綻びから輝き出す「平家物語」。3話では絶頂の陰に破綻の予感が現れ始める。それに抗う重盛の放つ輝きは、いったいどんな力に拠っているのだろう?
1.綻びの足音
宗盛「されど、武士が武芸でなく美しさを讃えられるのはどうかと思いますがの」
副題通り、平家の栄華に綻びの出始める鹿ヶ谷の陰謀が描かれる3話だが、それに限らず今回は様々な綻びが描かれる回だ。策謀などはありつつもどこか憎みきれず親しみの感じられる造形で人々を描いてきた本作だが、今回はびわにはっきり「嫌な感じ」と言われる清盛の次男・宗盛が登場する。彼は立場としては重盛の弟だが正妻の子であり、優秀な兄重盛をやっかんでおり、その登場はホーム・ドラマとしての本作の状況の綻びだと言える。また平家の更なる発展の力となるはずだった徳子の入内は6年経っても御子の懐妊に結びつかないなど、物事は必ずしも平家の思うがままとはいかなくなっている。
重盛「しかしながら西光殿、それでは明雲殿も延暦寺の僧達も納得せぬかと」
綻びが見えれば人はそれを繕おうとする、辻褄や釣り合いを取ろうとするのが常だが、それがなかなか上手く行かないのもまた常だ。加賀国を治める藤原師高の弟師経が延暦寺の末寺を焼いた騒動を重盛は仲裁しようとするが、二人の父は後白河法皇の側近・西光であり法皇は彼らの処罰に乗り気になってくれない。とはいえ立場上、業を煮やした延暦寺の僧達が強訴に出れば重盛は矢面に出ざるを得ないし、またできるだけ僧達を傷つけないよう指示してもやはり死者は出る。あろうことか兵士達の矢は、神の依代であるから絶対に射てはならぬと命じた神輿にも数多刺さってしまった。
これまでも重盛はずっと、平家の横暴に対して辻褄や釣り合いを取ろうとしてきた。その綻びを繕おうとしてきた。しかしそれは最早、弥縫策としての機能すら失いかけている。
2.弥縫の先へ行くには
後白河法皇「倒せると思うか、平家を?」
重盛が力及ばぬように、辻褄や釣り合いを取るのは難しく、むしろそれ自体が綻びを生むことも珍しくない。これは平家に限ったことではなく、問題の鹿ヶ谷の陰謀でも同様だ。愛妻の滋子を失い平家との関係が良好とは言い難い後白河法皇は、鹿ヶ谷で側近の西光や俊寛、藤原成親等と共に平家打倒の密議を進めていた。朝廷の武力も権力も平家が握る状況に対し、俊寛は一つの対抗手段を提示する。
俊寛「ならばその平家に抗するには、源氏の力を頼るしかありませぬな」
平家に対抗するために源氏を頼る。彼は並び立つもう一つの武士の名家によって平家の専横と釣り合いを取ろうと言うのだ。同調した側近も瓶子(へいじ)を平家に見立てて倒したり首を落としたりと辻褄合わせ盛り上がる――が、この様子に恐れをなした密告者によって西光達は捕えられてしまった。辻褄や釣り合いを取ろうとして、かえって綻びを大きくしてしまったのだ。この点で彼らの失敗もまた、重盛のそれと同質なのである。
辻褄を合わせたり釣り合いを取ろうとしても、人は破綻から逃れられない。重盛はこれまでも平家の罪を自分の物語として語り直すことで釣り合いを取ろうとしたが、兵士たちが厳禁した神輿に矢を射てしまったように人は他人の言葉を正確に語り直すことはできない。正確に語り直せなければそこには齟齬が生まれ、綻びに繋がってしまう。ではどうしたらいいのか?――ヒントは今回の端々に示されている。
3.綻びを以て辻褄と成す
徳子の入内から6年という言葉のおかげで非常に分かりやすいが、この3話は2話から実に6年後の話だ。その間に後白河法皇の妻滋子は亡くなり、重盛の息子達は皆背も伸びている。しかしただ一人びわだけは、1話の幼い少女のまま変わっていない。徳子も不思議なくらいと言うようにこれは明らかにおかしい。辻褄が合っておらず綻びている。しかし、相応に成長していればそれで良かったのだろうか?
徳子「びわも変わりなさそう……不思議なくらい」
アニメオリジナルのキャラであるびわの特徴の一つは"縛られない"ことにある。性別に、役割に、原典・原作に彼女は縛られない。少女でありながら男の格好をし、重盛達に対等な口の聞き方をし、架空の存在であるがゆえに末路も定められていない。無力さや宗盛への嫌悪感のような素直さも含め、視聴者が作品世界に入り込むための依代がびわという童女なのである。もしこの時代の相応に成長し礼儀や身分をわきまえれば、彼女は視聴者の代弁者ではなく単なる根無し草になってしまう。あるいはその発言が具体的な力を持つようになれば、監督や脚本家のでしゃばりとして嫌悪する声も強くなるだろう。
びわはあくまで、本来そこにいないはずの人間であるからこそ本作の中に溶け込んでいる。綻びているから辻褄が合っている のである。
資盛「出来のいい真面目な長男は、弟からすれば目の上のコブなんだよ」
完璧であることは、辻褄や釣り合いが取れていることは必ずしも幸せを呼ばない。例えば文武両道にして誰もが認める人格者であるからこそ重盛は清盛から面白くないと言われ、宗盛からやっかみを買っている。逆にその息子維盛は舞が美しい一方で怖がりであり、故に資盛は彼に劣等感を抱かない。本作の描き方が重盛達平家の者に親しみを抱くようになっているのも、彼らが完璧な人間ではない――あるいは時代や役割の求めに完璧に応じた人間ではない――のが大きな一因であろう。
重盛「しかしながら今私が法皇様に忠を尽くせば親の恩に背くことになります。忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず。私の進退はここに極まりました」
綻びや破綻は破滅ばかりでなく、時には逆に辻褄や釣り合いをもたらしもする。西光達同様に後白河法皇まで捕えようとする清盛に対し重盛は、自分も父を討つための兵を集めていると告げ制止する。子が父を討つ孝への大逆に清盛は激怒するが、しかし討たなければ法皇に対する忠への大逆だと相対化されてしまえばその論理破綻に逆らえない。
重盛「父上、ここを動かれるなら私の首を刎ねてからにしてください」
重盛は後白河法皇と平家の破綻に対し、弥縫ではなくより大きな綻びでもって辻褄を合わせた。逃れ難き駒の不自由さを描いた前回に対し、重盛は駒としての不自由を極めることで自由を獲得したのだ。
かくて重盛の物語はここに一つの頂点を迎える。では、この先に待つものは果たして?
感想
というわけで平家物語の3話レビューでした。1日遅れですみません、というかこれやっぱ1日で書ける気がしないなあ。1話で見出したテーマは多くの場合全体のテーマに通じるものなのですが、「別なる語り手」というのは便利過ぎて濫用しかねない代物。なのでちょっと距離を置いて考えていきたいと思います。
今回は重盛が清盛を諌める場面が本当に格好良くて……レビューでも書いたように、これは駒でしかない自分への反逆なんですよね。1話で重盛をある意味で非人間的と書きましたが、平家物語における重盛は暴虐無道の清盛へのカウンターで道徳的な脚色がされているので元々半分びわみたいな人物なわけで。原典・原作通りの道徳の駒にしたらそれこそ「面白くない」人物になっているところ、こんなにも人間味にあふれた存在にしているのは筆致の妙だと思います。
徳子の描写などもそうですが、色々な形で自由を求める物語なのだというのを感じました。びわが大きくなれないのも駒としての不自由さの内と言えるのじゃないかと考えると、彼女もすごく哀れだ。しかしいやー、次回が怖い……
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綻びを以て辻褄と成す――「平家物語」3話レビュー&感想https://t.co/jupEOjcccc
— 闇鍋はにわ (@livewire891) January 28, 2022
死中に活を求めるとはどういうことか。#平家物語#heike_anime #heikemonogatari#アニメとおどろう