己は中間にあると知れ――「犬王」レビュー&感想

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古川日出男の小説を原作に湯浅政明が生み出したアニメ映画「犬王」。劇中にはこのような台詞が登場する。「自分達がこの世にいたことを誰かが知るだけでいいんだ。それで報われる」……はたしてこの「自分達」とは何を指しているのだろう?
 
 

 

 
 

1.中間に立つ者

本作のタイトルである「犬王」とは室町時代の猿楽の名手だ。観阿弥世阿弥に伯仲する人気を博したとされる彼の芸はしかし現代にはほとんど残っていない。謎に満ちたこの人物を架空の琵琶法師・友魚(ともな)とコンビを組んだポップスターとして造形し、絢爛たるミュージカルアニメに仕立て上げているのがこのアニメなわけだが――歌い踊る彼らの姿を「全く新しい」ものとして受け止める人はあまりいないだろう。犬王の猿楽はロックを始めとした現代音楽を室町時代に置き換えたものだし、熱狂する観衆の姿も今で言う野外フェスと同様の内容で描かれている。室町時代に現代音楽をやれば斬新ではあろうが、描写自体はむしろ既視感に満ちている。だがこれは半端な失敗なのか?と聞かれれば私は否と答える。既視感に満ちてはいても、それを室町時代でやろうという試みは今まで見られたものではない。本作は新しいだけでも古いだけでもなく、その中間・・にこそ位置していると言える。
 
中間であること。これは室町時代の現代音楽というミュージカル要素に限らぬ、もっと様々な部分で見られることだ。例えば主人公の犬王は人間だが、芸を至上とする父親によって化け物に捧げられ異形の姿を持って生まれてきている*1。また友魚はかうて平家の遺物引き上げを生業とした一族の息子であったが、壇ノ浦に沈んだ草薙の剣を拾い上げたことをきっかけに視力を失い琵琶法師になった経緯を持つ。人でありながら常人と同じには扱われず、またその限られた感覚器から常人とは違う世界の捉え方をする力を備えた二人は人と人あらざるもの(神や霊)の「中間」に立っている。
また本作の原作は「平家物語 犬王の巻」であり平家の存在も重要な鍵となっているが、舞台となるのは既に触れたように室町時代だ。つまりこの作品そのものもまた現代と平家物語の時代の「中間」に立っている。
 
中間に立っていることは力だ。犬王と友魚は人と人あらざるものの中間に位置するが故に平家の亡霊の声を聞き、後世正本として伝わる以外の「平家物語」を引き出すことができる。神道ではかつて障害を持った者には特別な力が備わっていると考えたそうだが、つまり本作や神道において障がい者は中間に立つ者=「人と違うことができる人」として位置づけられていると言えるだろう。彼らはけして、行儀よく謙虚に振る舞う代わりに常人から生きる権利を施してもらうような"弱者"ではないのだ。考えてみれば社会的には障害を持たないとされる人間にしても得手不得手はあるわけで、それは障害とどれほど違うというのだろう?
 
 

2.己は中間にあると知れ

中間に立つことで得られる力。これを最大限に活かして犬王と友魚はスターへの階段を駆け上がっていく。友魚が改名して開く「友有座」は犬王の父の比叡座を凌ぐ評判を獲得し、最初は六条の橋の上だった舞台は清水寺などへとスケールアップしていく。このサクセスストーリーは室町幕府将軍・足利義満の花の御所での猿楽披露で絶頂を迎えるが――同時にこれは終わりの始まりであった。斬新な芸が乱脈の元となるのを恐れ統制を重んじた義満は、正本以外の平家物語を禁じてしまったのだ。友有座は取り潰しとなり友有(友魚)は処刑、犬王は伝統に則った猿楽だけを踊り歴史の影に消えていった。
 
栄華を極めた先に無惨な終わりを迎える。二人の末路は彼らが歌い踊った平家物語をほうふつとさせる部分があるが、ここで注目したいのは犬王の肉体だ。先に書いたように彼は異形で生まれそれ故に亡霊の声を聞き届ける力を持っていたが、それを元にした猿楽を披露する度に彼の体は常人と同じものに戻っていった。脚、腕、背中……そして花の御所での舞を終えた時、平家の亡霊は全て成仏し彼の体も全く常人と同じものに戻る――つまりこの瞬間、彼は中間に立つ者としての力を失ってしまったのである。最後まで抗い首を落とされた友有と異なり、犬王が権力者に媚びへつらって生を終えたのは当然と言えば当然だろう。同じがごとき経歴と成功を掴みながら、二人の末路は両端のように対照的なものとなってしまった。だがここで少し考えたい。両端にいるなら二人の間には「中間」が存在するのだ。
 
物語の最後、時は流れ現代に移り、彷徨っていた"友魚"の亡霊は再び犬王の霊と再会し共に初めて会った時の幼い姿に戻る。友魚の琵琶に犬王が楽しく踊ったかつてに戻る。そんなことができるのは、その思い出が二人の「間」にしかないからだ。どのような結末を迎えようと、それが「中間」にあることだけはけして損なわれなかった。
 
だいぶ遠回りをしてしまったが、話をまとめよう。本作はけして全く新しい物語ではなく、むしろ新しさと古さの中間に立っている。そして中間に立つことには力がある。……両端にあるものを引き合わせる力がある。
既に書いたように、ミュージカルアニメとしての本作は室町時代で現代音楽をやるという中間的なものだ。猿楽であるが故にその中間性は曲調に留まらず、舞台演出まで含めたものになる。眼を見張るような現代的な演出も、当時の技術でだってやってやれないものではなかったのだ。なら私達が現代新しく生み出されたと思っている数々の物事や理念にしても、語られていないだけで本当は過去に既にあったのかもしれない。逆に現代あっても後世に語り継がれないものは多くあろうが、それにしても未来でふとした拍子に誰かの新たな発見として蘇ることもあるかもしれない。新しいとか古いとか言われているものは本当は過去にも未来にもあって、私達はいつだって「中間」に立っているに過ぎないのだろう。
 
「自分達がこの世にいたことを誰かが知るだけでいいんだ。それで報われる」……劇中、平家の亡霊の望みを犬王はこう語る。正本に語られざる彼らの物語を犬王は猿楽にしたが、それは権力者によって禁じられ後世に残ることはなかった。犬王自身にしても名前以外はほとんど忘れられ、本作で描かれているのはあくまで架空の人物に過ぎない。私達は彼らの実像をつまびらかに知ることはできない。だが、想像することはできるはずだ。
私達はこの物語を通して、語られざる無数の物語があったことを想像できる。記録されていないだけで、現代と同じような悩みも挫折も成功もあったし今後もあることを想像できる。それは自分達が過去の人間より賢いなどといううぬぼれへの戒めであり、同時に語られざる者達へのせめてもの鎮魂ともなり得るものだろう。知ることはけして、知識で覚えることに限らないはずだ。
 
私達はいつだって歴史の中間に立っている。繰り返しの中にいる。この世にいたことを知られるべきは、語られることなく消えていく者達の存在そのもの・・・・にこそあるのだ。
 
 

感想

というわけで「犬王」レビューでした。湯浅政明監督作品とは縁遠い人生を送ってきた人間でして、レビューを書くのはこれが初めてになります。「夜明け告げるルーのうた」は1度レンタルで見たことがあるのですが、その時は自分の中でまとまらず文章にできませんでした。
 
なんとも感覚に訴えかける作品で、もともとアニメというのが絵と音の両方――中間に立っているものなんだというのを強く感じる視聴時間でした。それを無理やり言葉だけで現してみようとするレビューとは無謀だし無粋な試みでもありますが、それによって少しでも感覚を研ぎ澄ませたら、と思います。貴重な時間をありがとうございました。
 
 

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*1:手塚治虫の「どろろ」を連想させながら全く同じではない点も"中間"的