沈む原点――「平家物語」7話レビュー&感想

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©️「平家物語」製作委員会
帰り道の見えない「平家物語」。7話では都が福原から京に戻されるが、それで全てが元には戻らない。原点に立ち返るのはそれほど簡単なことではない。
 
 

平家物語 第7話「清盛、死す」

源頼朝が、遂に後白河法皇院宣を受けて挙兵。維盛率いる平家の兵は富士川の戦いであえなく敗走する。
半年とおかず福原から京に戻ってきた平家一門は南都の僧たちからも朝廷からも警戒され、ますます孤立していく。
年が明け、高倉上皇が危篤状態に陥る。清盛は徳子に今後の身の振り方を提案するが……。

公式サイトあらすじより)

 

1.戻れぬ故郷

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©️「平家物語」製作委員会
敦盛「それにしましても、よもや半年で戻ってくるとは」
清経「ですが、やはり都はここですね」

 

 
前回も今回も言われているが、福原への遷都は清盛以外ほとんど誰も望まぬものだった。前回はそれを受け入れていた清経も「やはり都はここ(京)ですね」と口にするのを見れば、決定打となった比叡山からの懇願に限らず相当な不平不満が集まっていたのは想像に難くない。そして、都を元に戻せば全てが元通りになるわけでもない。
 

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©️「平家物語」製作委員会
徳子「無理にでもとおっしゃるなら、出家いたします」
 
例えばこの7話では高倉上皇が死を迎えるが、健康を害したのは言えば遷都の際のことだった。京に戻っても、その体調は元には戻らなかったのだ。またその妻である徳子は嫁入りの際は父清盛の命に唯々諾々と従ったが、高倉上皇の死後は後白河法皇後宮に入るようにとの指示には出家すらチラつかせて反対する。夫が亡くなれば娘が元の駒に戻るわけではないというのは、図式としては都を元に戻しても全てが元通りにならないのと同じものなのだ。
 

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©️「平家物語」製作委員会
資盛「それに、我らがここで何を話そうと南都は元には戻りませぬ」
 
過ぎ去った時と同じように、あらゆるものは元には戻らない。争うつもりはないからと非武装で家人を遣わしても、焼き討ちされた園城寺の例から興福寺の僧はこれを信用せず家人達を晒し首にしてしまう。またこれを発端とした戦では戦火で興福寺はおろか東大寺までもが焼け落ちてしまうが、どれだけ嘆こうと一度焼けたものが元に戻らぬのは劇中で資盛が指摘した通り。全く元通りにならぬと気付いた時、人はどこに戻ろうとするのか?……それは"原点"だ。
 

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©️「平家物語」製作委員会
びわ「徳子にも見えるとよいのにの」
 
原点というものは、土地やもののように手で触れられる、あるいは目に見えるとは限らない。故に、形としては失われていても人はそこに立ち返ることができる。高倉上皇が生前残した感謝の言葉を、その死後になって徳子がようやく自分の中で意味づけられたことなどはその典型だ。男女の愛ではなくともそこに家族の姿は確かにあるのだと、徳子と安徳天皇に寄り添う高倉上皇の御霊を映し「目に見える」形にしてみせることでびわの瞳は教えてくれる。清盛や後白河法皇にも物怖じせず物を言う彼女の心の強さは、本作の登場人物の中でも群を抜いている。
 

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後白河法皇「しかしのう。そなたはもう、無間の泥の中に引きずり込まれておるのだ」
 
だが後白河法皇は徳子が去った後、その心胆を否定こそしないが彼女が既に「無間の泥」に引きずり込まれていることを指摘する。この無間の泥とは一体、何を指すのだろう?
 
 

2.沈む原点

既に述べたように、人は原点に戻ることで時空を超越した力を手に入れることができる。しかし今回原点に帰っているのは、けして徳子だけではない。
 
 

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重衡「燃えて……おる」

 

今回は興福寺東大寺といった南都の仏閣が焼き討ちに遭うが、これを行ったのは以仁王の乱の際も園城寺を焼いた平重衡であった。無論、重衡は望んでこれらを焼いたわけではない。園城寺の二の舞にならぬようよくよく注意して夜戦の灯りを採るよう命じたにも関わらず、いっそう酷い結果に陥ってしまったのである。自分の罪に恐れおののく重衡は正月に敦盛が訪れても顔を合わせぬほど念仏を唱え、しかしそれでも清盛の葬儀の際の夕「焼け」に炎上を連想する。
 
また、維盛は父重盛に祖父清盛という平家の柱(原点)の死に動揺しびわに未来視を乞うが、弟資盛にその心性が富士川での敗戦に繋がるものだと言われれば良くも悪くも冷静になってしまう。かつては落ち着きや優しさに裏打ちされていたはずの重衡や維盛にとって、いまや原点は焼き討ちや己の不甲斐なさに移り変わってしまっている。
 

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資盛「父上が亡くなられた時に追い出しとけばよかったんだ!ここにはもうとっくに、お前の居場所はないんだからな!」
 
京を忘れられず戻ってきても、全てが元通りにはならなかった。人は原点から離れられないが、同時に、原点とはいつの間にか変わっていくものだ。
維盛をなだめた後で資盛はびわに平家から出ていくように言い、その瞳やびわの音がずっと嫌いだったのだと言い捨てる。資盛とびわの仲が最初は険悪だったことを考えれば、これは原点に帰った発言だと言えるだろう。だが今の資盛のこの言葉が文字通りの意味でないことを、彼と何年も共に暮らしたびわは知っている。そういう突き放した言い方をしなければ自分は平家と運命を共にしてしまうと資盛が心配してくれたのが分かるほど、彼女の中に平家の人々は根付いている。父を無残に殺しされた恨みを"原点"として始まったはずの平家での生活は、いつのまにか発端の清盛や重盛からすら離れてそれ自体がびわの"原点"(=居場所)になっていた。
 
 

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©️「平家物語」製作委員会
人は原点によって強くなり、同時に束縛される。いつの間にか変化・変質してしまうその性質に気付けなければ、いずれ待っているのは原点を忘れないようで単なる傀儡になる運命でしかない。新たな世の理想という原点を忘れぬ清盛が悪逆非道と呼ばれるようになった姿はそれそのものが「無間地獄」であり、ならば夫が遺した子への愛を原点に強く生きようとする徳子も既に「無間の泥」の中に引きずり込まれていると後白河法皇が評するのは自然なことであろう。
 

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©️「平家物語」製作委員会

誰も彼もが泥の中に引きずり込まれていく。ただ一人、平家を離れるびわを除いて。

原点を守り強く生きようとする時、人は既に泥沼の中に落ちているのだ。
 
 

追記

原点を守ろうとすればむしろ泥沼に落ちることになる、というのは古くは「伝統」、昨今で言えば「原作再現」などについても言える。かねがね触れているが本作はびわの登場を初め原作のテイストを必ずしも守っておらず、それはこうした泥沼からの脱却を意図したものであると見ることも十分可能であろう。また、既に自分の原点となっている平家をびわが離れるのもこうした作りと同期した展開と言える。ならば語り部となることを予想されるびわが平家と行動を共にしないことは、彼女が答え(おそらく「自分にできること」)を探す上で必要にして欠くべからざるものなのだ。
 
 

感想

というわけでアニメ平家物語の7話レビューでした。地獄からたくましく抜け出ているような徳子が、しかしやはり束縛の中にいるというのがなんとも絶望的な感があってため息をついてしまいます。同時に、資盛とびわの関係が改めて好きだなあと……
 
レビューの中では書きこぼしましたが、びわが福原で飼い始めた猫は前回損なわれた維盛の優しい心であり、平家を離れたびわにとって往時の"原点"を思うための依代なのだと思います。この猫も今後どういう役割を担ってくるんでしょうか。びわの立ち位置が大きく変わることでの新展開にも注目していきたいところです。
 
 

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