命の運び手達――「機動戦士ガンダムSEED DESTINY スペシャルエディション 自由の代償」レビュー&感想

© 創通・サンライズ

4本の物語でTVシリーズを再編してきた「機動戦士ガンダムSEED DESTINY スペシャルエディション」。主人公であるシン・アスカがこの完結編で得たものは、いったいなんだろう?

 

 

機動戦士ガンダムSEED DESTINY スペシャルエディション完結編 自由の代償 HDリマスター

www.youtube.com

 

1.自由の代償とは

秘密組織ロゴスの長ロード・ジブリールが討たれ、世界はプラント議長ギルバート・デュランダルによって導かれようとしていた。彼は遺伝子で人のすべてを決める社会システム・デスティニープランの実行を宣言するが……?

 

前作「機動戦士ガンダムSEED」から続く物語を描いてきた「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」。総集編ラストの副題は「自由の代償」だが、代償の存在は劇中の様々な場面で感じられるものだ。例えば主要人物の一人カガリ・ユラ・アスハは本作序盤でオーブ連合首長国代表としての実権を取り戻すが、それには恋人アスランから渡された指輪を今は外し国家運営に専念しなければならなかった。彼女は国を動かす自由の代償に、個人の幸せをなげうつ代償を支払わなければならなかった。またカガリの弟キラは遺伝子で人生を決めるデュランダル議長のデスティニープランを否定し自由を選択するが、戦争を止め得る力をもつこの方策を受け入れなかったからには代わりに世界を引き受ける覚悟がいる。彼はラストで恋人ラクスと共にプラントの指導的立場に立ったらしいことが示唆されているが、重い責務を背負うそれは社会的栄達というよりはカガリ同様の自由の代償と見るべきだろう。

 

自由の代償として必要なもの。逆説的に聞こえるかもしれないが、それは運命だ。遺伝子などからは見つけられない、戦う意志を持つ者だけが見つけられる天命とでも呼ぶべき運命。……では、運命の名を冠したデスティニーガンダムを駆る少年、シン・アスカにとってのそれはどんなものなのだろうか?

 

 

2.デスティニーガンダムは過積載

シン・アスカは「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」の主人公である。SEEDと呼ばれる特殊な因子を持ち、絶望的な戦局を一人でひっくり返したこともある彼はその活躍からプラントの軍事組織ザフトの中核を担う戦力と見なされるようになっていった。デュランダル議長の念願であるデスティニープランと同じ名を持つ機体を与えられたことからも期待の大きさは一目瞭然であろう。しかし、この完結編の彼からはそうしたプランの「主人公」らしい姿は見えてこない。どちらかと言えば、彼の中にあるのは孤独……いや、過剰な荷物を背負わされていくことへの戸惑いである。

 

振り返ってみれば、シンには前作主人公のキラに対するアスランのような相手はいなかった。砲火と共に思いをぶつけ合うような相手に出会うことはなく、彼はかつてオーブで家族を失った過去に一人で向き合い続けなければならなかった。この分かち合えなさは仲間関係においても同様で、先輩と言える立場だったアスランはシンの哀しみに寄り添う余裕を持てないまま袂を分かってしまったし、同僚にして恋人となったルナマリアはシンの乗機インパルスガンダムを受け継ぐが彼ほどに活躍できるわけではない。同じく新鋭機のレジェンドガンダムを操縦するレイは友人ではあるもののデュランダル議長の意に沿うようにシンを誘導し、またそもそもクローン人間の彼にはシンと共にプランを担っていくような寿命は残されていなかった。孤立こそしていなくとも、シンは苦楽を分かち合う仲間が増えていく物語の定番とは縁遠いところにその身を置かされているのだ。

 

シンの乗機デスティニーガンダムは、原型機インパルスがシルエットと呼ばれる3つのパーツの換装で変化させていた特性を最初から全て盛り込まれた機体である。主人公の機体らしい万能機とも言えるが、見ようによってはこの機体は1機になんでもやらせようとし過ぎている。例えるならそれは、物語がシンに背負わせているあまりに多くの役割と同じものだ。
パイロットとして非常に優れた技量を持っているものの、生身のシンはわずか2年前に目の前で家族を奪われた心の傷に苦しみ続ける16歳の少年に過ぎない。傷心に鞭打ってがむしゃらに走り続けている子供一人に背負わせるには人間の業は、主人公の役割はあまりに重過ぎる。

 

最後の戦い、シンは彼に寄り添い戦いを止めようとしたルナマリアのインパルスにほとんど錯乱し、妹マユと同じく戦火の中で守れなかった少女ステラの名を叫びながらルナマリアすら落としそうになってしまった。それは過積載に耐え続けた彼の心が限界を迎えた、一人で全てを背負えなくなった破綻の瞬間だ。だからデスティニーガンダムアスランインフィニットジャスティスガンダムに敗れ、敗北という形でその役割を終えることとなる。主人公機らしくない? 否。これはシンが自由になるための、一人で背負うには大き過ぎる<運命>から解放するための代償なのだ。

 

 

3.命の運び手達

シンは敗れた。彼が背負うには「運命」はあまりに大きかった。けれどそれは、彼が器でなかっただとか主役の座を奪われただとかいった話ではない。

 

シンが運命を背負えなかった理由。それは、運命というのは人が一人で背負うには大き過ぎるというあまりにも当然の話に過ぎない。前作「機動戦士ガンダムSEED」序盤でも、唯一のMS戦力そしてただ一人のコーディネイターとして仲間の命運を背負う孤独な戦いを強いられたキラは様々な過ちを犯した。状況も立場も大きく違うし敵対すらしたが、キラとシンは運命という重責に苦しんだ点では同じだったと言えるだろう。だったら、彼らは共に重荷を背負うことができるはずだ。分かち合うことができるはずだ。戦争は嫌だという思いは共通しているのだから。

オーブの慰霊碑の前で再会したキラは、シンに握手を求め一緒に戦おうと言葉をかける。

 

キラ「いくら吹き飛ばされても、僕らはまた花を植えるよ、きっと」

 

以前お互いが誰かも知らずこの場所で遭った際、シンはきれいに咲いた「花」を人がまた吹き飛ばしてしまう絶望を口にしたが、キラのこの言葉はシンへの答えであると同時に「僕ら」であることに意味がある。彼自身にしても前作ではクルーゼの言葉を論破とは違う形で否定はできても、その先へ繋げる答えまでは見つけられなかった。一人では「主人公」を背負いきれなかった。だけどシンがいてくれるなら。「僕ら」でならきっと二人は運命を、主人公を背負うことができる。代償を払い、その先の自由を見つけることができる。シンは物語の最後の最後、ようやく一緒に重荷を背負ってくれる人を見つけることができた。ただ一人の主人公という見せかけの栄冠などより、どれほどそれが彼にとって嬉しかったことだろう。

 

人は自由を得るためには運命という代償を払わなければならないが、命の運び手が一人である必要はない。世界は砕かれているが故に、破片たる私達はけして孤独ではないとシンは知ることができたのだ。

 

 

感想

というわけでガンダムSEED DESTINYの総集編第4集のレビューでした。本文には書きませんでしたがこの見立てにはレイ、タリア、デュランダル議長の最後から感じたものも大きくてですね。あそこにも一人で運命を背負わないことで得られる自由は象徴されていたように思います。キラ達がデュランダル議長を阻止できた理由にアークエンジェルとエターナルの役割分担やイザークディアッカの協力があったことなどもこれに当てはめられるんじゃないかと。

 

総集編ながら初めて腰を据えてSEEDシリーズと向き合った結果、私はSEEDではカガリが、SEED DESTINYではシンが好きなんですがそれは同じ理由なんだろうと思います。二人とも子供っぽくて「現実」なんか見えていないのかもしれない。間違いも多いかもしれない。でも、彼らの思いを切り捨ててしまってはいけない。

 

放送開始から20年経たなければ作品と向き合えなかった身ではありますが、時間がかかったなりに本作を自分の中に刻みつけることができました。来年1月のSEED FREEDOMの公開に向けてこういった機会が得られたことを心から感謝したいです。ありがとうございました。

 

 

<いいねやコメント等、反応いただけると励みになります>