いにしえへ潜る「平家物語」。1話では平家の栄えと共に有名な「平家にあらざれば人にあらず」の言葉が登場する。本作のこの言葉はしかし、驕りだけを指していない。光が当たるのは一面だけではない。
平家物語 第1話「平家にあらざれば人にあらず」
1.人ならざる者は平家にあらざる
時忠「国を治むるに平家以外に人はおらぬのかと言うほどの上り詰め方。いや!この平家の一門でない者なぞ人にあらず!」
1話劇中、平家頭領・平清盛の弟である時忠は平家の栄華を指してこう言う。「平家にあらざれば人にあらず」……平家の増長の象徴とも言えるこの言葉だが、本作はそこにもう少し含みを持たせている。ひっくり返せば、人ならざる者は平家にあらざるのだ。そう、例えば余人の目に映らぬ何かが見えるような者は。
本作には琵琶法師の娘で未来を見通す目を持つ少女びわの他にもう一人、余人の目に映らぬものを見る力を持った人間が登場する。誰あろう清盛の長男、亡者を見る目を持つ平重盛だ。平家の中の平家とも言える彼が平家にあらざるとは奇妙に思えるかもしれないが、注目したいのは彼が平家の中で浮いている点である。
重盛「私は面白くはございませぬか」
重盛はけして平家一門から疎んじられているわけではない。港を作るため京都を離れる清盛は頭領の座を任せるし、一門が栄華に酔いしれる中でも浮かれぬ彼を褒めている。
しかし一方、清盛は重盛を「面白うはない」とも言う。劇中何度も「面白かろう?」と繰り返す姿からも分かるように、清盛にとって面白いか否かは重要だ。厳島の海への神社建立も、先代忠盛が銀箔を貼った竹光で公卿を威嚇した逸話も、面白いからこそ彼の中で意味を持つ。重盛は発想も性格も常識的な故に飛躍できず、清盛はそこに面白さを見出だせない。自分や父のような「平家らしさ」を見出だせない。
傲慢の産物としても「平家にあらざれば人にあらず」と言ってしまえるような飛躍こそ人の面白さであり、良識的な重盛はその点でむしろ非人間的、そして非平家的だ。亡者を見る力を持つ彼の目は、周囲の人間と違う価値観で物事を見てしまう孤独さの現れなのである。
2.別なる語り手
良く言えば心優しく、悪く言えば周囲のノリに合わせられない孤独な重盛。しかしそんな彼の前に、もう一人同じような目を持つ者が現れる。先にも書いた琵琶法師の娘、未来を見通す目を持つ本作の主人公びわである。
女御「それが女の格好は嫌だと。おとうにずっと男の格好をさせられてきたから自分は男である、と」
重盛に引き取られ暮らす彼女はもちろん平家の人間ではなく、そして同時に人らしくもない。父に真の名を教えてもらえずその名は自らつけたものであり、娘でありながら男の格好をし、多くの人間がひれ伏す平家一門にもズケズケと物を言い、その瞳には余人には見えない未来が映る。
びわという少女は何から何まで世の常から離れており、そして悪行を指摘した自分の代わりに父を平家に斬り殺されたその身は孤独だ。平家にあらず、人らしくもなく、孤独――彼女の境遇は重盛に似ている。
重盛「すまぬな、すまぬ……」びわ「なんだよ、殺せよ。おとうみたいに……おとうみたいに、おとうみたいに殺せ!」
人間失格の烙印を押されているはずの二人のやりとりはしかし、ひどく人間的な情にあふれている。父を無情に殺された悲しみと憤り、肉親を殺された幼子の悲しみに寄り添う気持ちと自分達が犯した非道への悔い。胸踊らせる戦絵巻や貿易の夢、驕り高ぶりの奇言といった光に照らされたものとは違う、日陰の人間らしさがここにはある。重盛やびわの余人に見えないものを見る目はあくまで片目だけであるように、彼らが非人間的というのはものの見方の一面に過ぎない。
本作の原作となった現代語訳の平家物語を書いた古川日出男は、場面によって文体を変化させることで無数の語り手を呼び出したのだと言う。無数の語り手とはつまり無数の語り口・切り口であり、つまり別の一面を見せる時物語は別の語り手を呼び出していると言える。
共に余人には見えないものを見る力を持つ重盛とびわは、だからこそ共にいることで自分や相手に新たな切り口を教えてくれるきっかけともなる。重盛とびわの関係は単なる仇でも懺悔と施しの対象でもなく、互いが互いに多面的な世界を見せてくれる"別なる語り手"なのだ。
3.同じ世界への導き手
"別なる語り手"を得たことで、重盛とびわの見る世界は彩りを変えていく。父を殺した憎い一族でも全員が同じではないし、自らの目は闇しか見えずとも同じような力を持つ相手の目は美しく感じられもする。同じものも、別なもののように見えてくる。……だが、それもまたものの味方の一面に過ぎない。
重盛「父上!非はこちらにありますのに、いくらなんでもやり過ぎです!」
重盛の次男・資盛は祖父に良い獲物を目にかけようとはしゃいで摂政の前で馬を降りぬ無礼を働き、それを咎められ辱めを受ける事件が発生。子供に暴行を加えるのは良いことではないが最初の非礼は平家の側にある……というのが重盛の考えだったが、清盛は報復として基房の共の者達を襲い髻 を切ってしまった。
この時代、髻を切られることは社会的に殺されるに等しい。言ってみればこれは1話冒頭、びわの父が殺された件と同じ平家による恣意的な殺生である。またいくらなんでもやり過ぎだと訴えた重盛に対する清盛の答えは、平家がなめられるわけにはいかぬという面子といつもの彼らしい理屈であった。
清盛「我ら平家が甘く見られてたまるものか。それに……面白かろう?」
面白いからやった。清盛にとってこの乱暴狼藉は、銀箔竹光や海上神社と同じものだったのだ。多面的なものの見方は、同じものの別の姿を見せるだけではない。別のものの同じ姿を見せるのもまた、同じ力のなせる技には変わりないのである。
アニメ化にあたってびわという登場人物を加えたこの物語は、歴史的には同じ結末をたどりながらも異なる姿を私達に見せることだろう。しかし同時に、異なる姿だからこそ見えてくる同じものもまた世の中には存在する*1。過去や空想、異なる世界を見て違いに驚くと同時に自分達と通じるものを感じ取れるのは、私達が物語を読む大きな醍醐味であろう。
本作は歴史的古典の"別なる語り手"であり、同時にそれは原典がもともと内包していたのと"同じ世界"へ視聴者を誘う導き手でもあるのだ。
感想
というわけでアニメ平家物語の1話レビューでした。1日遅れですみません。重盛とびわの「半分」で書けそうだなという感覚はあったのですが、それだけだとちょっと書き切るのに足りないな……ということで一旦寝かせることになった次第です。
重盛を見てて1話目の時点から辛い!この先平家が、それぞれがどうなるか知ってるだけに辛い!正直なところ、数話先すら耐えられる自信がありません。それだけのめりこんじゃってるということでもあります。楽しみです。
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別なる語り手――「平家物語」1話レビュー&感想https://t.co/sAzx1fl0lh
— 闇鍋はにわ (@livewire891) January 14, 2022
人と違うものが見える重盛とびわの片目から、本作の語り口を考えるお話。#平家物語#heike_anime #heikemonogatari #アニメとおどろう
*1:清盛が頭を叩く場面に鼓の音を重ねる描写は象徴的だ