世界を貫くルール――「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」レビュー&感想

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言わずと知れた世界的ゲームを映画化した「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」。劇中ではゲームをほうふつとさせる場面が多数あることも話題を呼んだ。だがこれは単なるファンサービスに留まらず、れっきとしたテーマの一環だ。
 
 

1.別世界のルール

1985年にファミコンで「スーパーマリオブラザーズ」が発売されて以来*1、テレビゲームの王者として君臨し続けるマリオシリーズ。映画化作品である本作は実際のゲームを思い出させる描写が数多くあり、そのファンサービスぶりが熱狂とともに賛否を呼んだのだが――私は視聴していて不思議に印象に残った言葉があった。主人公マリオが迷い込んだ不思議の世界のキノコ王国のピーチ姫の「ダメージを受けると消えちゃうのね」といったセリフだ。ゲームのような「ステージ」攻略をマリオに課した際、不思議なキノコによるパワーアップに関して語ったものであり、なんとも説明的ではある。だが、実際これは説明なのだ。
 
マリオが迷い込んだ不思議の世界は、彼が暮らす私達と同じ世界のブルックリンとはまるで違った世界である。ブルックリンでは身の丈を超える巨大キノコが一面に生えていたりしないし、意思を持つキノコが人間のように振る舞ったりもしない。私達の常識が通じない世界。そのことをマリオは、キノコのキノピオに案内されて訪れたキノコ王国でも嫌というほど知ることになる。どういう原理で浮いているのか分からないブロック、複雑怪奇に入り組み思わぬ場所に通じる土管の数々……これらが見たものにゲームをほうふつとさせるわけだが、こうしたキノコ王国の様子や先のピーチ姫のセリフはファンサービスに留まらず、不思議の世界が私達の世界とは違うルールで動いていることを説明するものなのである。
 
ともすると私達は、世界のルールは共通した一つのものしかないように錯覚しがちだ。子供にとって学校が世界の全てになってしまうことは珍しくないし、「まともに働いた経験があれがこんなことはしない」といった批判がNPOなどに寄せられることも多い。だが地球が一つであっても世界というのは実際はたくさんあるもので、ある世界では正論・正攻法であっても別世界では通用しないことが珍しくない。ゲームのマリオにしても、人間があんなに高くジャンプできるわけがないだとかキノコで頭身が上がるなんておかしいだとか現実のルールで判断していればとても遊んでいられない。
ブルックリンでのマリオ、そしてルイージの兄弟は冴えない配管工だ。独立して会社を興すも評判は芳しくなく、街の人はおろか父親にも認められず肩身の狭い思いをしている。所属する世界のルールに上手く馴染めずにいる。だがはぐれ囚われてしまったルイージクッパから助け出すため旅をする中で、マリオはそれとは異なる別世界のルールに適応し学んでいくことに成功する。ゲームオーバーになっても諦めずにチャレンジを繰り返し、一歩ずつ先へ進んでいく彼の姿は「マリオ」ユーザーそのものだし、そんな風にルールの異なる別世界的なものに救われた経験はゲームに限らず多くの人が覚えのあるところだろう*2
 
不思議の世界の冒険の中、マリオはこの別世界には更にいくつもの世界があることを知る。クッパの侵攻を止めるためピーチ姫が同盟を求めに行ったジャングル王国はキノコ王国とはまるで異なる密林の世界にしてその住人は喋るゴリラだし、彼らを仲間にしてキノコ王国に戻る際に使用するショートカットは虹の上を走るという驚きの道路だ。劇中ではまともに顔合わせする機会がないが、クッパに征服されたペンギンの国のような極寒の世界もある。
こうした別世界のルールを知り活用することで、マリオは不慣れな初心者から熟達したゲーム・プレイヤーへと変貌していく。圧倒的なパワーを持つジャングル王国のドンキーコングに対し猫の着ぐるみ(ネコマリオ)の敏捷性で勝利したり、虹の上でクッパ軍団から襲撃を受けた際は「マリオカート」のように亀の甲羅で彼らの乗り物をスリップさせたり……クッパが放った巨大砲弾マグナムキラーを誘導して土管に吸い込ませて倒す様に至っては、ブルックリンの冴えない配管工だった彼とはほとんど別人に思えるほどだ。だが、この極まった技巧は次の瞬間彼に思わぬ落とし穴をもたらす。マグナムキラーを吸い込んだ土管はブルックリンと不思議の世界を繋ぐものであり、爆発の衝撃で彼はおろかクッパ達まで元の世界へ送り込んでしまったのである。
 
 

2.世界を貫くルール

私達の世界へやってきてしまったクッパはブルックリンでも大暴れを始めるが、ここでのマリオは先程までと打って変わって無力だ。当然だろう、ここには叩けばパワーアップアイテムを出してくれる「ハテナブロック」は存在せず、マリオはただの冴えない配管工でしかない。私達の世界では別世界でのルールは通用しない……これは現実でも同様である。ゲームなりなんなり没頭できるものがあってもテストや営業の成績が上がるわけではないし、足も速くなったりはしない。そんなものはしょせんただの逃避でしかないのだと、何もできないマリオの姿は私達に突きつけているようにも見える。だが、本当にそうだろうか。
 
マリオが不思議の世界で見つけたのは、自分達の世界と異なるルールだけではなかった。キノコ王国唯一の人間であるピーチ姫は本作では幼い頃にマリオ同様に不思議の世界へ迷い込んだらしいことが語られているし、短気で子供っぽくてマリオとはまるで違って見えたドンキーコングは父親に認められていない悩みを抱えている点でマリオと重なる部分があった。別世界のルールは私達の世界と異なるものではあったけど、何もかもが違っているわけではなかったのだ。だからブルックリンに戻ってきたマリオも、私達の世界で別世界と通じるルールを見つけることで再起する。
配管工である彼は不思議の世界に迷い込む前、自社のCMを作って「ブルックリンを救う」と謳っていた。それは当時は配管工としての仕事についての意気込みに過ぎなかったが、別世界に迷い込み別世界のルールを経験した今となってはそれだけに留まらない。例え凶暴な怪物が相手だとしても、ブルックリンを救うのが自分の役目であるとマリオはとっくの昔に宣言していたのであり、ならばここでだってマリオは再び立ち上がれる。そして、こうしたルールにまつわる不思議は彼を奮い立たせるだけでなく救いもするものだった。
 
自分の無力さを知りながら立ち向かったマリオは、それでもやはりクッパに有効打を与えることはできない。だが、クッパの吐く炎に危うく焼き殺されそうになった彼は思わぬ存在に助けられることとなる。弟ルイージが、マンホールのふたを盾に炎からマリオを守ってくれたのだ。
成果を上げられているかはともかくバイタリティに満ちたマリオと違って、ルイージはどうにも頼りない存在だった。幼い頃は同年代の子から嫌がらせを受けたところを兄マリオに救われた様子が回想されているし、本作でもクッパ軍団に捕まって何もできず囚われたままというへっぽこぶり。不思議の世界へ迷い込む際もすっかり怯えてしまった彼は、はぐれる前にマリオにこう声をかけられている。「二人一緒なら大丈夫」……と。
マリオにとってこの言葉は、あくまで自分が弟を守るんだという決意表明でしかなかっただろう。だがこの言葉はそんな狭い意味しか、ルールしか持たないものではない。逆にルイージがマリオを助けたって、この言葉にはなんら反するところはないのだ。弟の振り絞った勇気は、いわば兄の言葉を別世界へ導くものであった。
 
世界は一つしか無いように思われがちだが、実際はたくさんの世界がある。だが逆に、たくさんに分かれて見える世界を貫く根本原則と呼べるルールだってある。マリオにとっての世界を貫くルールとは、自分とルイージが二人一緒なら大丈夫であること――本作がスーパーマリオブラザーズであること――ただ一点を指す。「二人一緒なら大丈夫」とはそういうものだ。
世界を貫くルールとは厳格にして融通無碍であり、私達はそうしたどの世界でだって通じる根本原則を見つけることができる。これはゲームと現実に限った話ではなく、人種だとか国境だとか兄弟だとかいった"別世界"でだって言えることだ。マリオとルイージが逆転の一手として手にしたのは唯一つこちらの世界へ持ち込まれた無敵アイテム・スーパースターであったが、それはマリオがルイージに助けられた時に見つけた輝きと同じものだったのだろう。本作がタイトル通りの映画になったあの瞬間、勝負は既についていたのだ。
 
本作はマリオを知るファンを楽しませる工夫に、ファンサービスに満ちている。しかしファンサービスであることは他の要素を持たないことを意味しないし、描写というのは仮に意識せずとも作り手の思いを帯びるものだ。映画「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」は、娯楽と思想の別世界を貫くルールを体現した作品なのである。
 
 

余談

というわけで映画「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」レビューでした。正直に言うと、私はあまりマリオに思い入れのある人間ではありません。ゲームにどっぷり浸かって育った世代でありマリオの偉大さは知っているつもりですが、いかんせんアクションゲームがドのつく下手くそで……なので本作を見るつもりはなく賛も否も遠巻きに見ているだけだったのですが、アニメ評論家の藤津亮太さんの本作評を読んで興味が湧き見に行ってみました。本来なら日曜日中は「機動戦士ガンダム 水星の魔女」に備えて休んでいるところなので、今週が特番でレビューをお休みできるのは実にタイミングが良かった。
 
鑑賞してみるとレビューのテーマになるものはするすると出てきて、私にとって本作は映画以外の何物でもなかったなと思います。悪く言えば数多見た映画の一つに留まっていて、「映画の可能性を広げていない」というすぱんくtheはにーさんの映画評もマリオにも映画にも詳しくない人間なりに頷けるところがある。
 
本作の持つテーマ性はとても理念的で、現実に適用した時に壁を超えて刺さる新しいフックや鋭さを持ってはいません。この作品を胸になんらか別世界との壁を越えようとしても、きっとそこでは複雑さに負けて挫折する未来が待っているでしょう。困っていると当事者が声を上げた時「困ってない」と現状に対して都合のいい別の当事者の声が取り上げられたり、弱者の手法がパクられて落ちぶれる中間層に弱者を攻撃させるための道具に使われたり、現実はあまりに複雑怪奇にできている。
けれど一方で、理念というのは理念だから別世界との壁を超える力を持ち得るものでもある(だから悪用されもするのだけど)。マリオやルイージが振り絞った勇気だとか、戦うどころかマリオの師匠ですらあるピーチ姫の姿だとか、マイノリティな敵キャラクターがクッパに「その他大勢共」とまとめられてしまう理不尽さとか、そういったものが本作を見た子供達の一つの原点になってくれたらいいなと思います。同時に、私のように曲がりなりにも年を食った人間にとって、原点とは懐かしむのに加えて現在の自分を見直すものであってもいいはずだ……とも。
 
なお、書くことがまとまった際に目にした評論家の小野寺系さんの記事は素人の私が考えたようなことはだいたい書いてあって冷や汗をかきました。興行的要素について語れる舌は持っていないので、逆にそこを軸に私なりのいつものレビューにしたつもりです。
 
見た人の反応も含めて「今」が反映されている映画でした。良い経験をさせてもらったと思います。ありがとうございました。

 

*1:マリオが初めて登場したのは1981年の「ドンキーコング」だそうだけど

*2:読書だとか料理だとか、没頭できるものは全てが同じ力を持っている