三崎しずかの「美術部の上村が死んだ」という漫画を読んで色々と考えたことを書きます。8割方書いたところで他を優先する必要が出て、すっかり遅くなってしまいました。ネタバレありです。
1.運命とはネタバレである
「美術部の上村が死んだ」は少年ジャンプ+に掲載された作品です。要約すれば「自分の報われない運命をネタバレされた少年が絶望から立ち直る話」……劇中直接描かれるのは運命論の類で、おそらくこれまでも多くの作品が触れてきたことです。個人的には「ジョジョの奇妙な冒険」の5部を思い出したりする。ただこの作品で特に面白いと感じたのは、運命論と「ネタバレ」を紐づけている点でした。
「運命」という言葉は神秘的で、それ故に私達はどこか自分から遠いもののように感じがちです。ヒーローや赤い糸で結ばれた恋人だけが持っているような、そんな特別なもののようにも思えてしまう。でも運命を知ることを「ネタバレ」と形容すると、それは一気に自分に身近な感覚になる。知らない結末をネタバレされるのは酷く興醒めするものである一方、楽しい作品は既に見て結末(運命)を知っていても楽しいし、意図せずネタバレを見てしまっても途中経過に魅了されることはままあるわけで。本作の特筆すべき点は何より、運命論というものを私達の手元に引き寄せてくるところにあると思うのです。そしてこのように運命論の捉え方の自由度が上がると、「ネタバレ」というのも実は娯楽作品に限らないことが見えてきます。そのことをまずは山田尚子監督のアニメ「平家物語」から考えてみましょう。
2.ケースその1「平家物語」
山田尚子監督の「平家物語」は言わずと知れた同名の軍記物語(正確にはその現代語訳)を現代に蘇らせた作品であり、平家が滅びることを私達は最初から知っています。"ネタバレ"と言えばこれほど最初からネタバレしている作品もないでしょう。そしてアニメオリジナルのキャラクター・びわは未来を見ることのできる眼を持っており、彼女は一人それによるネタバレに苦しむことになる。ですが本作の最終回が示したのは、このネタバレがけしてびわだけの特権的なものではないことでした。
最後の戦いとなる壇ノ浦の戦い、平家は兵数こそ劣れど豊富な海上戦の経験を活かして大いに善戦します。ひょっとすると平家の勝ち戦になるのでは――そんな雰囲気が敵味方に流れ始めた頃に突如として大量のイルカが現れ、平家の陰陽師は彼らが向かう方が滅ぶと占います。両軍が固唾をのんで見守ったイルカが向かった先は平家の方、つまり占いの結果は彼らの滅亡を示していました。この時、平家の人々は自分の運命の"ネタバレ"されたと言えます。
イルカの例は超自然的ではありますが、このように未来のネタバレを受けることは実はけして珍しくありません。平家の人々は最終的に多くが入水を選びますが、これは戦の勝敗やその後の運命がびわの眼も不要なほどハッキリ見えたからでした。現代日本を生きる私達にしても多くの人はこれからもこの国は貧しくなる一方なんだと感じていると思いますが、それも見ようによっては運命をネタバレされているのと同じことでしょう。
神様の悪戯などと大袈裟なものでなくとも、火を見るより明らかな結果が待ち構えていると感じた時私達はネタバレを受けている。未来を覆せないと感じたその時こそ、私達は運命を認識するのではないでしょうか。
2.ケースその2「プラネテス」
未来を覆せないと感じた時、人は運命を認識する。これは実際は本当にありふれたものです。なぜなら私達は、歴史は繰り返すものだと知っている。盛んな者が必ず衰えると知っているし、人間の本質は時代が変わっても大差ないことを知っている。この変わらなさについて示唆的なのが、幸村誠の漫画を原作に作られた「プラネテス」です。
2003年に作られたこのアニメの舞台は2070年代。およそ3/4世紀先の未来ということになりますが距離感が絶妙です。人類の生活圏は宇宙に拡大しており確かに私達とは違う世界になっている一方、スペースコロニーを作れるほど発展しているわけでもない。宇宙への進出にあたって生まれたデブリが問題視されており、主人公であるハチマキの仕事もそれを回収するいわばゴミ拾い……現代からすれば夢のように離れた、しかし夢のように素敵ではない未来が描かれています。
主人公のハチマキにしても突然巨大ロボットのパイロットになるだとか言ったことはなく、悩むのは同期に置いていかれる焦りや恋愛などといったごくごく平凡なことばかり。私はまだ2022年の再放送で初めて見ている最中ですが、時代が変わっても人間は変わらないというのは本作において根幹をなしているように感じます。
時代が変わっても人間は変わらない、いつの世も人は同じように悩み続ける……そう、これは「ネタバレ」です。異議申し立てに対する反論はいつだって「それは社会が取り組む問題じゃない、精神的に未熟な個人のワガママに過ぎない」という"論理的"なものだったし、どんな崇高な理念も制度もやがては腐敗しその機能を失う。100年1,000年前の人の悩みが現代の私達の悩みと全く同じなどということはありませんが、言ってみればそうした違いは"ガワ"に過ぎません。いかに異なる問題であっても、どんな風に悩みどんな風に挫折あるいは乗り越えるかだけは私達が人間である限り変わらない。それだけは覆せない未来であり運命であり、つまりどうしようもないネタバレなのです。
3.ケースその3「機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴースト」
どれだけ時が流れようと人は新たに見つけた問題に今までと同じように悩み続け、苦しみは永遠に終わることがない。そう考えると私達の人生は全く無意味なものにも思えます。人生のネタバレをくらった上村が「全部ムダだ」と投げやりな気持ちになったのが我が事のように感じられる人も多いのではないでしょうか。ですが、劇中と同じような気持ちになったのならそれに対する答えもやはり劇中にある。言ってみるなら"ネタバレ"されている。
私達は悩み行き詰まった時、自分の抱えたものに似た悩みを抱えた存在に救われることがよくあります。過去の歴史であったり物語であったり、時にはたまたま見かけた人や動物の姿であったり……なぜそうしたものが救いになるかと言えば、それはこれらが似ていても全く同じではないからです。自分だけでは覆しようのないものに"ブレ"を、可能性の存在を見せてくれるからです。劇中でも人生のネタバレに絶望した上村が救われたのは、彼によって間接的に人生のネタバレをくらった幼なじみの西内が自分とは違った反応を――ブレを、可能性を示したからでした。
西内の励ましで上村は生き返り(生きる気力を取り戻し)ますが、二人の意見は全く同じにはなりません。映画でもなんでも上村はやっぱりネタバレを楽しめないし、一方で西内はそうではなかったりする。けれど、そんな風に自分と違う見方をしてくれる人がいればネタバレに対する考え方も固定されずに済む。どちらが正しいか分からなければ、それだけで上村を絶望させたネタバレはもはや半分ネタバレではないのです。分からないから、救われるのです。
人の知性には限界があって、全てを理解することはできない。少し脇道に逸れますが、同様の例としては長谷川裕一の「機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴースト」が挙げられます。本作の主人公はフォント・ボーという少年ですが、彼はガンダムシリーズに多い(とはもはや言えないが……)「ニュータイプ」なる能力の持ち主ではありません。フォントに備わっているのは思考を高速化させる能力。「理性」を人間の限界以上に発揮する能力と言ってもいいでしょう。この能力を彼はフル活用し、時には暴走の危機なども乗り越え活路を切り開いていきます。
幾多の犠牲を乗り越え最後の敵に勝利した彼は地球から遠く放されてしまい、それでも時間はかかるが戻る方途を見つけコールドスリープに入ります。ビーコンを頼りに自分を探してくれるよう仲間達に頼み眠りについた彼が再び目覚めた時、世界は彼がその高度な理性で予測した通りの未来になっていた――わけではありませんでした。仲間達が回収するのに2,3年はかかるかもと覚悟していた時間は実際は15年も経っており、しかも未来は予測から大きく外れてしっちゃかめっちゃかになってしまっていたのです。自分のあまりの無力さにフォントは絶望しますが、しかし一方で死んだとばかり思っていた仲間が生きていた事実に救われもしました。現代人として理想的な能力を身に着けている彼ですら、世界を予測などできはしなかった。「ネタバレ」することはできていなかったのです。
4.人生はネタバレだらけだけど
「美術部の上村が死んだ」の上村は間違いで死にかけ、それが間違いだから現世に戻されました。しかしこの経緯から分かるように、上村の知った運命は絶対的であっても間違い得るものです。間違ったまま死にかけたのならば、間違ったまま生きることだってありえない話ではない。ブレは、可能性はいくらだって存在し得る。
私達人間は神様ではないから限界を抱えています。どれほど足掻いても変えられないものはある。しかし幸か不幸か、私達はその限界を見極められるほど賢くない。変えられると思っているものが変えられないことはきっと山ほどあるけれど、変えられないと思っているものが実は変わるものである可能性だって世界には秘められている。それは、精緻な考証を元に未来を描いた作品で「これは変わらないだろう」と思われてそのままだったものが時代と共に呆気なく変わっていることからも言えます。先に挙げた「プラネテス」でも1話で「お局やセクハラオヤジに会っても逆らわない」なんて忠告が出たりしますが、今となってはこれが2003年的価値観なのは言うまでもないでしょう。
世の中思うようには変わりませんが、一方で思うよりもずっと変化している。生きることはきっと、ウンザリするようなネタバレを味わうことと、それがただのうぬぼれに過ぎないと思い知らされることの繰り返しです。上村のケースほど強烈ではなくても、私達はそこに絶望と希望の両方を味わっていく。
絶望を味わう度に死に、希望を見つける度生き返る。人生とは案外、そういう生き死にの繰り返しなのかもしれません。