黒のリアリティ――「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」レビュー&感想

(C)2023「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」製作委員会 (C)LUCKY LAND COMMUNICATIONS/集英社
岸辺露伴は動かない」のテレビドラマ化の好評を受け映画上映となった「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」。本作から見えてくるのは、人と過去の消せない関わりだ。
*バリバリのネタバレです。
 

 

1.『ヘブンズ・ドアー』と黒い絵

ジョジョの奇妙な冒険」に登場する漫画家・岸辺露伴を主役とした短編漫画シリーズ「岸辺露伴は動かない」。本作はその流れを汲む「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」の実写映画化作品であるが、そこでは「この世で最も黒い絵」という興味深いアイテムが登場する。最も邪悪な絵ともされるそれは見た者の後悔や先祖の罪といった過去を映し出し、相手を死に至らしめるのだが――私がこの絵に感じたのは「似ている」ということだった。何にと言えば、岸辺露伴のスタンド(超能力)『ヘブンズ・ドアー』にである。
 
ジョジョ」に由来するこの能力は本映画では冒頭で披露されており、露伴は2人の骨董屋(実は盗品の美術品を売り捌いている)に『ヘブンズ・ドアー』をかけて彼らを本に変えてしまう。人間が変化した本にはその相手の赤裸々な真実が記されており、また文字を書き加えればその通りの行動を取らせることも可能だ。露伴はこの本から得られる情報にインタビューよりもよほど「リアリティ」があると語るわけだが、このリアリティにこそ黒い絵との共通点はある。黒い絵が見せる後悔や先祖の罪は劇中描写されるように幻覚に過ぎないが、目にした人間にとっては現実そのもの。銃傷や身体の発火といったものまで起こさせてしまう強い思い込みとはすなわち、インタビュー等を遥かに上回る「リアリティ」に他ならないのである。
 
ヘブンズ・ドアー』と黒い絵はよく似た性質を持っている。そう仮説を立てた時、黒い絵が収蔵されるのがルーヴル美術館であるのは象徴的だ。言わずと知れたこの世界最大の美術館は周るのに数日かかるほど広く、近年になって新たに作品が発見されるほど膨大な品が収蔵されている。増して本作のルーヴル美術館の最奥に秘されていたのは先に挙げた黒い絵であり、そこへ行くことは膨大な人の記憶と過去の海に潜るに等しい。露伴が黒い絵を追ってルーヴル美術館へ行ったのが個人的な記憶に基づいていたことも踏まえれば、今回の映画は露伴の記憶と過去に潜るものだったと言えるだろう。
 
 

2.黒のリアリティ

「この世で最も黒い絵」について、露伴には古い記憶があった。漫画家としてデビューしたての頃、かつては旅館だった祖母の家に下宿している際に出会った奈々瀬という女性にこの絵について聞かされたのだ。露伴は彼女に惹かれるものを感じていたが、奈々瀬は自分の黒髪を美しく模写しようとする露伴に激怒してその絵に刃物を突き刺すなど不可解な行動を繰り返し、その後姿を消してしまった。祖母に尋ねても要領を得ない回答しか帰ってこず、露伴自身もあれは夢だったのではないかと思うほど。しかしふと彼女とその絵のことを思い出した露伴は紆余曲折を経てルーブルを訪れ、騒動の果てに黒い絵は燃えてこの世からなくなることとなった。絵を目にした彼が見たのはなぜか黒い絵を描いた山村仁左右衛門であり、更に不可思議なことにそれを止めてくれたのは奈々瀬であった。
 
帰国した露伴は奈々瀬と再会し、『ヘブンズ・ドアー』で記憶を読ませてもらい彼女の正体を知る。奈々瀬は仁左右衛門の妻であり、露伴とよく似た容姿の仁左右衛門は250年前に悲劇に見舞われ怨念の籠もった「この世で最も黒い絵」を遺しこの世を去っていた。露伴が会った奈々瀬とは、嫁入り前は岸辺家の娘、すなわち露伴の祖先であった彼女が絵の怨念を止めるべく現れた霊魂だったのである。
 
奈々瀬は露伴を巻き込んでしまったことを詫びる。幸いにして事態は丸く収まったが、露伴が危うく死にかけるところだったのだから奈々瀬が申し訳なく思うのは当然だろう。かつて彼女が姿を現さなければ、露伴ルーヴル美術館へ黒い絵を探しになどいかなかった。奈々瀬の謝罪はつまり、『ヘブンズ・ドアー』がそうするように露伴という本に書き込みを加えたことへの謝罪と言える。しかし、露伴は奈々瀬の行動に怒りはしなかった。彼にとって、奈々瀬との思い出はけして否定するものではなかったからだ。あの出来事も間違いなく自分を構成する過去の一つであり、けして不自然に書き加えられたものではない。自分という"作品"は、後悔や先祖の罪も全て踏まえた結果として存在すると露伴は語ってみせたのだった。
 
事件は終わり、露伴は漫画を描く日常へ戻っていく。しかしエンドロールの直前、露伴の部屋にどこからか舞い込む原稿は不可思議にして印象的だ。舞い込んだのは、かつて露伴が奈々瀬をモデルにした女性を描いた漫画の1ページ。そこには奈々瀬に突き立てられた刃物の跡が無いが、先に触れた露伴と奈々瀬の会話を振り返ればその理由はなんとなく見えてくる。
奈々瀬にとって、露伴が自分をモデルに絵を描くことは彼が仁左右衛門に近づくことであった。自分の「書き加え」がいかに業の深いものか突き付けるものでもあり、刃物を突き立てたのはその不自然さに耐えられなかったのかもしれない。けれど露伴が言ったように、彼の描いた絵は間違いなく露伴自身から生まれたものなのだ。刃物を突き立てるような呪わしいものでは――"作品"ではない。だから原稿は露伴の手元に帰ってくる。奈々瀬が解放された証として、そして露伴の作品に敬意を払った証として。
 
露伴は冒頭で盗人の骨董商を本に変えた際、警察ではないからと断罪こそしなかったが「全ての作品に敬意を払え」とだけ書き加えた。本稿で何度か比喩に用いているように、"作品"は必ずしも美術品とは限らない。過去とは人がどのように生きたかという"作品"であり、そこには善悪正否とはまた別の部分で尊重されるべきものがある。罪や過ちは消すものではないし、「正義のために戦った」だとか「実は有能だった」だとか正当化せずとも受け入れることはできるはずだ。
 
「全ての作品に敬意を払え」……現実には『ヘブンズ・ドアー』は存在しないが、それでもこの言葉だけは本作を見た私達の脳裏に黒インクで記される。過去への敬意こそは、「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」が私達という本に唯一つ書き込んだ黒のリアリティなのだ。
 
 

感想

というわけで岸辺露伴の実写映画のレビューでした。正直に言うと、この映画を見るつもりは全くありませんでした。4~6月は土日レビューの予定が埋まってるので映画を見る余力に乏しいし、そもそもテレビドラマ版を見ていない。評判はいいみたいだけどまあ、という感覚で。でも先日、この映画の私のレビューを読みたいと言ってくれる声を見かけまして。そんな風に人に求めてもらえる機会なんて、望んでもそうは得られない。ドラマやアニメのシリーズはちょっと無理だけど映画1本ならなんとか……と映画館に足を運んで見ることにしたのでした(さすがにこれ以上は無理)。
 
漫画のジョジョと同じ雰囲気を感じたか?と言えば同じ雰囲気は感じていないと思いますが、一方で高橋一生さんが演じているのが岸辺露伴であることに異論はなく。好評を受けた理由が少し分かったように感じました。リクエストをくださった方、貴重な機会をありがとうございました。
 
 
<いいねやコメント等、反応いただけるととても嬉しいです>