恋も友情も越えていこう――「よふかしのうた」9話レビュー&感想

Ⓒ2022コトヤマ小学館/「よふかしのうた」製作委員会
見えない壁の向こうへ飛ぶ「よふかしのうた」。9話では恋愛マスター吸血鬼・桔梗セリにまつわる話が描かれる。特別なものは、恋愛だとは限らない。
 
 

よふかしのうた 第9話「ずるい」

セリとカラオケに行くことになったコウ。セリは最近、恋愛感情を拗らせた通称ダル男に付きまとわれているようで、カラオケ中もドア越しに中を覗く人物が現れる。ダル男の存在が面倒になったセリは、殺そうと決意するが……。
 

1.友情は盲目

主にコウの視点で恋愛を問う話を描いてきた「よふかしのうた」だが、この9話は少々毛色が異なっている。今回の主軸は7話で登場した吸血鬼・桔梗セリだ。
 

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セリ「この世で最もモテる存在とは何か? それは当然、JKだ」
 
セリは冒頭、自分が装っている女子高生という属性はこの世で最もモテる存在なのだと語る。吸血鬼にとってモテることは優秀さの証明であり、つまりこれは自分が最強だという宣言だ。実際彼女のスマホは通知がほとんどひっきりなし、処理しきれないとボヤきたくなってしまうほどあふれている。ちゃらんぽらんなように振る舞っているが、実際のところセリは吸血鬼として優等生なのである。ただ、社会的な成功が心の平穏を招くとは限らないように、それは彼女の幸せを意味しない。
 

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セリ「飽きちゃったんだよ、そういうの。退屈なんだよ。でもこんなの誰に言えばいいの? 人との関わり全てに恋愛がついてくることに疲れちゃったなんて」
 
今回明かされるのは、吸血鬼として優秀な自分にセリが飽き飽きしていることだ。いかな男相手でも自然と恋愛感情を喚起するよう振る舞ってしまう、どう振る舞えばそれに最適か分かってしまう彼女は逆にそれ以外のあり方を知らない。あり方が分からない。立派な社会人、もとい社会吸血鬼として磨いてきたスキルはいつの間にか「桔梗セリ」個人を溶解しており、だからセリは自分の優秀さをもはや喜べなくなっている。そんな彼女にとって特別な時間となっていたのが、今は自分のことを病的に好きになってしまったダルい男、「あっくん」こと秋山昭人と過ごすひとときであった。
 

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この9話終盤、セリは秋山と過ごす時間がとても楽しかったことを明かす。食事や眷属作りの準備期間としてでなく、それ自体が好きだったことを明かす。いつものように打算を働かせるのではなく、一緒にいるだけのことに幸せを感じられる時間だったからだ。まるで仲良しごっこに疲れた少女が自然体でいられる相手に出会って惹かれていく様のようだが、この例えがおかしいのは言うまでもない。実際はセリが疲れたのは逆に恋愛ごっこの方で、自然体でいられる秋山相手に期待したのは友達としての関係なのだから。
 

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セリ「ごめんね、今日でバイバイ……あれ?」
 
例えが正反対になってしまうことから言えるように、セリの感覚は奇妙に思えるものだ。回想される玉ボケに彩られた思い出も二人で映画を見たりした姿も一般には恋愛関係を想起させるものだし、友達をやめたくないとポロポロ涙をこぼす彼女の姿は友情と恋愛を入れ替えて捉えた方がすんなり理解できる。しかし実際に両者が逆であったら今回の話はありふれた異類婚姻譚に終わっていたろうし、そもそもこんな展開になってもいない。セリが心の底から望んだのは間違いなく友情の方である。
 

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秋山「セリちゃん!?」
セリ「友達やめたくないよぉ! すごい楽しかったんだよ……」

 

恋とは落ちるものだと言う。劇中でも秋山は「恋は盲目」というのは脳内物質の分泌から言って正しいのだと語っている。そしてセリにとっては友情こそが恋愛・・・・・・・であった。
彼女は人間は自分に好意を抱かせ吸血する対象だと分かっていながら、それ以外の感情で秋山のことを見てしまった。それが吸血鬼の道に外れる行為だと分かっていながら自分の気持を抑えられなかった。
 
吸血鬼にとっては恋情よりも友情こそが得難い感情であり、セリは秋山に対し恋に落ちるように友情に落ち、恋に盲目になるように友情に盲目になった。優秀な"社会吸血鬼"のはずのセリはその実、転落劇の真っ只中にあった。
 
 

2.男女間に友情は成立するか?

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人間に友情を覚えることは、吸血鬼にとって己の権威を失墜させる転落である。ならばそんな吸血鬼のパートナーもまた、普通の人間には務まらない。
 

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秋山「冷静に考えればそんな妄想なんて、考え過ぎのネガティブな思考に陥っただけのものだし……」
 
セリが友情に落ちた秋山昭人は、初登場時の様子から分かるようにいささか危なっかしい人物だ。恋したセリに何度も連絡したりカラオケボックスまで追いかけてきたり、そのくせ彼女とコウのいる部屋までは入ってこられなかったり……ただ一方で彼は、そんな自分がおかしいこともよく承知している。自分が嫉妬深いことも妄想をたくましくしていることも、冷静になれば理解できている。それは良くないことだと戒める理性を持っている。けれどそんな落ち着きを破壊してしまったのが――視力を取り戻す眼鏡を外してしまったのがセリだった。
 

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セリ「そうかな」
秋山「え?」
セリ「気持ち悪いかな」

 

秋山とセリが出会ったのは、彼が恋人と別れて傷心の最中のことであった。その関係が特別になったのは、元カノに対する自分の独占欲や嫉妬は過剰で気持ち悪かったという自省、あるいは自嘲をセリが否定したからだ。秋山は自分の異常性を常識の枠に(度の強い眼鏡に)はめようとしていたが、彼女はそれを気持ち悪いとは言わなかった。セリは秋山の異常性を異常性として受け止めなかったのである。秋山にとってそれは、自然体の自分を受け入れてもらったのと同じことを意味している。
 

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秋山(もしかしたら)
セリ(この人間となら……)

 

セリと秋山は全く違う。種族も優秀さも正常異常も全て違う。それでもただ一点、自然体の自分の行き場が無いことだけは同じで、だからこそ二人は惹かれ合った。友情を育むにはそれだけあれば十分だったし、逆に言えばそれは種族を越えた先まで探すくらいしなければ見つからない得難いものなのだろう。そしてこの得難いものは同時に、脆くて保ち難い性質も兼ね備えている。
 
セリの体には関わり全てを恋愛を導く行動が染み付いているし、秋山は恋に落ちれば盲目になる性にある。そんな二人の間に友情が生まれたのは奇跡にも等しかったし、それが友情でいられる時間はごく限られていた。秋山はセリを好きになってしまったし、セリは友達でいられなくなるのが嫌で秋山を殺そうとすらした。
 

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秋山「好きになっちゃいけなかったんだ。僕らは『友達』なんだから」
 
男女間に友情は成立するか? 古来より繰り返されてきたこの問いに対し、本作は「成立するが、いつ壊れてもおかしくない」と答えている。だがそれだけなら、セリと秋山の別れでこの話は終わっていたはずだ。友情があったことを認めた彼女が殺害を諦め提案したように、もう会わないことで、全部なかったことにすることで解決していただろう。しかしコウが待ったをかけたように、この9話はそれで終わらなかった。
 
「男女間に友情は成立するが、いつ壊れてもおかしくない」……本作の答えにはその先がある。『よふかし』はまだ終わっていない。
 
 

3.恋も友情も越えていこう

セリと秋山の間には、かつて友情があった。それは短く儚いもので、秋山がセリを好きになってしまった瞬間に壊れてしまった。だがそもそも――これは友情でなければならなかったのだろうか?
 

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先に触れたように、秋山と友達として過ごした日々へのセリの回想はキラキラしている。友達をやめたくないと涙を流す姿も傍目には恋する少女そのもので、もしサイレントで映像を見れば少なからぬ人はこれを愛の告白と解釈するだろう。吸血鬼には友情こそ恋情より得難いという事情もあるが、極めて発達したセリの友情は恋と区別がつかない。いや、その区別には意味がない。
 
セリが秋山と一緒にいて楽しかったのはなぜか? 恋愛の打算が染み付いてしまった自分が、それを意識せずにいられる相手だったからだ。
秋山がセリと一緒にいて楽しかったのはなぜか? 恋愛対象に度を越して執着してしまう自分を、異常者として拒絶せず受け入れてくれたからだ。
 
二人が共にいて楽しい時間を過ごせたのは、互いが互いに自然体の自分を許容してもらえたところにこそ所以がある。逆に言えば、この間柄さえあればそれが何かという「見てくれ」は関係ない。友情だって恋情だって構わないのだ。
 
友情か恋情か、そして人か吸血鬼で一度は壊れてしまったセリと秋山の関係だが、それらは本当は二人にとってさほど重要ではなかった。むしろこの騒動は、彼女達がそれに気付くためのきざはしですらあった。
 

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秋山「僕も楽しかった。でも、好きになっちゃった。……本当は、ちゃんと失恋する準備はできてた。でもやっぱり駄目だ、君と離れたくない」
 
セリが自分を本当に大切な友達だと思ってくれていたことを知り、同時に自分がやはりセリを諦められないことも悟り、秋山は彼女にお願いをする。あなたの眷属にしてください、と。それは厳かなプロポーズのようでそのものではなく、だからむしろ本質的にプロポーズに等しい。
今までの生活全てがなくなっても構わないつもりでいる秋山はあらゆる打算なく申し込んでいるのであり、つまりそれはセリと一生添い遂げたいというこの上なく純粋なメッセージだ。人と吸血鬼だとか友情と恋情だとか、そういう違いを越えてただただ一緒にいたいから彼はこんなことを言える。「眷属」はこの時、友情か恋情かに囚われない二人の新たな(そして本当は最初にあった)関係性を包括できるものとなっているのである。
 

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コウ(分かってみれば簡単な話だった。吸血鬼と人間、たったそれだけの話だった)
 
人は一人で生きていけない、とよく言われる。それは集団の方が物資を集めやすいからであり、同時に心を通わせる相手が精神に安寧をもたらしてくれるからでもある。そして昨今の漫画やアニメに対する私達の反応からも言えるが、心の通い合いにおいて恋と友情に実はさほどの違いは存在しない。その違いはここでは重要ではない。
「男女間に友情は成立するが、いつ壊れてもおかしくない」が、「友情が恋に、恋が友情になっても一緒にいられないとは限らない」。それが本作のもう一つの答えだった。
 

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コウ(なんか……ちょっといいな、こういうの)
 
かくて騒動は一段落し、セリ、眷属となった秋山、そしてナズナとコウはカラオケボックスへ行く。別に乾杯するわけでも歌に合いの手を入れて盛り上がるわけでもなく、めいめいが好き勝手にしているだけのこの空間がしかしコウには心地良い。そこに漂う感情が何であるか、わざわざ形容しようとするのは野暮なことだろう。それが特別なものであること、得難いものであることだけはみな分かっている。分かっていれば、それで十分だ。
 

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ナズナ「なにこの古い曲」
 
特別なものは恋だけとは限らない。名前をつけられないような、空の彼方ほど遠いところににその特別さは隠れているのだ。
 
 

感想

というわけでアニメ版よふかしのうたの9話レビューでした。日をまたいでしまいました、すみません。セリと秋山が一対だという構図から先、結論になかなかたどり着けずに時間を要しました。しかしまあ、なんてロマンチックな話なんでしょう。これをラブコメが柱の1つのサンデーで(最近はマガジンの方が多いか)でやってるすごさよ。セリ役の戸松遥さんは女子高生キャラを数多く演じてきましたが、そんな彼女からセリはどう見えたんでしょうか。
文学的な味わいが強い、とても素晴らしい話だったと思います。さてさて次回は。
 
 

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