「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」レビュー~希望の隠し場所~

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©創通・サンライズ

 1988年に公開され、30年以上を経て今なおファンを魅了し続ける「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」。そのラストは劇中の人間の誰にも説明不明の事象が発生し、更にはアムロとシャアは行方不明になる。不明、つまり「分からない」ことだらけになってしまう。しかし「分からない」ことは悪いことだろうか。

 

 

 

 アムロとシャアはシリーズの始まりとなる「機動戦士ガンダム」以来の旧知の仲であり、かつては共に戦ったことすらある。一度は相手のことを「分かった」わけだが、シャアはそこで地球に残った人間の実態を知って本当に嫌気が差してしまった。相手を理解することは手を取り合う1つの手段だけれど、相手を理解すれば必ず手を取り合えるわけではない。理解したからこそ生まれる嫌悪もあるし、理解はいつだって単に分かったつもりに堕する恐れから免れない。
 
 そういうどん詰まりを解決するのは知恵と努力と工夫か? 違う。それによるアクシズの爆破は、成功したにも関わらず落下を防げない。 ではニュータイプなら救えるだろうか? 違う。総帥としての振る舞いを求められるシャアも一兵士でしかいられないアムロも、世界を変えることなどできていない。 ならば人の心の光はどうか? 違う。それを求め続けたクェスは満たされることなくむしろ己の中のそれでハサウェイをかばって死に、おまけにハサウェイは恋心の反転した激昂によって自分を助けようとしたチェーンを殺してしまった。
 
 どんな希望も、具体的な言葉や形として目に見えてしまったらあっという間に汚れまた汚されてしまう。「分かった」「理解した」はずのことは、あっという間に別のものになってしまう。シャアが絶望しているのはそこで、だから彼はネオ・ジオン兵や連邦高官が自分の理解の通りの反応を示すことに疲労も嫌悪も感じる。そして逆に、アムロ達が自分の想像(理解)以上の攻勢を仕掛けてくれば「やるな、ロンド・ベル!」と嬉しくなってしまうのだ。
 そしてシャアが絶望するのは人間がそういうものだと「理解」したつもりだからで、アムロ達が止めようとするのは人間がそういうものじゃないと希望を「理解」したつもりだからだが――2人は結局、どちらも理解などしていなかったことを知る。アムロもシャアも最後まで互いの不足を詰り、同時に自分の理解が足りなかったことを知る(理解する)。宿命のライバルとして互いを知悉しているはずの2人ですら、自分のことも相手のことも十全に分かってなどいない。材料技術部の発明とばかり思っていたサイコ・フレームはネオ・ジオンから提供された技術で、しかもそれが起こしている現象は誰にも説明ができない。ファンネルの誤作動がケーラの死を招いたように「分からない」にも絶望はあるけれど、しかしそれでも世界は「分からない」に満たされることでアクシズの地球落下という惨劇を回避する。
 
 アムロとシャアがどうなったのか、宇宙世紀がどうなったのかこの作品は描かない――「分からない」まま終わる。具体的な言葉にも形にもならぬまま終わる。けれどならばそこには、希望も絶望もどちらも存在し得る。理解の外だから、分からないからこそ存在できる。後年の作品が何を描こうが「この作品は」そこで終わり、もはや汚れることも誰に汚されることもない。希望や絶望を背負うことから解放され、かつそれらを別の場所に存在させることこそ、アムロとシャアの最後の戦いだったのではないだろうか。
 
 
参考:
 *末尾の企画に投稿できたわけではないです。