勝ち取ったものは――「EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション」レビュー&感想

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©️2021 BONES/Project EUREKA MOVIE
TVシリーズから16年かけて終わりへたどり着いた「EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション」。本稿では、完結編となる本作でエウレカが勝ち取ったものは何なのか考えてみたい。
*バリバリネタバレです。ご注意。
 

 

 
 

1.混じり合う現実と虚構

僕は前作「ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション」を「夢と現実が手を取り合う物語」と捉えている。仮想空間への潜入が行われたり、最後の脱出で夢での順路が活用されたり……夢とはもちろん、虚構であるとか偽物であるとか言い換えてもいいだろう。
「ANEMONE」では最終的に、アネモネエウレカに手を差し伸べたことで仮想世界は現実での体を受肉し、まさしく夢と現実は手を取り合った、はずだった。
 
しかしその後を描く本作「EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション」では、両者の折り合いが必ずしも上手く行っていないことが明かされる。もともと現実に存在した人類は「ブルーアース」、受肉した仮想世界からの人類は「グリーンアース」とそれぞれを呼称し、両者は協力しているが完全に信用しているわけでもない、かといって戦争を画策する者がいるわけでもない微妙な関係にある。米軍所属のエリート部隊"スーパー6"の少女達がニルヴァーシュXを改造した合体巨大ロボット・ラブレスを操縦したり、彼女達のルックスがアイドルのような点(劇中で言及される)も含め、本物と偽物、現実と虚構は区分されながらも微妙に混じり合う複雑な状態だ。こうした影響からは当然、主人公であるエウレカも逃れられない。
 
 

2.現実を体現する者、虚構を体現する者

本作のエウレカは、"EUREKA"としての特別な力を失い普通の人間になっている。"鋼鉄の魔女"の異名を取りエースパイロットのホランドを手玉に取るほど優秀ではあるが、けして随伴するドローンをニュータイプのような力で操っているわけではない。キャラクターデザインが吉田健一から奥村正志に交代しキャラ自身の年齢も大人になったこともあり、幻想じみたヒロインだったエウレカは今回、あくまで現実的な手段に立脚するキャラクターへと変貌を遂げている。
 
現実に立脚するエウレカに対して、彼女を追いかける敵役のデューイ・ノヴァクは極めて虚構的だ。超能力で転移したり物理法則をねじ曲げた動きを見せたり、何度も殺されながら蘇ってくる。力と結びついたピアスが残っている間は生き返れると序盤で明かされることもあってその死は極めて茶番じみて――すなわち虚構じみていて、しつこく感じられるほどだ。本作での現実と虚構は、ブルーアースとグリーンアースではなくエウレカとデューイの間でこそ対立している。そしてここで重要な役割を果たすのはもちろん、エウレカが保護し逃避行する新たなEUREKA、アイリスの存在である。
 
 

3.未分化の現実と虚構の可能性

現実と虚構の対立構図の中に登場するアイリスは、果たしてどちら側の存在か?と言えばこれは難しい。生意気な子供としてのありようは現実的な一方で、EUREKAとしての力は虚構的な力以外の何物でもない。どちら側かというよりどちらでもある・・・・・・・という方が実際であろう。彼女の中では現実と虚構が未分化な状態なのである。
 
子供というのはもともと、様々な要素が未分化なものだ。性自認や善悪、していいことと悪いこと等様々な区別がついていない。相手が「おばさま」と呼ばれて気にしないかどうかも分からないし、危険だと散々説明されても寂しさのあまり養父母へ電話してしまったりする。アニメや漫画の必殺技を真似した過去は多くの人が身に覚えがあるだろうが、夢が本当に現実に顕現してしまうアイリスの力はその極限のようなものだ。そして、そんなアイリスだからこそエウレカに与えられる変化がある。
 
先に書いたように、アイリスには現実と虚構の区別がつかない。しかしそれは、使い方によっては現実だと思われている虚構やその逆を暴き出す力でもある。エウレカは自分をあくまで多くの人々を死なせた罪人であり今の戦いもその償いでしかないと思っていたが、アイリスには多くの人を助けようと戦うその姿はヒーローとして映るものだった。同時にアイリスとの交流は、"鋼鉄の魔女"として閉ざされていたエウレカの心を溶かしてもいった。言うことを聞かない、話を聞かない未分化の厄介者だったはずのアイリスはしかし、いつしかエウレカにとって大切な存在になっていた。
 
しかし人が成長していくにつれ現実と虚構を区別していくように、境界のあやふやさは大きな危険を伴うものだ。デューイ一派にアイリスを連れ去られてしまったエウレカが子供のように泣きじゃくる終盤からの話は、それこそが物語全体の危機として迫ってくる。
 
 

4.現実と虚構の区別の限界

終盤、移民宇宙船を選挙したデューイは自分達がエウレカによって作られた架空の存在であることを明かす。自分が台本通りにしか生きられない存在――虚構の存在と気付いた絶望と、にも関わらず己の胸に去来する思いが本物(現実)と信じたいからこそ、彼は創造主エウレカへの反逆を企てたのだった。自分で自分の命を断てば、それでこそ己の中で現実と虚構の区別が付けられると考えたのだ。
しかしアイリスが着けていたのだが雪月花のブローチだと――旧劇場版「ポケットが虹でいっぱい」の産物で現実には存在しないはずのものだと――認識したデューイは、エウレカと創造主とした世界そのものすら虚構の存在に過ぎない可能性に思い至ってしまう。台本から外れた行動を取れたつもりが台本の中でしかないと気付いた彼の絶望は、つまり現実と虚構の区別をつけようとして更なる混同の迷路に迷いこんでしまった絶望であった。
 
彼の絶望に引っ張られるように、世界もまた混同の地獄に引きずり込まれていく。地球に落下する移民宇宙船から妻タルホとお腹の中の子供を守るために特攻したホランドを皮切りに、多くの人間が自分の命を捨てていく。船を破壊すべくニルヴァーシュで内部に入っていたエウレカはそれが辛い。元は自分の作ったもの――虚構であったことはもはや意味を失っている。
 
 

5.勝ち取ったものは

デューイの末路から見えるように、答えは現実と虚構の区別にはない。必要なのはもっと別の区別……「私と世界の区別」だ。「私と他者の区別」と言ってもいいだろう。
ホランドは、幼き日のデューイは自分が目を閉じ眠ったら世界が終わってしまうのではないかと恐れていたと語った。成長するにつれてそれがバカバカしい考えだと分かるのは、自分と他者や世界が別物だと分かっているからだ。区別をつけられるようになるからだ。
 
「ANEMONE」で描かれたように、かつてエウレカは現実でも虚構でも多くの人の命を軽々しく奪った。それはその時の彼女にとって他者が、世界が自分の中の存在だったからだろう。自分のものを自分で好きに扱って何が悪いのかと、そういう感覚だったからだろう。けれど今のエウレカにはそんなことはできない。EUREKAとしての力を失ったからか?違う、彼女が自分と他者を、世界を区別できるようになったからだ。例え生まれが自分の生み出したものに過ぎないとしても、もはやそれは自分と等しくまた別個の存在であると認識しているからだ*1
自分と他人を区別できるようになるほど、人は自分の無力さを知るようになる。エウレカは多くの人の命を奪った罪を認識してただのエージェントになり、それへの贖罪というある種の傲慢さをアイリスに解かれたからこそ数多の特攻を見ていることしかできない。エウレカにとっては弱くなること、いや弱さを認めることこそが成長であり、彼女という個の確立であった。
 
人は自分を確立して初めて、本当の意味で他人を求めることができる。自分と全く別の存在にこそ人は感情を動かされ、愛することができる。だからこの終盤も終盤、絶体絶命の状況になって初めてエウレカは愛しい人の名を叫ぶことを許されるのだ。「レントン!」と叫んで、助けを求めることができるのだ。とうに少女を終えたはずの彼女は、こうして本当の意味で少女を始めることができたのだった。
 
交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1」でレントンは、過去と現在を行き来する混乱の中で自分の原点がエウレカへの恋心であることを再認識した。「EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション」のラストはそれと似ていて、しかしその少し先へ進んでいる。2017年の1作目公開から4年間の旅路は、全てこのたった一つへこそ繋がっていた。
「ハイエボ」の物語でエウレカは、一人の人間として他者を、そして誰かを愛する心を勝ち取ったのである。
 
 

感想

というわけでハイエボ完結編のレビューでした。し、しんどかった……1回目を見終えて「これは現実と虚構に関するお話なのかな?」とボンヤリ考えていたところパンフで京田知己監督やアニメ評論家の藤津亮太さんも触れており、少し違う切り口で書けそうな要素を探った上で2回目を見て、ざっくり構想はできたはずが書き始めてみるともっと別の方向に行けそうで……と自分としては結構な文字数を費やすことになりました。
 
TVシリーズや旧劇場版は後年いちおう見てみて「よく分からん」止まりだったのですが(AO好きです)、その後に見たこのハイエボシリーズはどれもとても刺激的で。スカブ云云の設定は相変わらず全く分かってないのですが、それでも全然構わず楽しませてくれるものがありました。1作目の主題歌である尾崎裕哉の「Glory Days」のアニメPV、作品の魅力がギュッと濃縮されていてとても好きです。「PLAY BACK」と「PLAY FORWARD」の音楽とのドライブ感がたまらないし、エウレカと手を繋ぐ時のセピア色に輝いている光景は何度見ても胸がキュンとしてしまう。
16年の歴史に付き合えた人間ではないんですが、僕にとって2017年からのこの作品との付き合いは非常に大きなものでした。ありがとう、お疲れさまでした!
 
 

*1:当然だが、これはメタ・フィクション的に置き換えて考えてみるべき感覚である