ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン 第8話「フー・ファイターズ」
(公式サイトあらすじより)
1.F・Fの示すもの
徐倫「コイツは生き物だ。DISCで能力を与えられた、水の中で生まれた生き物!DISCの番人は人間じゃあなかったのよ!」
快楽殺人者から赤ん坊、犬や隼に至るまで多種多様なスタンド使いが登場してきた「ジョジョの奇妙な冒険」だが、今回はその中でも特に個性的なキャラクターが登場する。「フー・ファイターズ(以下F・F)」……ホワイトスネイクのDISCをきっかけに生まれた、なんと知性を持ったプランクトンのスタンド使いだ。陸上での活動に必要な水分保持のために被っていた囚人の肉体を脱ぎ捨てたその実体は明らかに人間とは別物で、故にそれを見たエルメェスはこれもスタンドなのかと最初は勘違いしてしまう。DISC奪取のため敵スタンドの「本体」を突き止めようとした徐倫達だったが、本体の発見は事態の打開と直結してはいなかったのである。
エルメェス「な、なんだコイツラは!3人ともなのか!?どういうことなんだ!本体はどいつだ!?」
私達は目に見える違いや敵対者への対応が問題解決の道筋だと考えがちだが、視覚できる情報は大きくとも全てではないしバイアスと無縁でいられない。
本体は3人の誰か1人だけに違いないというのも、敵の射程距離やパワーがスタンドの性質と一致しない謎も、目に見える相手が異形だからスタンドに違いないというのも思い込みのバイアス故の勘違いだった。F・Fの登場は、フィクションである漫画を読む時すら私達が勝手に世界を決めつけているのだと教えてくれる良い例だと言えるだろう。
2.知恵比べの先
徐倫「いえ、もうあなたの負けよ。この床の上に水を撒き散らした、あなたが作ったこの状況、故に既に……」
勝手に決めつけた世界から抜け出すことで、人は可能性を広げることができる。今回の――いや、ジョジョのバトルは概ねその応酬だ。DISCと看守の二択を二手に分かれて回避したり、相手に水をかけることでF・Fが陸上でもエルメェスを襲えたり……そしてシリーズの歴史が証明するように、こうした戦いで主人公たるジョジョを上回る敵は基本的に存在しない。
今回も徐倫は敵に追い込まれたように見せて状況を利用しており、守るべきDISCを奪われたF・Fは自分の水分が失われるのも構わず畑の上を走って瀕死に追い込まれてしまう。「知恵比べは徐倫の勝ちだ」というエルメェスの言葉は当を得ている。しかし知恵とは、知とはそうやって誰かと比べて勝つためだけのものではないはずだ。
徐倫「水をあげるわ。なんていうか……助けるのよ」
トドメを刺そうとするエルメェスを徐倫は止め、驚くべきことに水を与えF・Fを助けようとする。既に5人もの人間を殺し、人間からはかけ離れた異形を持った文字通りの怪物を味方に引き込むなどと考えた読者がどれだけいただろう? 少なくとも私は、「昨日の敵は今日の友」的展開をこれまで多くの作品で目にしたくせにF・Fが仲間になるとはつゆほども考えなかった。こんな「目に見えて」化け物のような相手が仲間になるわけがないと、そう決めつけていた。しかし徐倫はそうしなかったのだ。
命がけの戦い、事実殺されかける戦いをしながら、徐倫は相手のことをちゃんと見ていた。F・Fはけしてホワイトスネイクの人形ではないこと。彼にとって大切なのは自分を生み出したDISCの存在そのものであり、ならば必ずしも殺し合う必要はないこと。自分と相手が、対等に取引を行える存在であること……憎悪にかられておかしくない間柄でありながら、彼女はF・Fの本当の姿を洞察していたのである。
3.本体と正体
F・F「お前の気持ち……なんだかよく理解できないがもう戦う気がしない。そして私の負けだ、完璧に」
自分を敵でも単なる人外でもなく対等の存在として見る徐倫の言葉に、F・Fは心からの敗北を認める。世界にはビッグバンの前から知性が存在していたというフレッド・ホイルの説を紹介したり、倉庫へやってきた徐倫の気持ちが理解できないと述べたり、これまでF・Fにとって知性とはもっぱら論理を中心とした明晰なものだったのだろう。だが分からないことを分からないまま受け止めるのも知性がなければできることではないし、そうした理解は時に論理的な理解よりも深く人に染み入りもする。だからこそF・Fは論理ではなく感情に従ったのだろう。
本作5部に登場した敵キャラクター・ペッシは『兄貴の覚悟が!「言葉」でなく「心」で理解できた!』という名言を残している。F・Fの敗北宣言もまた、性質としてはこれと同じものだ。
徐倫「いや……実を言うとさっぱり見当もつかないわ。だから3人ともぶちのめす!」
論理というのは言語の形で目に見えるものであり、故にいかにももっともらしく見える。いや、もっともらしく見えれば人はそれを勝手に論理的だと思ってしまう。SNS上の「議論」にしても、自説を強く言い切ったり相手を嘲笑って自分をもっともらしく見せる術に長けた者が識者として支持を集める時代だ。しかし徐倫は論理では結局3人の囚人の誰が敵スタンドの本体なのか突き止められなかったし、そもそもプランクトンの集合体であるF・F相手には誰が本体かという推論自体が半ば無意味だった。
エルメェス「ったく、お前ってやつは……」
ちっぽけな人間が理解できる論理などたかが知れているし、そこから見つけ出す「本体」は往々にして間違いを含んでいる。しかしそうした間違いや不正確さを抱えたままでも時にそれを乗り越えられるのが人間……いや知性ある者の力というものだろう。徐倫は戦いながらもF・Fがけして手を取り合えない相手ではないことを見抜いたし、F・Fは徐倫の気持ちが論理としては理解できずとも彼女を受け入れた。二人は知性を戦いではなく理解に用いることで、相手の本体ではなく「正体」とでも呼ぶべきものを掴み取ったのだ。
プッチ「もう少し。私は日曜の礼拝まで泊まり込みの宿直ですから……」
論理でいかに相手の本体を見抜いたところで、その正体を掴めなければ意味はない。仲間になったF・Fの話で徐倫はホワイトスネイクの目的が承太郎のスタンドDISCではなく記憶DISCにあることを知り、私達視聴者に至ってはその本体がエンリコ・プッチなる神父であることすら知った。しかし承太郎の記憶DISCから何を企んでいるのか、何を目的としているのか理解しない限り本当の意味で彼を知ったとは言えない。徐倫と私達は、プッチ神父の本体ではなく正体に迫らねばならないのである。
感想
というわけでアニメ版ジョジョ6部の8話レビューでした。「本体と正体」という見立ては早々に浮かんだのですが、書き始めてみると話はF・Fの言う知性の方に。あれこれ脱線しちゃった?とも思いましたが結局は当初の見立てに収束していきました。
原作既読なんで展開そのものはとっくに知ってて感情的な反応が鈍ってる部分もあるのですが、こうやって噛み締め直してみると徐倫の行動はとても尊いものなのだと感じます。エートロの体で活動することにしたF・Fが急に正体バレバレな動きを見せるのも、徐倫という甘える相手を見つけられたからというのがあるのかなあ……僕にとってレビューを書くというのは「心で理解しようとする」「正体を掴もうとする」試みなんだと思います。
最近はSNS上の「議論」はあらゆる事象がいかに勝敗に寄与するかだけで判断され、そこで磨き上げられるはずの中身はどんどん空洞化しているように感じてウンザリしているのですが(と言って全く目を背けるのもまた違うように思う)、そういう気分にとてもリンクしたレビューとなりました。さて、第1シーズンも残り4話。次回は髪型が忘れられないあの人が登場です。
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本体と正体――「ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン」8話レビュー&感想https://t.co/OQPQat6blq
— 闇鍋はにわ (@livewire891) February 26, 2022
F・Fという特異なキャラとの戦いを通して「本体」と「正体」の違いについて書く。#jojo_anime#ジョジョの奇妙な冒険 #ストーンオーシャン#アニメとおどろう