生と死を繋ぐもの――「機動戦士ガンダム 水星の魔女」15話レビュー&感想

© 創通・サンライズMBS
大地に立つ「機動戦士ガンダム 水星の魔女」。15話ではグエルの行方が描かれる。アスティカシアから遠く離れた地で彼は、それでも"学校"を通して学びを得ている。
 
 

機動戦士ガンダム 水星の魔女 第15話「父と子と」

プラント・クエタ襲撃事件の実行犯であるフォルドの夜明けは、ベネリットグループの駐留部隊から追われ、アジトからの撤退を余儀なくされる。
アジトには、オルコットに捕虜として囚われたグエルの姿があった。
父を殺し、深い絶望の中に沈んだままのグエルは……。

公式サイトあらすじより)

 

1.死という"一つ"

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ガンダムを駆る少女スレッタ・マーキュリーを主人公とする「機動戦士ガンダム 水星の魔女」だが、この15話は彼女の出番がなくいささか毛色の異なった回だ。代わって反スペーシアン組織「フォルドの夜明け」を通して地球の様子が描かれているが、アジトこそスレッタ達のアスティカシア高等専門学園同様の学校であるもののその環境はあまりにかけ離れている。避難民達の暮らすこの場所は十分な水や食料があるわけではないし、治安維持部隊との戦闘はブレードアンテナを破壊して終わるわけがなく命のやり取りになる。
荒廃した校舎が示すように、ここには"死"が隣り合わせにある。そしてそれはフォルドの夜明けに囚われた少年、今回の実質的な主人公グエル・ジェタークも同様だ。
 

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セド「なんかぶつぶつつぶやいてんの、気持ち悪い」
 
巨大企業ベネリットグループの"御三家"が一つジェターク社CEOの長子グエルは、紆余曲折あってフォルドの夜明けに捕えられていた。スペーシアンきっての大企業の御曹司ともなれば取引の持ち札になるものと期待された故だが、3ヶ月前放映の12話以来久しぶりに描かれた彼は変わり果てた姿になっていた。行き違いで父ヴィムを殺した罪悪感と絶望がその心を押し潰し、今のグエルはぶつぶつと懺悔を呟くばかりで目の前が見えているかすら怪しいほど。捕虜のための食事すら3日も手を付けない有様は生きる屍も同然、すなわち放っておけば心だけでなく体も死んでいただろう。だがフォルドの夜明けのモビルスーツ隊指揮官であるオルコットはそれを許さず、強引に開けたグエルの口に無理やり食料を詰め込んでこう言う。
 

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オルコット「死んで楽になれると思うなよ」
 
「死んで楽になれると思うなよ」……オルコットはグエルが死へと逃げるのを許さない。逃げて死という"一つ"を得ることを許さない。つまりこの言葉は主人公スレッタの口癖「逃げたら一つ、進めば二つ」と重ねて見られるわけだが、ならばこの場合何をすれば進んだことになるのだろう?
 
 

2.生か死か、しかないのか

死のうとすることが逃げることならば、進むことは何であるか。多くの人が最初に思い浮かべるのは生きようとすることだろう。だが、この15話はただ生きようとする者に二つを与えていない。
 

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ジャリル「うわああああーーっ!」
グリスタン「あのバカ!」

 

今回は治安維持名目の虐殺を阻止するため避難民を逃がそうとするフォルドの夜明けとベネリットグループの地球駐留部帯の戦闘が描かれているが、戦端を開いたのはフォルドの夜明けの一員ジャリルであった。彼は避難民を逃がす時間を稼ぐためこちらから攻撃して場所を明かさないよう指示されてはいたが、サーチライトのプレッシャーに耐えられず自分から発砲する愚行に走ってしまったのだ。恐怖は生物が生きるために備えている感情であるが、ジャリルのケースは「生きることに逃げた」選択として捉えることも可能だろう。
 

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ジャリル「やったあ!……あ?」
 
正規の組織でなく十分な戦力を持たないフォルドの夜明けは苦戦を強いられ、その戦いは生と死が隣り合わせにある。先のジャリルは駐留部帯のMSハインドリー・シュトゥルムを罠にかけて勝ったと油断したところを狙撃されて死亡するし、駐留部隊側にしても戦闘車両を破壊した爆煙から飛び出したオルコットの機体に急襲されMSザウォート・ヘビィが撃破されるなどしている。生きたと思えば死に、死んだと思えば生きている正に戦場がここにあるわけだが――この時、生と死はいずれか片方しか得られていない。両者がたやすく裏返るために、人々は常に一つを得ることしかできない。そんな状況で二つを得る方法などあるのだろうか? ヒントはグエルとオルコット、そして避難民の少女シーシアの描写にある。
 
 

3.生と死を繋ぐもの

避難民を逃がすための囮となるべくモビルスーツ隊と共に学校に残っていたオルコットは、校舎になぜかシーシアという少女、そして同年代の少年セドがいるのを発見する。シーシアは12話でのプラント・クエタでの戦闘で父親を失っており、父を殺したのと同じスペーシアンであるグエルに復讐しようと考えていたのだった。
 

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シーシア「プラントから必ず帰るって約束したのに……なんで父さんじゃなくてお前なんだよ!」
 
シーシアの絶叫は、生ける屍も同然だったグエルの心にわずかなさざ波を起こす。それはシーシアの言葉にショックを受けたためではない。彼女は自分の父親について言っているのだが、グエルにはそれが己と己の父ヴィムの二択に自然と重なってしまうものだったからだ。交わす言葉は通じていないにも関わらず会話が成立してしまう、奇妙な状況がここにはある。シーシアの父もグエルの父も死んでいるにも関わらず、この会話の中で二人は――二つは新たな生とでも呼ぶべきものを受けている。
 

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こうした重なりはグエルとシーシアだけではなく、オルコットの脳裏にも響く。実は彼はMS開発評議会の特殊部隊ドミニコス隊の隊員、つまりスペーシアン側の人間だったが、アーシアンに襲われ左手と家族(息子)を目の前で失った過去があった。以来彼は名前も過去も捨てて生きてきたのだが、ミサイルの直撃で壊れた学校の瓦礫に彼は古傷が開くようにそのことを思い出してしまう。死の記憶が、蘇ってしまう。
 

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グエル「コックピットは……まだ生きている……!」
 
シーシアは瓦礫で大怪我を負い、致命傷と判断したオルコットは彼女を諦め防戦に向かう。しかし朦朧とする意識で「父さん」と呟くシーシアの声に目を覚ましたグエルは、自分でも何がしたいのか分からないまま彼女を助けようと奔走する。既に退避のための車もなく、それでも走る彼の前に落ちてきたのはフォルドの夜明けのMSプロドロスであった。
プロドトスのコックピットを開けたグエルは、中の惨状に嘔吐せずにはいられない。搭乗していたのはオルコットの部下ベッシであったが、グエルが見たのはもはや人とは呼べぬ形になった彼だったのだろう。誰がどう見ても"死んで"いるとしか言えない状況――しかしコックピットはまだ"生きて"いる。
 

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グエル「駄目だ。……死んじまった」
 
車を探すべくグエルが乗ったプロドロスの大跳躍は敵の驚きを誘い、おかげでオルコットは生還した。しかしこれが生だけを得る結果になったかと言えば否だ。シーシアは結局コックピットの中で事切れてしまい、グエルは彼女を救うことはできなかった。一方でオルコットが倒されていれば避難民の乗った輸送機が撃墜されていたはずで、グエルは多くの命を救ってもいる。自分でも分からないまましかし走った彼が得たものは、確かに生と死の"二つ"だ。そして、シーシアが父さんと言っていたから助けてほしかったんじゃないかと思ったというグエルの言葉は、オルコットに死んだ息子を思い出さずにいられないものだった。
 

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グエル「『父さん』て聞こえたから……助けてほしかったんじゃ、ないかって」
 
人の命は、物理的にはもちろん1回きりのものである。死ねば蘇ることなどない。だが一方で私達は、別の何かに死者を重ね見ることがある。避難民の子供達は前回死んだソフィ・プロネの墓を自分で作って忘れまいとするし、ベネリットグループ総裁の娘ミオリネは今回、父デリングの進めていた「クワイエット・ゼロ」なる計画を通して(デリングは昏睡状態で死んではいないが)父の真意や既に死んだ母の考えを理解している。生と死は相反するものではあるが、かといって常にどちらか一つしか得られないわけではないのだろう。
 

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グエル「これ以上なくしたくないんだ。俺と父さんを繋ぐもの」
 
グエルは言う。これ以上自分と父を繋ぐものをなくしたくないと。彼とヴィムを繋ぐものとはすなわち生と死を繋ぐものであり、今回の副題である父と子を繋ぐものでもある。単に心臓が動いているという意味ではなく私達が"生きる"ために、彼は生きる屍を脱して再び進め始めた。
二つを得るにはそれを繋ぐものが欠かせない。この気付きこそ、グエルが15話で得た学びなのである。
 
 

感想

というわけで水星の魔女の15話レビューでした。オルコットの義手関連はもうちょっと潜って考えた方が良さそうですが、テーマとして書くなら今回は生と死かな、ということでこういう内容になった次第。駐留部隊に父が乗っていたディランザ・ソルがいないのはグエルへのせめてもの気遣いかしらん。とても細かな味加減の回だったと思います。
 

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