恋よりも深く――「よふかしのうた」2話レビュー&感想

Ⓒ2022コトヤマ小学館/「よふかしのうた」製作委員会
得難きを求める「よふかしのうた」。2話、コウは吸血鬼になるためナズナに恋をしなければならない。しかし、恋かどうかに境界線などあるのだろうか?
 
 

よふかしのうた 第2話「てかラインやってる?」

吸血鬼になる方法…それは「人が、吸血鬼に恋すること」 コウは、夜の住人・吸血鬼になるため、そしてナズナに恋をするため、今日も夜中にひとり外に出た。ナズナに会うため街を彷徨う。
 

1.恋よりも深く

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ナズナ「つまり吸血とは! 食事とまぐわいを同時に行うものなのだ!」
 
将来なりたいものを吸血鬼に決めた主人公・夜守コウ。人間が吸血鬼になるには恋をした吸血鬼に吸血される必要があり、故に彼は吸血鬼・七草ナズナに恋をさせて欲しいと珍妙なお願いをしている。だが、考えてみるとこれは奇妙な話だ。恋愛感情というものは自覚や認識はできても測定はできない。どこからが恋愛か判断できるような、そんな分かりやすい境界線が存在するわけではないのだ。
 
自覚や認識はできても測定はできない。この境界線の不在は、コウと吸血鬼であるナズナの場合いっそう顕著になっている。なにせ吸血は食事であると同時に「まぐわい」でもあり、故に両者を明確に分けることができない。
 

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コウ(よく分かんねーな、そりゃまだ好きとかじゃないけど……)
 
夜の街をさんざん探してナズナと再会したコウは、彼女が適当に血を吸えそうな人間を探していたと聞いて「あばずれクソ女」「最低、俺というものがありながら」と罵倒したりすねたりする。吸血の食事としての面を重んじるならナズナがコウ以外の人間から血を吸うのは米もパンも食べるのと同じだが、まぐわいの観点から見れば複数人からの吸血は浮気と捉えるのもまた的外れではない。しかもそもそも、コウの言い分はまるっきり交際相手に対する言い草だ。彼は少なくとも恋を自覚していないのだからそんな言い方をする資格は無いようにも思えるが、しかし吸血されている=まぐわっている彼は一面では既にナズナと交際以上の関係にある。
 

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ナズナ「……お前のこと探してたんだよ」
 
恋愛かそうでないか、食事かまぐわいか。どこに境界線が引けるか、いくら考えてもおそらく答えは出ない。いや、論理的に境界線を引くことはできるのかもしれないが、感情を持つ私達は現実をありのまま捉えることなどできないのだから実際に運用するのは無理な話だろう。ただ、境界線を引けないこと=説明できないことはコウとナズナの互いへの執着を否定する理由にはならない。適当に血を吸える人間を探していたというナズナの言葉は照れ隠しで、本当は彼女もコウを探していた。連絡手段すら持っていないにも関わらず、二人は互いを求めて夜の街を探しまわっていたのだ。
 

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ただ会いたいと思うこと。同じ気持ちだったと知って安心できること。血を吸われたコウが吸血鬼にならないのだから、それは客観的には恋愛感情ではないのかもしれない。けれど二人の間にあるものが何なのかは、彼らが感じる安心感の前では些細な問題だろう。コウとナズナの気持ちは自分と相手の壁がないくらいに、既に恋よりも深いところで繋がっている。
 
 

2.境界線と壁

境界線がないから壁を越えることができる。この奇妙にも思える論理は、Bパートでも変わらない。
 

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コウ「そんなわけでですね、今日はこんなものを買ってきました!」
 
Bパートで展開されるのは、Aパートの苦労を繰り返さないための連絡先の確保だ。連絡先と言えば現代では携帯電話が一般的だが、ナズナの持っているそれは旧式・大型過ぎて実用に耐えない。つまり携帯電話という分類、境界線における問題なさはここでは全く役に立っていないのだ。おまけにナズナは新しいものに更新するつもりもなく、代わりにコウが用意したのは腕時計型トランシーバー……一般的には玩具と呼ばれるものだった。
 

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ナズナ「連絡手段として使いつつ、これで遊んでもいいわけだよな!?」
コウ「そ、そんなに遊びたいの!? 別にいいけど」

 

連絡手段として見た時、この腕時計型トランシーバーが携帯電話より遥かに劣るのは言うまでもない。通話可能距離はわずか150m、話せるのもペアの相手とだけ。けれど僅かなりとも距離を超えて通話を可能にする点でそれは携帯電話と変わらないし、ならばそれは携帯電話が不要だというナズナの考えを侵すことなく連絡手段を確保できる。
 

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コウ「なんか付き合いたてのカップルみたいですね」
ナズナ「そういう恥ずかしいこと言うな!」

 

携帯電話ではないが故に、玩具と変わりないが故に、コウとナズナのトランシーバーでの会話は単なる遠距離通話に留まらない。二人はスパイごっこや付き合いたてのカップルのような会話をしたり、コウに至っては独り言を漏らしてしまうが、これらは携帯電話ではきっと生まれなかったことだろう。
 

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コウ「まずは友達から初めてみようかと」
ナズナ「友達なんかいねーくせに……」

 

またナズナに連れられ訪れた夜の学校で、コウはナズナを「さん」付けではなく「ちゃん」で呼ぶことを提案する。意図としても効果としても、これは単一に分類できないものだ。直接的には友達として親しくなるための呼び名だがコウはナズナに恋をするつもりなのだし、ナズナが指摘するように彼には友達がいない。そして人と距離を詰めたことがないのはナズナも同様だし、照れ屋の彼女はちゃん呼びに本当に照れてしまう。これは二人にとって友達作り、人間関係の距離感の勉強、恋愛関係の進展等のどれにもなり得るものだ。それらもたらされたものが恋なのか友情なのかに境界線はないし、無理にそれを引く必要もないだろう。二人が親しくなったこと、壁を一つ超えたことだけが事実としてここにはある。
 
昼と夜は明確に違うものだけれど、人の営みがある点ではそこに境界線はない。だから昼に越えられなかった壁も、夜ならあっさり突破できる場合がある。不登校のコウが、ナズナとの夜遊びで誰もいない校舎にならやってこられるように。
 

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アキラ「夜守。何してんの?」
 
「夜」には夜の可能性があって、けして道は一つではない。夜更かしが過ぎて早朝との境界があやふやな時間まで起きてしまったコウが、それ故に旧知らしい少女と再会するのもこうした可能性の一つなのだろう。彼女の登場がコウとナズナの関係にどんな変化をもたらすのか、次回を楽しみに待ちたい。
 
 

感想

というわけでアニメ版よふかしのうたの2話レビューでした。うーん、ちょっと考え込み過ぎてるかしらん。境界線ネタは書く私の方が一本調子になりやすいので注意して扱いたいところですが。イチャツイてるのかイチャツイてないのか独特の距離感が楽しいなあ、と思います。さてさて、ラストに登場した娘はどんなキャラなんでしょうか。
 
 

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