成長は入れ替わりの先――「クレヨンしんちゃん もののけニンジャ珍風伝」レビュー&感想

©臼井儀人双葉社・シンエイ・テレビ朝日ADK 2022
無事春公開を迎えた映画「クレヨンしんちゃん もののけニンジャ珍風伝」。今回は忍者ものという舞台に野原家と屁祖隠(へそがくれ)家、2つの家族が現れる。両家の姿からは、特別と当たり前を問い直す本作の物語が見えてくる。
 
 

1.当たり前は当たり前でない

今回の話の始まりは5年前、しんのすけ誕生時にさかのぼる。慌てて病室を間違えるひろし、みさえへのねぎらい、命名や生まれたばかりのしんのすけを慈しむ様子……どこを取っても平凡な*1家族の様子がそこにはある。5年が経った現在、友人達としんのすけが遊ぶ様子もどこまでも平凡だ。ありふれている。しかし突如として野原家を訪れた女性・屁祖隠ちよめが、自分の息子・珍蔵としんのすけが病院で取り違えられていたと語ることで事態は激変する。事実ならしんのすけとの日々が当たり前のものではなくなってしまうのだから、ひろしとみさえが動揺するのは自然な反応だろう。
 
結果から言えば病院で取り違えられたというのは嘘、ちよめが忍者軍団から身を隠すための方便に過ぎなかったわけだが――重要なのは、たった一言で野原家が全く別物になる可能性があったことだ。私達が当たり前だと、絶対に変わらないと思っていることは実はそれほど盤石ではない。ほんの少し要素が変わるだけでガラガラと音を立てて崩れてしまうような、案外脆いものなのだ。
 
 

2.特別と当たり前と

当たり前だと思っていることは当たり前ではない。野原家に訪れるピンチと対を成すのが今回のゲスト、忍びの里の住人である屁祖隠一家である。忍びの里は「地球のおへそ」を守ることを使命としており、その中でも唯一「もののけの術」なる秘術を使える屁祖隠家はおへそを塞ぐ栓を押し込める役目を担った特別な家系だ。平凡で当たり前な野原家に対し、特別も特別なのが屁祖隠家なのである。普通なら両家の運命が交錯することなど考えられないが、しかし本作はそれを軽やかに起こして見せる。けしてちよめが一方的に野原家を利用したわけではない。しんのすけと珍蔵が同じ病院で同時期に生まれたのは事実で、もし本当に取り違えが起きていれば珍蔵は平凡な家庭で、しんのすけは特別な家庭で育つことになっていたのは間違いないのだから。しんのすけが忍者の中でもいつも通りだったり、珍蔵がアクション仮面に興味を示している様子からすれば、もし本当に取り違えられていたら二人は別に不自由なく適応していたことが伺える。
 
私達はふだん、当たり前と特別の間には厚い壁があるように感じて暮らしている。けれど本当は両者の間にあるのは薄い膜程度のものに過ぎず、遮られてはいるがふとした拍子に入れ替わることはけして珍しくない。病気や事故で誰かが死んだり、体が動かなくなったりすることだっていつも突然だ。だがだからと言って、本作は世の儚さだけを描いているわけではない。
 
 

3.成長は入れ替わりの先

先に書いたように、しんのすけと珍蔵の取り違えはちよめのついた嘘に過ぎない。しかし忍者軍団の勘違いによってしんのすけは珍蔵としてさらわれ、忍びの里での生活を送ることになる。これはある意味、嘘が本当であったら?というシミュレーションだ。一緒に連れ戻されたちよめは優しいし、しんのすけはいつもの調子で好き放題に動いた結果本物の忍者顔負けの活躍を披露したりもする。能力だけならしんのすけはきっと、忍びの里で暮らすにも苦労はしない。それでも彼は、里でずっと暮らそうとは考えなかった。ここにはひろしもみさえもひまわりもシロもいなかった。ついこの間まで当たり前にあった、ごく平凡な――自分にとって特別なものがなかった。
 
またこれも先に書いたように、屁祖隠家は唯一もののけの術を使える家系とされ故に忍びの里から重要視されていた。けれど終盤になって明かされたのは実はこの術は子供の自由な遊びが元となっており、本来子供なら誰でも使えるはずの術だということだった。事実、劇中のちょっとした事情もあってしんのすけ達かすかべ防衛隊は皆がもののけの術を成功させて見せている。特別も特別とされていたものは案外ありふれた、当たり前のものでしかなかったのである。
 
当たり前のものは案外当たり前ではなく、特別なものは実は特別ではない。この事実はしばしば私達を落胆させるけれど救いもする。現代で私達が当たり前のように享受しているものはかつては特別だったのを昔の人が必死になって変えたものだし、引き離された野原家を再び繋いだかけがえない思い出とは客観的にはありふれたものでしかない。それはどちらも、特別と当たり前の間にあるのが薄い膜程度のものに過ぎないから起きたことだ。
 
意見を述べる時、私達はしばしばこう言う。「自分は当たり前のことを言っているだけだ」と。さも相手が道理をわきまえない外道な愚か者であるかのように。けれど本当にそうだろうか。相手がその当たり前に納得しないのは、あなたとその人で少し見ている要素が少し違っていて――入れ替わっていて、当たり前ではなく特別なことに思えるからではないか。逆にあなたが「常識的にあり得ない」と思う特別なことだって、ちょっと要素が入れ替われば納得できるような当たり前のことになる可能性は十分にある。私やあなたが何も入れ替えていないと、いや取り違えていないと言い切れるものだろうか。
 
物語は最後、野原家と屁祖隠家が再び交流する様子を描いて幕を閉じる。それはつまり、当たり前と特別の入れ替わりが続くということだ。その中で特別な体験はいつしか当たり前のものになり、当たり前の体験は振り返った時かけがえない特別なものになっていくことだろう。そこにあるのはしんのすけ達だけの特別な経験だが、私達の多くも覚えのあるありふれた成長過程だ。
特別と当たり前は簡単に入れ替わる。そして、人も世界もこの入れ替わりの中で成長していくものなのだ。
 
 

感想

というわけで2022年の映画クレしんレビューでした。劇場でクレヨンしんちゃんを見るのはこれで3度目です。やっぱりこういう作品は豊かな発想が見られるのがいいですね。もののけの術でかすかべ防衛隊が動物を呼び出してからの流れとか、見ているだけで開放感に包まれます。あとレビュー中だと触れる機会がなかったのですが、ゲストキャラの風子がとてもかわいかった。最後のひと押しなんかも含めてもっと語りに突っ込めそうなキャラなので、そのあたりは誰か他の人の話を聞いてみたいなあ。今年も楽しい作品をありがとうございました。
 
 

*1:野原家はもはや平均的ではなくなっているが、家庭の一形態のモデルケースと呼べる程度に"平凡"ではあろう