人生はクソゲーである――「吸血鬼すぐ死ぬ2」2話レビュー&感想

©盆ノ木至(秋田書店)/製作委員会2すぐ死ぬ
詭弁でも嘘でも構わない「吸血鬼すぐ死ぬ2」。2話では新登場のミカヅキの目線を始め、様々なフィルターをかけた物事が語られる。色眼鏡から逃げられない世界で、私たちは何を見ているのだろう?
 
 

吸血鬼すぐ死ぬ2 第2話「フロム トーキョー トゥ ネオ ベイサイド/わくわくドラルク観察日記/Quest of Soul Gate:魂の探求者たち」

東京で活躍する若き吸血鬼退治人・籠目原ミカヅキが新横浜にやってきた。
ロナルドたちは滅多に来ない後輩を歓迎するが、ミカヅキは冷めた態度を崩さない。
討伐要請が入り、ロナルドらに実力を見せつけようとするが……?

公式サイトあらすじより)

 

1.レビューと主観

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大勢のキャラクターが賑やかに駆け回る姿が楽しい本作。今回も東京からやってきた吸血鬼退治人・籠目原ミカヅキの新横浜での受難や吸血鬼対策課のヒナイチによるドラルク監視レポート、ドラルククソゲープレイとバラエティ豊かだが、この2話で共通点として挙げられるのは一人称小説的な視点で描かれている点だろう。1本目「フロム トーキョー トゥ ネオ ベイサイド」では新横浜の退治人や吸血鬼に対するミカヅキの内心がたびたび語られ、2本目「わくわくドラルク観察日記」はヒナイチのレポートの体裁が取られており、3本目「Quest of Soul Gate:魂の探求者たち」ではドラルククソゲーのレビューを行う。言ってみれば今回は3本すべてがレビュー的であり、であれば当然それは話者の主観のフィルターから逃れられない。
 

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主観によるフィルターは、事実を様々に歪めるものだ。攻撃的な吸血鬼とばかり接触してきたであろうミカヅキは新横浜でもそれに基づく過信や偏見を覗かせ悲惨な目に遭うし、ヒナイチはロナルドの事務所に隠し部屋を作る奇行やドラルクの菓子に餌付けされている状況をツッコまれても気にも留めない。ドラルクにレビューを依頼したオータム書店の武闘派編集者・フクマに至ってはゲームに疎いが故に、クソゲーを褒めそやすでたらめな評価を聞かされても疑いもしなかったりする。もちろん彼らの中では無理なく辻褄が合っているわけで、客観的な視点というのは私達が自分で思うほど簡単なものではないのだろう。ただ一方で、この主観によるフィルターは人を救いもする。
 
 

2.人生はクソゲーである

主観によるフィルターは事実を歪める一方、人を救いもする。これが特によく現れているのは、3本目でのドラルクのレビューの様子だ。
 

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ラルク(ご存知も何も、5分やったら脳が腐ると言われる悪名高きウルトラクソゲーではないか!)
 
フクマに頼まれゲームレビューを引き受けたドラルクは、彼から渡されたゲームを見て愕然とする。それが5分やったら脳が腐るとまで言われる悪名高いウルトラクソゲー「クエストオブソウルゲート」だったからだ。しかもチョイスしたのはフクマより更に恐ろしいであろう編集長であるから、クソゲーだからと言ってけなせばドラルクは武闘派編集者集団を敵に回すことになってしまう。危険を免れるためドラルクが採った選択肢は、ゲームのクソさ加減をいかにも意味ありげに褒め称えること――すなわち主観的に語ることであった。
 

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ラルク「げ、現代美術を思わせる哲学的なキャラデザが素晴らしい」
フクマ「なるほど、素晴らしいですね」

 

トイレに行けそうな長いロードは「精神修行のための時間」、パッケージと全く違う主人公は「現代的な美術を思わせる哲学的なキャラデザ」、すぐ死ぬくせに音量調節のいい加減なOPにいちいち戻されるのは「音楽用語でいうルフランと同じ」……困惑しながらもどうにか褒めようとするドラルクの言い繕いぶりはほとんど涙ぐましいレベルにあり、おかげでフクマはそれを信じ込んでいく。そしてそれ以上に涙ぐましいのは、これがドラルク自身に対する言い繕いにもなっている点である。
 

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ラルク「背景と見分けのつかぬ即死トラップ……プレイヤーを飽きさせぬ驚きの仕掛け! 理不尽な初見殺し……近年のぬるいゲームへの警鐘! 新時代へのパイオニア!」
 
本当は楽しんでいないのではとフクマに疑われた後、ドラルクはなかばやけっぱちになったようにゲームに没頭する。しかもその様子は先ほどと打って変わってどこか楽しげなほどだ。なぜか? それは彼がゴールポストを動かしたためだ。「面白さを楽しむゲーム」ではなく「クソゲーをいかにも楽しいもののように騙るゲーム」に認知を書き換えてしまえば、数々の理不尽要素もむしろごちそうに変わってくる。そういう時、私たちは理屈などはいくらでもひねり出せるものだ。最たるものはいよいよラスボスまで来たはずが実はゲーム自体が完成しておらず、強制終了を余儀なくされた時のドラルクの反応だろう。
 

©盆ノ木至(秋田書店)/製作委員会2すぐ死ぬ

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ラルク「フクマさん、私はこのゲームのメッセージを今理解しました。すなわちこの世界に完全攻略など存在しないのだと! 他人に提示された安い目的など幻想に過ぎないと! 理不尽にぶつかり悲しみを抱き、どうしようもない壁を前に膝を折る日が来るかもしれない。だがそれでも我々の道は続くのです! 詭弁でもいい、嘘でもいい! 挫折と絶望に意味を見出し……」
 
フクマを前に熱弁を振るうドラルクの顔にもはや、どうにかして身の安全を確保しようという保身は見えない。楽しく騙るゲームに興じている様子すらもない。これは更にその先の、ある種の自己催眠とすら言える状態だ。ドラルクにはもはや自分が嘘をついているという自覚すらなく、彼は真実自分が思った通りのことを口にしている。そして、そこに一片の真実が隠れているのも確かであろう。ドラルクが言うように、詭弁や嘘であっても意味というのは時に人を奮い立たせる力の源になるものだ。例えばトレーニングは無意味なものであっても続けたこと自体が自信を生むし、話題作は作品性以上に共通の話題になること自体が重要だったりする。これらは発端やありようとしては誤っているかもしれないが、そこにプラスの一面があることもまた否定できない。主観とは詰まるところ自分に都合の良い錯誤を起こすためにあり、故に人は挫折や絶望にも意味を見出だせるのである。ただ、それだけで生きていけるわけではないのも事実だ。
 

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フクマ「今回はゲーム雑誌の方の仕事で編集長発案の新企画、ウルトラクソゲーのレビューをドラルクさんに……」
 
人は主観的な錯誤のおかげで気を持ち直せるが、それだけで生きていけるわけではない。新横浜の吸血鬼や退治人を侮蔑していたミカヅキは彼らによって自分を見つめ直すことに成功したが、それは主観であって変人まみれのこの町はやはり彼には合っていない。またドラルクのお菓子に餌付けされたヒナイチはとても幸せそうだが、記憶がクッキーに全部上書きされてしまってはレポートとして適切ではない。ドラルクにしてもク(エストオブ)ソ(ウル)ゲー(ト)に意味を見出すことに成功したが、蓋を開けてみればフクマが依頼したのはそもそもが「クソゲーのレビュー」で全ては彼の勘違いに過ぎなかった。彼らは主観によって一応の救いを得たが、しかしそれは客観的な問題を全て解決してくれるわけではなかったのだ。
 

©盆ノ木至(秋田書店)/製作委員会2すぐ死ぬ
フクマ「で、次のクソゲーの締切についてなんですが」
 
人は主観だけでも客観だけでも生きていけない。その両方に時に助けられ時に妨げられ、どうしようもなく翻弄されるのが人生という名のクソゲーなのである。
 
 

感想

というわけで吸死のアニメ2期2話レビューでした。今回は何が言える取り合わせなのかさっぱり見えず、6回も7回も見返しウンウン言いながらテーマを探しました。結局のところ1話で見た「嘘と本気のじゃれ合い」と同じようなところに着地したわけですが、作品から自然発生的に見えるテーマを探す本ブログの喉元に切っ先を突きつけるような回だったと思います。「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」が客観的事実だった場合でも*1、そこから主観的な事実を見つけようというのが私のやっていることなわけですしね。今回の苦労を次回以降に活かせるかしらん。
 

©盆ノ木至(秋田書店)/製作委員会2すぐ死ぬ

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ゲーム中のキャラの一言のために杉田智和を連れてくるキャスティングが楽しく、またあいも変わらずヒナイチがかわいい回でした。ドーナツおごりたい。
 
 

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*1:なお、元ネタではそこまで考えていたとのこと