"当たり前"を希求して――「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」レビュー&感想

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TVシリーズにおける特異点でありながら、一方でカルト的な人気を誇る回のまさかの映画化となった「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」。43年の時を経て蘇ったこの話は、"当たり前"を問い直す物語だ。
 
 
ジャブローでの防衛戦を耐えきった地球連邦軍は勢いのままにジオン地球進攻軍本拠地のオデッサを攻略すべく大反攻作戦に打って出た。アムロ達の乗るホワイトベースは作戦前の最後の補給を受ける為にベルファストへ向け航行。そんな中ホワイトベースにある任務が言い渡される。無人島、通称「帰らずの島」の残敵掃討任務。残置諜者の捜索に乗り出すアムロ達であったが、そこで見たのは、いるはずのない子供たちと一機のザクであった。戦闘の中でガンダムを失ったアムロは、ククルス・ドアンと名乗る男と出会う。島の秘密を暴き、アムロは再びガンダムを見つけて無事脱出できるのか…?
 

1.特別扱いの喪失

本作はTVアニメ「機動戦士ガンダム」の第15話「ククルス・ドアンの島」を劇場用長編として翻案した作品だが、設定は監督である安彦良和が執筆した「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」に準じている。すなわちオデッサでの戦いとジャブローでの戦いの順番の前後、スレッガー中尉連邦軍の量産型MS・ジムの登場の前倒しなどがされているわけだが――そこから見えてくるのは「特別扱いの喪失」だ。序盤で語られているように、連邦軍が比較的早期にザクに対抗できるMSの配備に成功した本作では、主人公のアムロ達のホワイトベース隊はそこまで稀有な戦力として扱われているわけではない。故に無人島での残置諜者の捜索という小粒な任務に駆り出されもするし、その心労からホワイトベースブライト艦長アムロにいつまでも特別扱いしてもらえると思わないよう言ったりする。元は民間人でありながら生き残るため必死に戦ってきたアムロとしては不満を抱かずにはおられないところであったが、任務で向かった無人島・アレグランサ島で待っていたのもまた特別扱いの喪失であった。
 
アレグランサ島の調査に向かったアムロは1機のザクに遭遇し、荒れ地を縦横無尽に動く驚異的な機動に翻弄される。そのパイロットこそは本作のタイトルにもなっているククルス・ドアンであったが、おそらく、こんな経験は宿命のライバルであるジオンのエース、シャア・アズナブルと対峙した時以来のものであったろう。実際、本作のドアンはシャアに比肩する腕前を讃えられたパイロットとして設定されている。ドアンはこの卓抜した技量によって、アムロやシャアからパイロットとしての"特別扱い"を奪っているのである。アムロはドアンの前に完敗し、意識を取り戻した時には乗機であるMS・ガンダムを隠されてしまっていた。しかし一方で彼は命を奪われることなく、手当すら受けてもいた。ドアンは脱走兵であり、戦災孤児を保護してこの島に住み着いていたのだ。
 
 

2."当たり前"のありがたみと難しさ

敗北し機体を奪われたアムロは、その捜索を続けながらもドアンや孤児達と生活を共にすることになる。そこでは唯一無二の機体であるガンダムパイロットという特別扱いはないが、しかし彼は必ずしも不満を感じない。それはここでの生活が、過剰な期待や無茶な命令に振り回されるものではないからだろう。苦しんでいる時には手を差し伸べてもらえ、また一方でアムロ自身もドアン達にできないことがあれば手伝いを買って出る。ここにあるのは特別な暮らしではなく、言ってみれば人が人として"当たり前に生きる"ことのできる生活なのだ。
 
しかし一方で本作は、この"当たり前"が実際は複雑なメカニズムや苦労の上に成り立っていることも描いている。鍬の振るい方や雨水の扱い、ヤギの乳搾り一つとってもやり方というものはあってなおざりにはできない。こうした難しさの象徴とも言えるのがドアン達の暮らす灯台における電気の問題で、彼は故障と偽ってバッテリーから配線を外し灯りをロウソクや灯油に頼っていた。しかしこれは悪意があったのではなく、灯台の灯りが敵を呼び寄せることを警戒してあえて使用していなかったのだ。孤児達が当たり前のように享受していた戦火に脅かされない生活は実際のところ、ドアンの細心の注意によって成り立っていた。
 
"当たり前に生きる"ことはともするとその価値を忘れられたり逆に諦められがちだが、実際は不断の努力によって成立するものだ。ドアン達の生活の労苦は既に述べた通りだし、ただ一人島に取り残されたアムロを連れ戻すためにブライトやスレッガー達は上層部に対する言い訳や軍法会議を覚悟した行動を取らなければならなかった。ドアンですらこれに成功しているとは言い難く、後に島を襲撃するジオンのサザンクロス隊はかつての部下達であり彼に複雑な思いを抱いている。自分に裏切られたと狂犬のようになっているエグバ・アトラーや好意を寄せていたらしいセルマ・リーベンスといった面々と戦いたくないと願いながら、ドアンには彼らと矛を交える以外のことはできなかった。
 
 

3."当たり前"を希求して

"当たり前に生きる"ことは、言ってみれば綱渡りの連続だ。例えばMSは当たり前のように地を走ったりサザンクロス隊の高機動型ザクはホバーで地上を滑りすらするが、それは安定した地面あってのこと。アムロはドアンのザクとの遭遇時に崖っぷちに追い込まれて苦戦を強いられ地割れの衝撃で意識を失ったし、エグバはクレーターの細い噴火口上ではホバーによる高機動を発揮できず再びアムロの搭乗したガンダムの前に敗れることとなった。ドアン達の生活にしても画面上の笑顔の多さよりも実際の生活は過酷なはずで、生きるためには先程の灯りをとるか安全をとるかといった選択を常に続けなければならない。けして安住できない選択の繰り返しの難しさはきっと、ホワイトベースに乗って戦い続けるアムロ達と変わらないものであろう*1。長らく乗り続けたザクを捨てることで体に染み付いた戦争の匂いを消せるのではないか……というアムロからドアンへの提案にしても、正解の見えない中でそれでももがく人がとり得る選択肢の一つと言える。
 
本作はあっと驚く秘密が隠されていたり、誰かのドラマチックな生き死にが描かれたりするわけではない。ドアンのザクの投棄が正解と言えるのか分からない点も含め、本作はある意味で平凡な作品だ。しかしそれが物語としての不足でないことを証明するように、パンフレットに書かれた安彦良和監督のインタビューは以下のような言葉で締めくくられている。
 
最近の『ガンダム』は難しかったり、暗かったり、展開も動きも速すぎたり、わけわからないけど、本作はある意味、原点回帰だと思ってます。レギュラーキャラも出てくるし、『ガンダム』ってこうだったなって見てもらえるといいですね。
 
ガンダム』ってこうだったなって見てもらえるといい……それはロボットアニメの殿堂に入ってしまったガンダムを、特別から当たり前の存在へと解放する試みだとも言える。
 
"当たり前に生きたい"……その思いはいつの時代であっても、どこの場所においても、誰であっても変わらない。ホワイトベースで再び戦いに赴くアムロ達も、アレグランサ島で生きていくドアン達も、そして本作を見る私達も。行く先すら違っても、それだけは変わることはないだろう。それを教えてくれるこの作品には、劇的な示唆を持つ特別な作品とはまた違う、根を張った樹木のようなどっしりとした手触りがある。
本作はきっと、"当たり前"を求める"当たり前"の物語へとガンダムを帰還させる作品だったのだ。
 
 

感想

というわけで劇場版ククルス・ドアンの島のレビューでした。ファーストのTVシリーズもORIGINの原作・アニメも見てない人間なので当初は色々戸惑ったのですが、なんとか自分なりにまとめることができました。当初は「特別」と「当たり前(普通)」の交差するお話なのかなと思いましたが、それだと同じことを「クレヨンしんちゃん もののけニンジャ珍風伝」のレビューで書いてるし……と頭の中でこねくり回している内にこんな感じになりました。
 
富野監督と安彦監督の違いについては詳しい方にお任せしますが、ミリタリー要素を弄んだりするわけでもなく「地に足の付いた」ガンダムだったと言えるのではないでしょうか。今の他のガンダムでは商業的にできないことをやった、とても貴重な作品を見せてもらいました。
 
 

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*1:終盤で発射される弾道ミサイルがドアンの仕掛けによってまっすぐ飛ばなくなっていたというオチも、発射されれば目的地に飛ぶという暗黙の"当たり前"を問い直した結果生まれている