白河から清澄へ――「よふかしのうた」6話レビュー&感想

Ⓒ2022コトヤマ小学館/「よふかしのうた」製作委員会
暗闇が光明になる「よふかしのうた」。6話でコウはナズナの代わりに「添い寝屋」をすることになる。客である白河清澄に共感する人も多いだろうが、今回はそこからコウが吸血鬼を目指す意味を考えてみたい。
 
 

よふかしのうた 第6話「楽しい方がいいよ」

毎日同じだと飽きちまう!おもしろい遊びを考えた結果、2人でナイトプールに繰り出すことに。 “大人の世界”にのまれ気味のコウをよそに、ナズナは“お酒が飲める!”とテンションが上がり……。
 

1.白河の苦しさ

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コウ「始めますか、マッサージコース」
白河(やたら待たせたと思ったら変なテンションで出てきた! すごく……不安!)

 

今回の話は主人公のコウではなく、白河清澄という女性の目線で始まる。出版社で働く24歳の彼女は、仕事自体はともかく人間関係に不満を抱いていた。飲み会、不快に距離を詰めてくる上司……家まで送っていくという相手を振り切った彼女は内心で毒づいた後、以前世話になった「添い寝屋」を思い出す。涙が出るほど気持ちのいいマッサージをしてもらうべく再訪した彼女の前にしかし、以前それをしてくれた店長のナズナは姿を現さなかった。待たされた挙げ句に出てきたのは、先程見た時は困惑した様子だったのがやる気全開になっている少年・コウだ。白河は不安がるがこれは無理もないことだろう。彼女が期待していたのは店長のマッサージであり、コウはいわばまがい物に過ぎないのだから。ただ、それは白河にとって必ずしも悪いことではなかった。
 

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白河「私も君くらいの歳の時、同じことを思ったよ。もう10年も前になっちゃうな」
 
まだ14歳のコウが、なぜ添い寝屋などという労働をしているのか? 最初は彼のことをよほど特別な事情を抱えているのではと訝しんだ白河はしかし、次第に彼に共感を寄せていく。不眠のために一人で夜中に初めて出た時のワクワクに少女だった頃の自分の気持を重ね、そこでこっそりやった昼にはできない行為(道のど真ん中を歩く、大きな声で歌う等)を共有したり……こうしたことは、ただただ体に気持ちの良いマッサージをしてくれる本物・ナズナではできなかったことだ。コウは白河に対し、肉体以上に心をほぐすというまがい物的マッサージを施したのだと言える。
 

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白河「上司とか、同僚とか、楽しそうにしなきゃいけないとか、面白くなくても笑わなきゃいけないとか……」
 
まがい物であることは通常、良いこととしては扱われない。それはいわゆるパチモノ商品に限った話ではなく、人間のありようにもしばしば向けられる目線だ。学校や会社に行き、いつもニコニコしてポジティブで、不満があっても礼儀正しく声を荒げない。社会におけるまともな人間とはそういうもので、それができない人間はまがい物として軽蔑される。まともじゃない、と遠巻きにされてしまう。社会こそがまともなのであり、そこで決まったことに対し異議申し立てをするなど論外の愚か者だ。
 

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白河「仕事そのものは楽しいの。でも仕事って『一人』じゃできないから。」
 
しかし一方、人はまともなだけではいられない生き物でもある。場を壊さぬよう笑顔を絶やさずとも内心では我慢を重ねているし、心の中では罵詈雑言だって思い浮かべているものだ。外面がまともだからと言って内面までまともとは――白い河のままでいられるとは限らない。社会に適応するためには本心とは違うもう一人の自分が必要で、しかしそういう自分だけになることもできない。
 
 

2.ドアから出なくても

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白河「上司だ……会社に戻らなきゃ」
 
コウによって心をほぐされた白河は、14歳の少年の前で会社にも飲み会にも行きたくないと泣きじゃくり、それでも上司から電話があれば深夜にも関わらず会社に戻ろうとする。「まとも」とはどういうことであるか、悲しいほどに彼女は熟知している。だが、コウはそれを許さなかった。
 

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コウ「あんたにはここで眠ってもらう! マッサージはまだ! 終わっていない!」
 
コウはマッサージはまだ終わっていないと白河に言い放ち、彼女を帰すまいとする。この時彼が立ちふさがるのがドアの前なのは至極自然であり、同時に象徴的だ。
部屋から出るにはどうするか?と問われれば普通はドアから出ると返すだろう。当然だ。ドアというのは部屋から出入りするために備えられているものだから、あるならそれを使うのが普通の発想だ。すなわち「まとも」だ。だが「まともでない」なら? 
 

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コウ「ナズナちゃん!」
ナズナ「なに?」

 

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ナズナ「ぶん投げたった」
コウ「方法が雑!」

 

コウに呼ばれたナズナは、ドアからではなく壁をすり抜けて部屋へ入ってくる。また白河を会社に行かせないように頼まれた彼女は相手を拘束したりするのではなく、窓から放り投げるという手段でそれを叶える。ナズナのこれらの行動に共通するのは、どちらも普通ではありえない方法で部屋の出入りを達成している点だ。壁をすり抜けるのが不可能なのも、高層階の窓の向こうへ行くのが危険なのもわざわざ説明するまでもないだろう。だが、吸血鬼にはそれは不可能でも危険でもない。
 

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ナズナ「そう、死なない」
 
まともでないというのはあくまで私達の常識に過ぎない。そして常識外の吸血鬼の前では、窓から投げられた白河も必至だったはずの墜落死を当たり前のように回避することができる。白河はこの体験によって腰を抜かすが、それは自分にとって唯一の拠って立つ場所、外れれば死ぬだけと考えていた「まともさ」から放り出された故なのだろう。宙に浮いたあの瞬間、白河は少しだけ自由になったのだ。
 
 

3.まともである意味は

自分をなぜ会社に行かせまいとしたのか? 白河の疑問に、コウはこう答える。
 

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コウ「泣いてたでしょ? 泣くほど嫌なことはやらない方がいいよ」
 
泣くほど嫌なことはやらない方がいい……コウのこの答えは、言ってみればとても「まとも」だ。当然だろう、それはやりたくないことなのだ。涙が出るほど嫌なことをするのは、どう考えたってその人にとって健全なことではない。甚だしきは戦争での加害の記憶を忘れられない兵士のように、それは人の心に深い傷を負わせることになる。しかしそれでも白河が会社に行こうとするように、そういうまともでないことをするのを「まとも」だと称揚する一面も社会にはある。いやそれこそが、それだけが「まとも」なのだと強制すらする。コウの答えの持つまともさは一面的で、多くの人には子供の甘い考えに過ぎないと切って捨てられるものだ。
 

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白河「まともな大人は、泣くほど嫌でも我慢しなきゃ……」
 
しかしコウはこれに対し、自分こそがまともなのだとは反論しない。白河に明かすように彼の夢はナズナに吸血鬼にしてもらうことであり、それがまともでないことなど百も承知だからだ。コウはまともではない――だが、それは彼をまともでないと断じる社会がまともであることを意味しない。
 

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コウ「言われた通り俺は子供で、会社のことも社会のことも分からない。甘い考えで生きてるんだと思う。まともじゃないと思う。でもこんな時間に呼び出す上司はもっとまともじゃない!」
コウ「同じまともじゃないなら楽しい方がいいよ! そして吸血鬼はまともじゃなくていいんだ、人間じゃないから」
 
コウは白河を夜中の2時に呼びつける上司のまともでなさを指摘し、まともかそうでないかという話の枠組みを破壊してしまう。同じまともでないなら楽しい方がいいと、人間でない吸血鬼はまともでなくていいとまで言う。つまりそれは白河が自分を縛っていた「まともでなければならない」という認識の破壊だ。自分一人ではけして見えなかった世界の広さを見せられれば、彼女はもはや笑うことしかできない。
 

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清澄「あっはっは、なにそれ! 君変だよ!」
 
お腹を抱えて、声を上げて白河は笑う。それは「まとも」なままではできない、けして美しくはない笑いだ。けれどそうやって笑えるこの時、彼女の心は澄んでいる。コウはそこまで考えていたわけではないだろうが、まともさに囚われた『白河』を『清澄』個人へ解放したことこそ彼のマッサージの精髄であった。
 
 

4.白河から清澄へ

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清澄「やっぱり会社には行くよ。決まりだし。あと、おかげでずいぶん気が楽になったし」
 
白河は、いや清澄はコウのマッサージによって自分という存在を解きほぐしてもらった。ただ、整骨院の類が一度行けばもう一生通う必要がないわけではないようにこれは永続的なものではない。白河であることも清澄であることも彼女にとって欠くことのできない現実なのだから、ずっとどちらか片方でいることはできない。そしてだからこそ、夜道の真ん中を歩くように吸血鬼を目指すコウはとても眩しく見える。言ってみればコウはヒーローであり、私達は現実にヒーローになることはできない。
 
だが実際のところコウはまだヒーローではない。吸血鬼(=ヒーロー)になりたいと思っていてもまだ条件を満たせない「まがい物」に過ぎない。しかし逆に言えば、彼はヒーローよりも私達に近い存在だと言える。
 

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コウ「きっと、清澄さんもまともじゃないからですよ」
 
ナズナは最初から吸血鬼であり、私達は異なる精神性を持つ彼女のようになることも共感することもできない。だがコウはあくまでも少年だ。全く同じ性格をしているわけでなくても、事情は違っても、私達は彼に自分を投影することができる。劇中でも清澄がコウと打ち解けたのは夜間外出の話に10年前の自分を重ねたからだったし、コウが彼女の退出を止めようとしたのはそこに自分を重ね見たからだった。
 
今はまだ人間の範疇にあるコウが本当に吸血鬼になれたなら、それは凡人に過ぎない私達にも吸血鬼になれる可能性があることの――ヒーローになれる可能性があることの証明になる。泣くほど嫌なことを「まとも」とせねばならないこの苦界に、そこから解き放たれる術があると希望を抱かせてくれる偉業になる。そしてその希望を見ることは、私達が吸血鬼コウの眷属となることに他ならない。
 

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コウ「もし俺が吸血鬼になれたら、俺があなたを吸血鬼にしてあげる」
 
元いた世界に、社会に戻ろうとする清澄にコウが投げかける言葉は颯爽としている。このたった一言で清澄はコウの眷属となる条件を満たしたろうし、私達もまた同様だ。ナズナに実現可能性を問われて「俺、結構モテるから」と答えるコウの自己評価は的確である。清澄に声をかけたあの瞬間、コウは吸血鬼になるための境界線を一つ越えた。
 

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コウ「いざとなったら人間を辞められる。そう思ったら、もっと楽じゃないかな」
 
コウが吸血鬼になるのはあくまで自分のためだ。これはあくまでごく個人的な物語に過ぎない。だが同時に、そんな彼だから背負える希望がある。無数の無力な白河清澄は、私達は吸血鬼にコウの姿に惹きつけられずにおられず、彼を見ることで少しだけ楽な気持ちになれる。
本作は私達を「白河」から「清澄」へと解放してくれる力も持っているのである。
 
 

感想

というわけでアニメ版よふかしのうたの6話レビューでした。すっかり遅くなってしまってすみません。所用があって書けないこと1日、視聴しても考えがまとまらないこと1日。吸血鬼志望という「まがい物」を軸に書きはじめたところ、想定外のところに着地することになりました。しまった、Bパートも内容に含んだものになるはずだったのに完全にすっ飛ばしている。
惚れ惚れする良いお話でした。次回も楽しみです。
 

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「白河」と「清澄」を感じるカット。
 
 

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