「演技」が表現するもの――「かげきしょうじょ!!」6話レビュー&感想

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© 斉木久美子・白泉社/「かげきしょうじょ!!」製作委員会
新たなステージへ進む「かげきしょうじょ!!」。6話では実技発表がありさらさ達はロミオとジュリエットを演じる。演じることは表現すること。しかし、そこに現れるのは「役を表現する力」だけだろうか? 今回の話は、さらさ達をむき出しにする舞台の幕開けである。
 
 

かげきしょうじょ!! 第6話「スターの片鱗」

 

1.演技が特別な世界と、世界にありふれた演技の機会

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© 斉木久美子・白泉社/「かげきしょうじょ!!」製作委員会
安道「予科の内はお行儀よく椅子に座って演劇論を詰め込む。それが紅華音楽学校100年の伝統」
 
本作は舞台演劇のための学校を舞台とした物語であり、当然ながら演劇は、演技することは頂点に置かれている。歌も踊りも全ては演劇のためのものだ。故にカリキュラムでは本科生になるまで実技はお預けとなっているし、逆に予科生とすれば演技の実技指導がないことに物足りなさを覚えもする。紅華にとって演劇は、演技は特別である。
しかしそもそも、演技というのは役者にしか縁のないものだっただろうか?
 
 

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© 斉木久美子・白泉社/「かげきしょうじょ!!」製作委員会
さらさ「で、一番表現力を養うのはこの演劇の授業だと思うのですが……」
 
予科生は基礎ばかりの毎日に不満を抱いているが、それをストレートに言っても受け付けてもらえるわけもないからさらさは他の講師が言う「表現力」をてこに実技指導を訴える。彼女はプレゼンテーションを行ったわけだが、それは言ってみれば訴えたいことの正当性や必要性をアピールするための「演技」だ。欲しい物を買ってほしい、買わせてほしいと保護者などに訴えた経験のある人は多いだろうが、そういう時にも私達は「演技」をしている。舞台には立たずとも、「演技」する機会は実は私達の世界では珍しくないのだ。
 
 

2.表現は些細なことに現れる

「演技」する機会は私達の世界では珍しくない。それは見方を変えれば「表現」する機会が珍しくないということでもある。
 

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© 斉木久美子・白泉社/「かげきしょうじょ!!」製作委員会
愛(カエルには負けない。渡辺さんがバラよりもっと喜ぶものを渡したい。だって、初めてできた友達だから)
 
例えば今回はさらさの誕生日の話でもあり、愛はさらさが(実際は違うが)恋人からもらったバラより喜ぶものを渡したいと考える。それはさらさの恋人よりも自分の方が彼女を思っていると考えているからであり、プレゼント内容はその思いを「表現」するものだからだ。
愛は結局、さらさの好きなアニメのコンビニくじのA賞景品をプレゼントに選ぶ。それは確かに彼女の好みにぴったりのものであったが、「表現」するものはそのプレゼントだけではない。
 

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© 斉木久美子・白泉社/「かげきしょうじょ!!」製作委員会
愛は照れ隠しに1回のくじで当たったと言うが、実は景品は何十回もくじを引いて当てたものだった。友達のプレゼントのために何十回もくじを引く――愛の行為はそれ自体がさらさへの思いの強さを「表現」している。
またさらさにとってはプレゼントが嬉しいのはもちろんだが、それ以上に嬉しかったのは愛がさらさを名字とさん付けではなく下の名前で呼んでくれたことだった。目に見えないただの呼び方だけではしゃぐさらさの姿は彼女の自分への友情の「表現」であり、だから愛はそれが嬉しかったりする*1
 
これらに共通するのは、「表現」とはけしてかしこまった形に限らないことだろう。人の行動は些細なこともその人固有のものを「表現」せずにはおかず、シャーロック・ホームズのような名探偵相手でなくとも本質を顕にする。さらさの訴えの際に安道が見回した教室の面々は無言でも実技指導の要望を訴えていたし、路上で練習しようとするさらさ達への星野薫の一喝は彼女の感じているプレッシャーの現れでもあった。
 
「演技する」機会はけして特別ではなく、「表現」は些細なことに現れる。――であれば当然、さらさ達に応えて安道が用意した実技の機会で見えてくるのも単なる上手さなどではない。
 
 

3.「演技」が表現するもの

「演技する」機会はけして特別ではなく、「表現」は些細なことに現れる。であれば演技を頂点に置く紅華において、実技の機会で見えてくるのは単なる上手さではない。もっと全人格的な、演劇をする人間としての今のさらさ達に欠けているものだ。
 

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© 斉木久美子・白泉社/「かげきしょうじょ!!」製作委員会
愛「……わたし、漢字読めないの」
 
演劇をする人間として現時点で欠けているもの。それがもっとも分かりやすいのは奈良田愛であろう。美しい容姿や元アイドルの経験は確かに役者としても有用なものであったが、芸能活動などで学習が十分でなかった彼女は漢字を読めない=台本を読めないという問題点に突き当たる。またさらさの輝きに惹かれてトップへの意欲を持った彼女にとっては「ロミオ」もまたさらさであり、故にロミオ役が薫では彼女の演じるジュリエットは恋をしない。全体に想像力の不足を安道に指摘される千夏や、男役への意欲(評価)が先走りすぎる薫なども同様だろう。
 

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想像力、表情の硬さ、自己意識……安道は短くも端的に予科生達の問題点を指摘する。その対象は、憑依とすら言える演技を披露したさらさもまた例外ではない。
 
 

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さらさの演技は確かに素晴らしかった。
想像のステージをサッと皆に提示し、目線は2階席や照明の角度まで意識した行き届いたもの。オーラすら幻視させる悪役ぶりは、他の予科生を感嘆させずにおかない。だが安道は彼女の演技を高く評価しつつ、今のままでは絶対にトップになれないと言い放った。そこににじみ出ていた、さらさの重大な欠点を見逃さなかったのだ。
 
果たして彼女が今のままではトップになれない理由とは何なのか。安道から見て、さらさの「演技」はいったい何を「表現」していたのだろうか?
 
 

おまけ

見事な演技を披露したさらさがトップになれないと言われる理由は何か。普段は展開予想の類はしないのですが、せっかく原作未読なのだしさらさの演技が「表現」しているもの予想してみたいと思います。既読の方は笑ってお読みいただければ幸いです。
 

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今回さらさは安道先生の説得にあたって講師陣の上手なモノマネを披露します。誰のモノマネなのか言わずとも伝わるほど抜群の演技ですが、これは「正解のある演技」なのですよね。講師陣のモノマネだから当然ですが彼らは実在する人物で、それに寄せることが正解になる。
しかし紅華の劇場でさらさ達が演じるのはオスカルやロミオといった架空の(仮に実在であってもフィクションの人物として再構成された)人物であり、そこには寄せるべき相手がいません。正解がありません。役者は自分と別の人間になりきる必要がある一方、その誰かは自分の中から生み出さねばならない。
 

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© 斉木久美子・白泉社/「かげきしょうじょ!!」製作委員会
台本読み合わせの時のさらさはまともに読むこともままならなかったはずが、冬組の演劇のブルーレイを見た翌日にはその演技は生まれ変わっていました。
またその前を振り返ってみても、ベルばら以外の演目をほとんど知らなかったはずの彼女は一度見ただけで周囲を引き込むほどのロミオの演技を披露していました。
 
正解がない、と書きましたが、この2つのケースではさらさは正解を見ています。そう、実際に紅華の劇団員が披露したティボルトやロミオという「正解」です。それは確かに役者が自ら生み出した別人であり、正解だからこそ観る者を魅了してやまない。ですが、それはあくまでその役者だけの・・・・・・・正解であって、さらさにとっての正解ではない。さらさが彼らの「モノマネ」をしているに過ぎないとしたら、それはどれだけ上手くとも確かにトップにはなれない。トップとは誰かのコピーではなく、燦然たる唯一無二の輝きで舞台を照らせなければ務まらないからです。
 
もしこの予想の通りであれば、さらさはモノマネではない自分を掘り出さなければならない。それはきっと、彼女の過去に少し踏み込むことでこそ果たされる。そこには愛がさらさにしてあげられることもまた含まれているのじゃないかな、と思います。さてさて、この書き連ねた駄文は次回赤恥にならずに済むのでしょうか。
 
 

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*1:下の名前で呼ぶにしても「さらさちゃん」「さらっち」など愛が悩むのも表現の問題であり、またそれ自体が彼女がさらさを大切に思っていることの表現でもある