「映画大好きポンポさん」は取り扱い要注意作品【感想】

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©2020 杉谷庄吾人間プラモ】/KADOKAWA/ 映画大好きポンポさん製作委員会
「映画大好きポンポさん」見てきました。楽しい作品でしたが、きっと嫌な捉え方もされるんじゃないかなと思ったので、そのあたりを軸に書いておきます。
*原作未読
 
 

1.編集とは「切り捨てる」ことか?

映画製作を舞台にした本作、クライマックスの一つとして挙げられるのは主人公にして監督に抜擢されたジーン・フィニが編集世界へダイブする場面でしょう。スタッフや俳優との良好な関係や天気にも助けられた素晴らしいシーンの数々をバッサバッサと切り捨てていく姿は圧巻で、「たった一つのために他の全てを捨てる」まさにマイスター的な壮絶さに満ちている。
活かすことは殺すこと、人生は選択の連続――ですが、だからと言って本作はけして、「切り捨てる」という行為をただ称揚しているわけではないように思います。
 
映画アシスタントに過ぎないはずのジーンが映画監督に抜擢されたのは、別の映画の15秒CMを見事に作ってみせたからでした。90分の映画の魅力を15秒で魅せるのはもちろん編集の仕事であり、ジーンはクライマックス同様の編集世界へダイブしクライマックス同様にバッサバッサと場面を切り捨てていきます。しかし実のところ、そこにあったのは切り捨てだけではない。15秒のCMにはオフショット、映画本編では切り捨てられた・・・・・・・ものが拾われていました。
 
 

2.切り捨てられた者たちの復活劇としての「映画大好きポンポさん」

振り返ってみればそもそも、切り捨てられていたのはジーン自身です。学生時代は友達もいないクラスから浮いていた存在、満たされぬ青春ゆえにその瞳にはダントツで輝きがない。本作でこそ社会的成功を掴んでいますが、映画業界以外の道を進めば陰気で無能な人間として疎まれて終わっていたことでしょう。けれど映画プロデューサーであるポンポさんは、切り捨てられたジーンにこそ必要なものを見出した。
 
主演に選ばれたナタリーにしても受けたオーディションそのものでは失格=切り捨てられていて、しかしポンポさんは切り捨てた彼女の中に次の映画の脚本を描かせるだけの輝きを見つけ出していた。
 
切り捨てられたはずの二人の抜擢はジーンの元同級生のアランと対の関係にあり、ハイスクール時代はクラスで必要とされていた彼は今は就職先でお荷物=切り捨てられてもおかしくない存在になった自分に悩んでいます。撮影時は素晴らしかったシーンが編集ではカットされるように、何が選択されるかなんてその時々で変わるものであり、切り捨てられることは対象が無意味な存在であることを意味しないのです。
 
 
映画を完成させるために必要な編集という行為は、本質的には「切り捨て」ではありません。一つの答えにたどりつくための道筋の「発見」であり、切り捨てどころかむしろ増量をすら求めることもある。ジーンが編集作業の中で見つけたのは追加撮影の必要性――かつては撮影の俎上にすら乗らずに「切り捨てられた」、劇中の登場人物がかつて「切り捨てた」ものを描く必要性でした。
 
 

3.「切り捨てる」ための論理ではない

パンフレットによれば、この映画の原作は深夜アニメの企画として作られるも不採用、つまり切り捨てられた経緯を持っています。ですが原作の杉谷庄吾人間プラモ】氏が温め直し個人で発表した結果、大人気を博して映画化にまで至った。本作はジーンや物語だけでなく、その生い立ち自体が切り捨てられたものの復活劇としての一面を持っていると言えます。映画化を担当した平尾隆之監督が「マイノリティがマジョリティに一矢報いるような物語」と本作を評している(パンフレットインタビューより)のは、切り捨てられた存在にマイノリティを重ねて見ているからなのでしょう。
 
ただ、クライマックスとして挙げたように本作が編集の一面として「切り捨てる」場面はあまりにインパクトが強い。自分の骨肉や愛児を切り刻むようなその行為を「殺す」「消す」と形容するのも、責任感と誠実さの現れであるがゆえに刺激的で、ゆえに格好いい。生殺与奪の剣の重みに一度は立ち止まった彼がそれを振るう姿は、エゴイスティックであるがゆえにヒロイックです。
だからきっと、これは誤解を生む。誰かを「切り捨てる」行為は格好いいのだと、誤解を生む。
 
生活保護受給者や障害者は社会に貢献しない存在だ。切れ
「外国人や性的マイノリティはいなくても社会は成立する。切れ
「異議申立を行う者は社会のノイズである。切れ
 
誰かを「切り捨てる」行為を考える時、本作のクライマックスを引用して考えてしまう人が少なからずいるのではないか。マイノリティがマジョリティに一矢報いるはずの本作を、自分がマジョリティに立った時にマイノリティを圧殺するための論理に使ってしまう人がいるのではないか。そんなことを僕は恐れてしまいます。「そんなことあるわけないじゃないか、みんな本作を見てむしろ切り捨てられる人にこそ目を向けるよ」と笑ってくれるならそれでいいです。僕が恥をかけるなら、その方がずっといい。
 
ジーンが悩み苦しみ、「正解なんて分からない」と言うように、編集という行為は重くまたけして正しさを確定できないものです。そして、その中でも私達は何かを選択していかねばならない。
僕は少なくともその時、これがリアリズムなんだとすまし顔でその実、切り捨てるものに目もくれないような人間にはなりたくない。そう、思います。
 
 

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