あいしてるは蘇る――「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」レビュー

f:id:yhaniwa:20200919153519j:plain

©暁佳奈・京都アニメーションヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会

TVシリーズから2年、外伝から1年を経て公開された「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」。TVシリーズでは回想でしか登場しなかったギルベルト少佐の生存とヴァイオレットの再会が本作の柱となるわけだが――果たして本当に「ギルベルト少佐」は生きていたのだろうか?

 

 

「もういない」のは

ヴァイオレットにとってギルベルトは、崇拝とも言える感情の対象であった。名前ではなく単に「少佐」と呼ぶのは象徴的で、彼女にとってギルベルト以外の「少佐」は存在しないのである。しかし逆の見方をすれば、その時彼女が見ているのはあくまで偶像的な「少佐」であって、ギルベルト・ブーゲンビリアという1人の人間ではない。
 
ヴァイオレットが無邪気に慕う「少佐」と異なり、実際のギルベルトは家族関係に悩みヴァイオレットを戦わせる罪悪感に苛まれる平凡な1人の人間でしかない。エカルテ島で過去を捨てて名乗る「ジルベール」とは偶像性の剥ぎ取られた生身のギルベルトであり、そういった意味ではやはりヴァイオレットの慕う「少佐」は既に死んでいる。
 
 

蘇る「少佐」、蘇る「あいしてる」

しかし死とは越えがたい絶対の壁であるものの、叶わぬ再会を意味するものではない。思いは口にすれば宙空に消える――"死ぬ"が、思い出や記録、手紙といった別のものに変えれば擬似的に蘇ることができる。それも、時には本人すら気付かなかったことまで含めて。ヴァイオレットのしてきた代筆には、手紙には、本質的に蘇生術としての力がある。
 
 
ヴァイオレットが少佐に最後に書く手紙とは、偶像としての「少佐」に書く最後の手紙だ。「あいしてる」を与えてくれた偉大な人の死を受け入れ、思い出にすることを伝える別れの手紙だ。そこにそれ以上の意味を彼女は意識してはいないだろう。けれどその手紙は、ギルベルトの中でより大きな意味を持って蘇る。彼女の中にあるのは偶像への崇拝感情だけではなかったのだと。生身の、愚かで弱々しい自分ですら本当は彼女の中の「少佐」だったのだとようやく気付くのである。
 
だから彼は走る。転んで、涙して、叫んで、愚かで弱々しい自分そのものになって、ヴァイオレットを追いかける。責務から解放され強がりを捨てて、みっともない自分を全て吐き出して――死なせて、初めて「少佐」は蘇る。そしてその時、かつてヴァイオレットに伝えた「あいしてる」もまた、恋愛としての新たな意味まで含んで蘇っているのだ。
 
 

私達に届く「手紙」

そして、死して蘇るのはヴァイオレットとギルベルトだけに起きた奇跡ではない。手紙に変わり電信が人に何かを伝えるのも、クラーラのアンへの手紙がひ孫と両親の関係修復のきっかけとなるのも、全ては過去あったものが少し形を変えた蘇りだ。時を越えて蘇ったそれらが元来のものと少し違うように、本作を視聴した私たちが「あいしてる」を伝えたいと思う相手もまた千差万別だろう。しかしその思いさえ抱く限り、「あいしてる」は私達の中にもまた蘇っている。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という手紙は、時間はおろか次元すら越えて私たちに届いているのである。
 
 
 

感想

というわけで劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデンのレビューでした。当初はヴァイオレットとギルベルトの関係が恋愛的に収束することにモヤッとしていたのですが、パンフの石川由依さんとの対談で浪川大輔さんがギルベルトの情けなさに言及しているのを読んでこんな具合にまとまりました。確かに、こういうキャラを演じるにはベストのキャスティングだ……
 
ディティール的な部分でも「以前とは少し違う形で(市長との)コミュニケーションが取れないヴァイオレット」「危篤のユリスに「リュカくんよ」と渡される受話器」「うとうとしてしまうけどデイジーに切手のことを聞かれて目を覚ます老婆」など蘇りは豊富で、再び見ればまだまだ発見は多そうです。……あ、エカルテ島でギルベルトが先生をやっているのは、ヴァイオレットにしてあげたかったことの「蘇り」なんだな。
あと、ディートフリートがすっかりイイ兄貴&かわいいキャラとして「蘇って」いるのは本当にズルいと思います。そりゃスタッフの中で株が上がりもする。
 
僕の中の「あいしてる」をこのレビューに込めて。スタッフの皆様、ありがとうございました。