制約を受けることで"自由"を手にしているのである。
 
 
 

3.幸せと自由は観覧車の中

菜々「はい、中川です」
侑・しずく・歩夢「おおー……」

 

しずくと歩夢の例から推し量れるように、自由と制約は正反対だがそれ故に裏返りもするものだ。これは実は中川菜々が「変身」している優木せつ菜においていっそう顕著で、彼女が優等生の中川菜々として自分を律し続けるには優木せつ菜として自由に弾けられる時間が欠かせないし、逆に優木せつ菜に変身するためには中川菜々としての実体も欠かせない。こうして見れば、今回の主軸がしずく、歩夢、そしてせつ菜の3人なのは必然なのだろう。彼女達の姿には、人が自由と制約の間で迷いしかしどちらも捨てられないさだめが凝縮されている。そして、それがけして人を苦しめるだけのものではないことも。
 
せつ菜「ならばわたしは、この野獣の力で世界にはびこる悪を倒したいです!」
 
嵐珠の侑への指摘が自分にこそ当てはまると悩むしずく(これも発想として"自由"だから生まれる苦悩だ)に対し、せつ菜と歩夢は彼女の台本をもとにした劇を披露する。未完成の台本を即興劇に変え、演じる役を自分に寄せ……制約から自由を取り出して見せる。この時、制約は制約のままではなくなっている。
 
しずく「わたしは以前、あなたを野獣にした魔女……」
 
また二人に刺激を受けたしずくは自らも魔女役として舞台に上がるが、役を定めるとは制約することだ。彼女はせつ菜と歩夢の自由な即興劇によって自分の立ち位置を定めることができた……つまり自由から制約という名の安定を取り出すことができた。
 
歩夢「わたし達がここにいるのは、そもそもあなたの魔法がきっかけなんだもの」
せつ菜「さあ、一緒に!」

 

制約は制約のままではどこに行くこともできないし、自由は自由のままでは安定を得られない。制約は自由になれるから、自由は制約になれるからこそ型にはまらずに・・・・・・・済む。自分自身でいることができ、同時に自分という枠から離れることができる。例えばせつ菜と歩夢の即興劇は即興劇のまま、いつの間にかせつ菜と歩夢によるしずくへのユニット勧誘にもなっていた。自由と制約を二択ではなく、より高次の自由へと押し上げていたのだ。
 
しずく「型にはまらず目一杯自分を表現すれば、びっくりするほど楽しいものが生まれるんですね!」
 
自由と制約は永続的に固定されているわけでも、反転して終わるわけでもない。対照的な侑と嵐珠が互いに刺激し合うように、侑が歩夢達から受け取ったものを今度は自分が形にする番だと考えるように、くるくると回転するものだ。回転の中にあることで私達は、制約はおろか"自由からの自由"すら獲得できる。
 
回転するから人と世界は変わり繋がり、物語を紡ぐことができる。侑と歩夢が最後に乗る観覧車には、再び動き出したそれには回転がもたらす幸せが満ち満ちている。
幸せは、本当の自由は、回り続ける観覧車の中にこそ見つけられるものなのである。
 
 

感想

というわけでニジガク、アニガサキ2期5話レビューでした。大雑把な見立ては昨晩できてたのですが、終盤にきめ細かに配置された要素を拾いながら言語化するのがなかなか大変な回でした。前回の愛と果林もそうですが、ユニットが必然的な組み合わせとして感じられるのが本当にいいなあ。
 
さて、菜々が見せてしまった一瞬の隙がどんな波乱を呼ぶのか。前夜祭ユニットの今後、とても楽しみです。
 
 

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*1:10年以上行ってない私もたぶん頼めない