革新できない私達の呪いと祝福――「機動戦士ガンダム 水星の魔女」総括感想

© 創通・サンライズMBS 
機動戦士ガンダム 水星の魔女」24話より
2023年7月に最終回を迎え、この年を代表するヒット作の1つとなった「機動戦士ガンダム 水星の魔女」。果たして本作は新しい作品だったのだろうか。それとも旧態依然の「ガンダム」だったのだろうか?

 

 

 

1.新しいか古いか、だけで語っていいのか?

© 創通・サンライズMBS機動戦士ガンダム 水星の魔女」後期OPより
鉄血のオルフェンズ」以来久しぶりの日曜午後5時枠放送作のガンダムとなった「水星の魔女」。アニメでは初の女性主人公、学園が主な舞台であることなどこれまでのイメージに囚われない設定やスリリングな展開が人気を呼ぶこととなった。話題作りの上手さもあってSNSには多くの反応があふれ、本作は商業的に多くの新たなファンを呼び込むことに成功した作品と言える。しかし一方で、本作がただただ新しい作品かと言えばそこには疑義の声もある。
 
 
1つは女性主人公(スレッタ)と同性パートナー(ミオリネ)など要素こそ新しくされているが、それが積極的に物語に生かされてはいないとするもの。家父長主義的な人物や支配構造が描かれつつも打倒されないことへの不満の声も終盤は見られた。
 
 
またもう1つは、中盤で死者が増える展開について「これぞガンダム」と沸き立つ声が見られた点だ。評価としては肯定的だが、「これぞ」は見方を変えれば「いつもの」でもある。終盤はこれに加えパイロット同士の生身の決闘や巨大光学兵器の登場、オカルトめいた現象の発生など旧来作品のオマージュと見られる展開が多数用意されていた。
 
本作は前日譚となる「PROLOGUE」を「全てのガンダムを否定します」とメタ的な意味を感じさせる台詞で締めていた。それにも関わらず旧来作品を思わせる展開を繰り広げ、オマージュまでするのは矛盾しているように思える。新しいように見えて旧態依然の「ガンダム」……だが、ここで本作のキーワードを思い出すと見える景色は少し変わってくる。そう、「呪いと祝福」だ。
 
「水星の魔女」の主な舞台となるアスティカシア高等専門学園は当然ながら子供の通う場所であるが、ここには親世代のそれを引き写しにした権力構造がある。母体となるベネリットグループ内での企業の地位は生徒にそのまま反映されるし、貧しいアーシアン(地球居住者)出身の者は裕福なスペーシアン(宇宙移民者)から差別されてもいる。そんな学校で、水星からやってきた主人公スレッタは異端の存在だ。
強力なMSであるガンダムエアリアルを駆るスレッタが御三家と呼ばれる有力企業を学園特有のルール"決闘"で打ち倒し、それによってグループ総裁の娘ミオリネの婚約者となったことで学園は大きく揺れ動いていく。様々な形で企業や父親等に束縛されていた御三家のパイロットもスレッタとの戦いで新たな表情を見せるようになるなどといった展開は、学園に新たな祝福の風を吹き込むものと言えるだろう。しかし、1クール目の最終回でこの新しさは裏切られる。スレッタは母プロスペラの言うことは疑わない少女であり、その言葉に従ってミオリネを守るためテロリストをMSの手で叩き潰してしまったのだ。そういう行動を取っておかしくない人間であることは当初から描かれてはいたが、新しい存在に思えたスレッタの正体はむしろ御三家のパイロット以上に母に束縛された、呪われた存在であった。
 
スレッタのこの行動から言えるのは、本作には「新しいか古いか」に加えて「呪われているか祝福されているか」の軸があることだ。そもそもがこの作品は、新しさ古さだけで語れる代物ではないのである。
 
 

2.ガンダムという呪い

「水星の魔女」を総括するには新しさ古さに加え、呪いと祝福を加えて見る必要がある。そう考えた時まず思いを馳せるべきは、本作でガンダムが「呪い」とされていることだろう。本編以前の活躍でガンダムが伝説的MSと認識されている作品が平成以降は増えていたが、呪いとまでされる作品は珍しい。
 

© 創通・サンライズMBS機動戦士ガンダム 水星の魔女 PROLOGUE」より
劇中の世界においてガンダムとは、GUNDと呼ばれる技術を人型兵器の操縦システム(GUNDフォーマット)に転用したMS・GUND-ARMのことを指す。宇宙に出ていくには脆弱な人の体を補うための医療技術であったGUNDはMSの操縦にも適していたが、MSから膨大な情報が逆流し搭乗者を廃人にしかねない致命的な問題を抱えていた。故にこの世界でガンダムは呪いとされているのだが――果たして、呪いなのは本作に限った話だろうか。
 
1979年の「機動戦士ガンダム」から始まったガンダムシリーズがその後の数十年に与えたインパクトは非常に大きなものだ。ヒーローの化身ではなく兵器として描かれる姿はリアルロボットと呼ばれる路線の嚆矢となり、魅力的なロボットはガンプラと呼ばれるプラモの一大ジャンルを作り上げ、いまや有象・無象を問わず多くの作品がその影響下にある。ガンダムがなければ日本の歴史が変わっていたと言っても過言ではない、伝説的なIP……しかし、あまりにも大きな影響はけして正の面だけでは語れない。
 
ガンプラを始めとした関連商品を売るバンダイナムコにとってガンダムは売上の大きな割合を占める生命線の一つであり、故に継続的に新たなガンダムを世に出していかねばならない。作品世界で戦争や紛争を起こさなければならない。消費者たるファン自身もこの状況を揶揄しつつも自明のものとしており、ガンダムの始まりの世界である宇宙世紀の歴史はもはやパンパンだ。
 
またシリーズが広がる中でガンダムは架空のミリタリー趣味とでも呼べるものを生み出し、そういったファンの中からはリアルな戦争こそがガンダムの本義とする者も多く現れた。そこでは当然、一人で作ったわけではないにせよ生みの親である富野由悠季監督の地球環境への危機感であるとか現実を超えるためのアニメであるとか*1、人類の意識の革新(超能力者という意味ではないニュータイプ)といったものは抜け落ちていく。初代の劇場版三部作ラストで未来への洞察力を期待された若き人達は、歳を重ねた今もむしろガンダムの重力に囚われている。SDガンダムは別枠として富野監督以外がアニメ製作のメガホンを取った初めてのガンダム機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」が原体験(それも漫画版だ)の私もおそらく、富野監督が作品を通して語ってきたことを感得できてはいない。
 
こうした製作企業とファンの共犯的な関係、そしてある種の懐の広さによってガンダムシリーズは長く続く繁栄を手に入れたが、一方でファン層の高齢化という問題も無視できなくなった。宇宙世紀以外の世界を舞台にした作品で新規ファンの獲得もしてきたが、それでもガンダム自体が若者のものになったわけではない。40年以上の長きに渡るガンダムシリーズはもはや「呪い」なのである。
 

© 創通・サンライズMBS機動戦士ガンダム 水星の魔女」8話より
シャディク「ガンダムは硬直した軍需産業を盛り返すゲームチェンジャーだ。これを逃してグループの発展はありえない」

 

呪いとは劇中のGUND技術ではなく、ガンダムシリーズそのものである。そう考えると、「水星の魔女」劇中におけるガンダムの扱いはいくらか現実と重なる色彩を帯びてくる。バンダイナムコグループ……もといベネリットグループは有力なIPをいくつも持ってはいるがそれでもガンダムの存在を否定しきれないし、新しい作品を作れば商品として敵味方のMSを設定する戦争シェアリングのようなこともする。そこでは宇宙*2に出ていくための人の革新としてのGUNDの理念は失われ、あくまで兵器としての期待が第一にある。そしてその極めつけと言えるのが本作に登場する企業「株式会社ガンダム」だ。
 
 

3.繰り返される挫折と呪い

© 創通・サンライズMBS機動戦士ガンダム 水星の魔女」19話より
ミオリネ「わたしのせいだ……わたしがこれを……!」
 
主要人物の1人ミオリネが立ち上げた企業「株式会社ガンダム」。シリーズを知る人間にはなんともインパクトの強い名前だが、ミオリネには明確なビジョンがあったわけではない。策略にはめられたスレッタを救うために急場しのぎでぶち上げたハリボテ……名前だけが大層な、中身のない枠組みに過ぎない。まるで企業が新シリーズを始めることだけ決めた時のようだ、と言ったら意地が悪いだろうか。
ミオリネは当初ガンダムを兵器としてしか認識していなかったが、元々は人が宇宙に出るためのものと知り本来の役割である医療機器としてGUND技術の売り込みを始めていく。それは劇中でもスペーシアンとアーシアンの対立を緩和する希望となるかと思えたが、プロスペラの陰謀に巻き込まれガンダムは結局は戦争と虐殺の象徴となってしまった。呪われているかのように今まで通りの「ガンダム」になってしまった。
 
ミオリネの挫折は、いわば新しいガンダムを作ろうとしてきた先人が味わったのと同じ挫折である。ガンダムが格闘勝負をする驚きの設定で度肝を抜いた今川泰宏監督の「機動武闘伝Gガンダム」を筆頭に多くの製作者が自分なりに考えた「ガンダム」をメッセージとして世に送り出してきたが、それらは結局は「ガンダム」の枠の中で消費されてきた。水島精二監督の「機動戦士ガンダム00」のように主役機からガンダムの名を外し異種生命体との接触を描いた作品もあるが、枠の広がりこそあれど視聴者である私達自身がガンダムの枠を飛び越えられたかと言えばおそらく否だ*3
 
はっきり言ってしまえば、「ガンダムの枠の中で革新的なことをする」だけの作品はもはや革新的たり得ない。当然、富野監督の目指した人の「革新」も果たし得ない。どこまで行ってもガンダムでしかないという呪いの中にガンダムシリーズはある。ミオリネの、株式会社ガンダムの挫折はその行き詰まりを可視化していると言えるだろう。
 
 

4.革新できない私達の呪いと祝福

本作が描く「呪い」はガンダムシリーズの宿痾であり、スレッタやミオリネが間違え挫折するように私達は新しい祝福だけを選び取ることができない。だが、これは私達に諦めと絶望を突きつけているわけではない。
 

© 創通・サンライズMBS機動戦士ガンダム 水星の魔女」20話より
スレッタ「すみません、手伝ってもらってもいいですか」
ニカ「え?」
スレッタ「中に取り残された人がいます。きっと、まだたくさん。でも、まだ助かる人いるかもしれませんから」

 

20話、スレッタは破壊された学園で必死に救護活動に走った。多くの亡骸を目にすると知りながら、それでも瓦礫をどかして生存者との"二つ"を得ようとした。
 

© 創通・サンライズMBS機動戦士ガンダム 水星の魔女」22話より
スレッタ「私も間違えました。人を殺しました、プラント・クエタで。ソフィさんのことも……皆を守るために正しいことをしたんだって、自分に言い聞かせてました。でも学園が大変なことになった時に、皆と必死で復旧作業をしていた時に思ったんです。正しくっても間違ってても、自分がやったことは取り戻せないんだって。何も手に入らなくても、前に行くしかないんだって」
 
また22話、スレッタは正しかろうと間違っていようと自分の行いは取り戻せないと語った。何を得られずとも前に行くしかないと悟った。
本作ではスレッタが母から教わった「逃げれば一つ、進めば二つ」という言葉もキーワードとなっているが、22話のスレッタの語りはその再解釈であり超克だ。取り戻せないとは逃げられないということ、前に行くしかないとは進むしかないということ。スレッタの気付きの前では逃げると進むの二択自体が無意味であり、すなわち進むのみの彼女の前には常に二つがある。例えば正解と間違い。例えば理解と誤解。例えば――呪いと祝福。
 
人を叩き潰したり騙されたとはいえ虐殺のきっかけを作ってしまったスレッタやミオリネの背負った呪いはとても大きい。「仕方がなかった」「やってよかった」などと正当化できるものではけしてない。けれどその過ちがどれだけ大きくとも、ガンダムを通して生まれたスレッタとミオリネの出会いを否定することもまたできない。それは呪いからの不可能な逃避を試みるのではなく、真摯に向き合ったからこそ見える祝福だ。進んだからこそ見えた"二つ"だ。ならば私達も逃れられないガンダムの呪いから逃れようとするのではなく、その呪いに向き合ってなんらか進むことで祝福を見つけられるのではないか。呪いの大きさにかき消されることのない、切実さすらある祝福を手に入れられるのではあるまいか*4。本編の終わりでスレッタの戦いが兵器としてのガンダムを消滅させ、ミオリネが医療機器としてのGUNDを普及に務め続けるように、それはかつてと同じではないかもしれないが富野監督の目指した理念にも繋がり得る道のはずだ。
 
外形的・商業的には今までにない新しさが特徴の「水星の魔女」は実のところガンダムシリーズに対して極めて内省的な作品であり、本作に寄せられる新しさ・古さの評価と批判はおそらくこのギャップに起因している。それでもこの作品はけして、古さ"一つ"しかない代物ではない。呪いの概念は「機動戦士ガンダムUC」にも出てきたが、それと異なり呪いを祈りとして浄化しない本作は確かに新たな境地に達している。
 

© 創通・サンライズMBS機動戦士ガンダム 水星の魔女」1話ED映像より
祝福と新しさのためには、呪いと古さから目を背けてはならない。ガンダムに囚われ続けた私のような人々がガンダムを呪いにしてしまったことに向き合い、その上で目一杯の祝福と共にあろうとした点に「機動戦士ガンダム 水星の魔女」の新しさはあるのだ。
 
 

雑感

というわけで「機動戦士ガンダム 水星の魔女」の私なりの総括でした。本作に対して見かける「新しい」の評価も「いやむしろ古い」の批判も、どちらも間違っていないが芯は別にあるのではないか?という違和感をスタートに、どういう作品だったのかを振り返ってみてこのような文章になった次第です。
ガンダムUCは「若者に良い影響を及ぼしたいおっさん向け作品」なんて言われることもあるので、新規のファンを獲得できた本作は似ている部分もありつつやっぱりその先に進んだのではないかしらん。断っておくとUCが嫌いなわけではありません。特にリディはとても好きな人物です。
 
ガンダムシリーズは多くのファンを抱える作品であり、放送されると必ず多くの理解と誤解を共に招いてきました。本作についても「いやそんなことは言ってないだろう」と感じる感想を目にしたことがたくさんあります。もちろん私も、自分の各話レビューを振り返るとずいぶんな勘違いをしてるなこいつと呆れることが多々。
けれど理解と誤解はいつだって共にあるし、進まなければそこには誤解一つしか残らない。本編同様、この作品はきっとそういう理念で作られたのだと思います。願わくば本作で新しくガンダムに触れた人にも往年のファンにも、呪いにかき消されない祝福がたくさんの人の胸に届いていますよう。改めて、スタッフの皆様お疲れ様でした。
 
<2023/8/10追記>
ガンダムA2023年9月号電子版において、市ノ瀬加那さんのインタビューからスレッタとミオリネの結婚の文言が削除され、公式が結婚について「解釈にお任せします」とした件についての私の考えは以下のようになります。

 

<2023/12/22再追記>

監督より二人の結婚が明言されたとのこと。そもそもどうしたこうなったのか、という問題はありますが、劇中表現されたことに嘘さえつかないのなら私はそれでいいと考えます。それは結婚観や商売以前の、フィクションで絶対に守ってほしいことだからです。ともあれ、二人の幸福を誰はばからず祝える当然の状況に戻ったことは嬉しい。

 

 

 

<いいねやコメント等、反応いただけるととても嬉しいです>

*1:現実をやり過ごすため、ではない

*2:機動戦士ガンダム」と重ねるなら物理的な空間というより、理念としての新たな世界と見るべきか?

*3:機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」のMSも当初は従来のそれのデザイン違いとされていたが、後に異なる存在として設定が改められた

*4:繰り返し書くがそれは自分の行いを正当化することではない。「ナチスはいいこともした」とも違う。呪いを正視することが前提である