【ネタバレ】記憶ならざる記憶の子――「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」レビュー&感想

(C)映画「鬼太郎誕生ゲゲゲの謎」製作委員会

15年ぶりの劇場作品となる「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」。鬼太郎誕生の経緯を語るこの物語は、鬼太郎が何者かを定義する物語だ。

 

 

鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎

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1.哭倉村はどこにある

昭和31年、日本の政治経済に多大な影響力を持つ龍賀家の当主時貞が亡くなった。兵隊上がりで今は帝国血液銀行に務める男・水木は社の密命を帯びて龍賀家本家のある哭倉村(なぐらむら)へ向かうが、そこで奇妙な空気を漂わせる男と出会う。紆余曲折から水木は彼を「ゲゲ郎」と呼び、コンビを組んで村の秘密を探っていくが……?

 

水木しげるの生誕100周年を迎えた「ゲゲゲの鬼太郎」。本作は2018年から2020年にかけて放映されたTVアニメ6期の前日譚となるが、鑑賞にあたってはそちらの知識が必要とされるわけではない。あくまで鬼太郎誕生の一つの形、ということであろうが、そこで描かれる物語は端的に言って陰惨だ。鬼太郎が生まれるまでの物語である以上時は現代から数十年をさかのぼり、この時期の人々の心には戦争の記憶が色濃く残っている。主要人物の一人水木に至っては、第二次世界大戦でつじつま合わせのために犬死にを命じられるも生還した壮絶な過去の持ち主だ。加えて家族がなけなしの財産を親戚にだまし取られるなどして戦地も内地も血も涙もない世界に変わりないと思い定めた彼は、「他人と同じことをしていては生き残れない」と出世=生存競争に勝ち残るため他人を平気で騙す男となっていた。そんな彼が「M」と呼ばれる血液製剤の謎を探るよう指示を受けて訪れるのが龍賀家の支配する本作の舞台・哭倉村であるが、重要なのはこの村が単なる田舎の村ではない点だ。

 

水木の探す「M」は単なる病気の治療薬だとかいったものではなく、注射した者を数日に渡って飲食睡眠なしで活動可能にする麻薬じみた強壮剤であった。日本が清やロシアとの戦争で勝てたのも敗戦後急速に復興を遂げているのもこの「M」のおかげとされており、劇中でも”企業戦士”への使用すら検討されている。

 

皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。  兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは、戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。

 

大日本帝国陸軍軍人である牟田口廉也の上記の発言は広く知られたところであるが、つまるところ「M」とは大和魂の精神注入剤といってよいだろう。ならばその原液を唯一製造している哭倉村は日本の背骨、いや縮図だ。哭倉村は一般には所在すらほとんど知られていない場所だが、実のところこの村は日本のどこかにあるのではない。日本そのものが哭倉村なのである。

 

 

2.桜の木の下には死体が埋まっている

哭倉村は日本そのものである。そう考えた時、この村で行われていた「M」製造の秘密はなんとも示唆的だ。その原液の正体はなんと、妖怪の同類である幽霊族から作られたもの――村の禁域の穴蔵の底にある桜の樹*1が吸い上げた生き血から作られたおぞましき代物だったのだ。

 

大和魂の源泉が他者の生き血! 不謹慎に思えるかもしれないが、明治維新からの日本の躍進がその版図を広げた結果であるのはよく知られるところだ。2016年に公開されたアニメ映画版「この世界の片隅に」では主人公のすずが自分達の貧しい生活すら海外から徴発した食料で賄われていたと気付く場面があるが、本作はこうした「生き血」を幽霊族を通して比喩ではなく直接的に表現しているのである。そしてこの非道な仕打ちをしていたのは龍賀家だけではなく村全て――前節を踏まえるならつまり日本全体――であった。

 

龍賀家の、哭倉村の犠牲になるのは幽霊族だけではない。この家では女は優秀な子供を残すため当主に身を捧げるしきたりとなっており、水木が村で会った少女・沙代などは祖父時貞の「お気に入り」であった。更には時貞は生に執着するあまり幼い孫の時弥に自分の魂を移し、時弥の魂を代わりに追い出す外法にすら手を染める始末。そして二人は存命中は救済されることはなく、沙代は自らが依代となった妖怪・狂骨によって哭倉村の人々を殺した上に自らも殺され、時弥の魂は恨みから70年余りに渡って自身が狂骨と化す悲惨な末路をたどった。他者の生き血を吸って保たれる繁栄の中ですらまた、弱い者が虐げられる構図は変わらなかった*2

 

沙代と時弥のような悲劇は、そのまま同じではなくともけして哭倉村特有の出来事ではない。当初沙代を利用しようとして近づいた水木が「俺も同罪だ」と語るように、彼自身がかつて戦地も内地も変わらないと感じたように、多くの人が大義や大事、己の生存を名分に弱者を踏みつけにしてきた。一億総懺悔のような責任の希釈や、軍人やマスコミだけに責任を押し付けるやり方ではその罪はあがなえない。晴らされぬ恨みは更に恨みを呼び、遂には強大な妖怪と化していく。……そう、殺され井戸に打ち捨てられた者の恨みが妖怪・狂骨となるように。

 

本作は終盤、時貞の手を離れた無数の狂骨が禁域の結界を破らんとし、外に出れば哭倉村はおろか国全体が滅ぶという窮地に陥る。狂骨とはすなわち人間が、この国が、私達が顧みることなく虐げ打ち捨てていった人々の恨みだ。「天下晴れての人殺し」という言葉すら残っている関東大震災の際の朝鮮人虐殺などのように、かつてこの国が犯した「生き血すすり」には知れば人間が嫌になる、いっそ滅んでしまえと自暴自棄な気持ちにもなりかねないおぞましい出来事が山と打ち捨てられている。水木は狂骨が漏れ出すことについて「やらせとけ!」と吐き捨てるように言うが、哭倉村に――日本の象徴に――彼同様「滅んでしまえ」と思った人は多いのではないだろうか? 

 

 

3.記憶ならざる記憶の子

狂骨は虐げられ打ち捨てられた人の恨みであり、それは有に国を滅ぼすに足りる。しかし妻を探してこの村を訪れ、彼とコンビを組んでいた幽霊族の男・他称「ゲゲ郎」は、自らが依代となることでそれを止めようとした。水木は「お前が犠牲になることはねえんだ!」と止めようとするがこれはもっともな話だ。幽霊族は人間に虐げられてもはや彼と妻しか残っておらず、その妻も哭倉村で血を吸われ続け再会した時には見る影もない姿に変わり果てていた。そこだけ見れば、いっそ狂骨を応援してもおかしくはないくらいだろう。だがゲゲ郎はそうしなかった。妻が血を吸われながらもお腹の子を身ごもり続けており自分が父親になる事実を知り、そしてコンビを組む中でいつしか友情を感じていた水木の生きる姿を――未来を見たいと願った彼は、それでも滅亡を止めようとしてくれたのだ。しかし彼一人では全てを引き受けることはできず、残った狂骨は彼の息子が、「ゲゲゲの鬼太郎」が対処を引き継ぐこととなった。

 

時は流れて現代、最後の狂骨を退治しようとした鬼太郎は、眼球のみとなって生き延びた「目玉おやじ」の制止によってそれが時弥少年の霊であることを知る。祖父に利用され捨てられ、未来を得ることもそのために頑張ることも許されなかった哀れな少年。彼は自分がここにいたことを覚えてほしいと願い、また廃村となった哭倉村を訪れていた記者の山田は鬼太郎や時弥の話を記事として書き残すことを誓うが、これは記憶の継承や鎮魂のもっとも一般的な方法であろう。すなわち戦争の語り部であるとか、かつての日本の行いを学ぶことであるとか。もちろんこれらは大切だが、一方でそれだけでは私達は、劇中ゲゲ郎が言ったような「目に見えるものしか見ようとしない」視野狭窄に簡単に陥ってしまう。それは両論併記だとか共産主義との戦いだとかいった「おためごかし」に巻き取られて、人々が”狂骨”の恨みを見ないようになっていくここ10,20年ほどが証明するところだ。だが本作は、いや「ゲゲゲの鬼太郎」はそこにもう一つの方法を提示している。

 

水木はゲゲ郎から妻を託されるも、村から逃れ出た際にははぐれてしまっていた上に自分が何を体験したのかすっかり記憶を奪われてしまっていた。鬼太郎の父と何をしたかだとか、哭倉村で何があったかだとかいった「目に見える」ものを彼は全て失ってしまったのだ。しかし何も思い出せないにも関わらず、彼は自分がひどく悲しい気持ちであることだけは理解できていた。思い出とすら言えない、「目に見えない」ものだけは確かに心に残されていたのである。
水木の記憶は結局戻ることはなかった。ゲゲ郎夫婦と再会した際は恐怖のあまり逃げ出してしまったし、その家を再訪し二人が死んでいるのを見れば埋葬してやるも墓から赤子が出てきたのを見れば化物の子だからと始末してしまおうとすらしたほどだ。だが、彼には後に鬼太郎と呼ばれるその赤子を殺すことはできなかった。記憶が戻らずとも、「目に見えない」何かが、彼にそれをさせなかった。水木の心には、幼い頃に読んだ名前も思い出せぬ漫画の一節のようにゲゲ郎達への思いが残っていたのではないだろうか。

 

人は、世界は目に見えるものだけで作られてはいない。従軍経験から左腕を失い、「総員玉砕せよ!」などの漫画も残す水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」には、妖怪を描いた物語には何作も続くTVシリーズのような変幻自在さと同時に戦争と打ち捨てられた者への目線が拭いようなく滲んでいる。それは目に見える形で言及されずとも、作品を見た者の心にいつの間にか染み込んでいく類のものだ。妖怪と同じ「目に見えない」ものだ。そうした頑強さはおそらく、他の古典作品が「おためごかし」に巻き取られて都合よく再解釈されたとしても最後まで残り続ける力になることだろう。

 

本作で誕生した鬼太郎とは、記憶ならざる記憶の申し子である。鬼太郎を通して私達は、打ち捨てられた者達の恨みを目に見ずとも知ることができるのだ。

 

感想

というわけで「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」のレビューでした。初見時は「哭倉村は日本なのかな?」とぼんやり考えつつもピントが合わなかったのですが、えいやともう一度見たら記録に残す山田と記憶を失う水木が対比として自分の中で落ち着きました。血桜の場面とか、2度目はもう目を覆いたい気分になってしまい……
因習を描いただけではない、鬼太郎だからできる作品だったと思います。PG12指定ながらお子さん連れもそれなり見かけて、いつかあの子達が本作を思い出してくれたらいいなとも感じました。ある意味で富野アニメ的。
スタッフの皆様、良いものをみせてくださりありがとうございました。

 

 

 

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*1:桜の木の下には死体が埋まっている、という俗説からの引用でもあろうが、桜が我が国を代表する花であるのも見逃してはならない

*2:加えて述べるなら、「M」の原液製造過程では多くの人間が屍人に変えられている。序盤では人形を抱えた呼吸器の弱そうな女の子が水木の乗る夜行列車の乗客の中にいるが、製造所ではそれと思しき人形が打ち捨てられているのが確認できる