誤解と理解ーー「ダークギャザリング」3話レビュー&感想

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

旋回の「ダークギャザリング」。3話では夜宵が悪霊を集める理由が明かされる。理解が誤解に勝るとは限らない。

 

 

ダークギャザリング 第3話「ふたり」
夜宵と出会ってからの心霊体験や、夜宵の言動に恐怖を感じた螢多朗は、心霊スポットへの同行を拒絶する。曰く付きの人形を集め、爪を要求してくる夜宵の真意とは…。
公式サイトあらすじより)

 

 

1.誤解多発注意報

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

夜宵「螢多朗、つめちょうだい♡ つめちょうだい♡」

 

自ら心霊スポットに赴く振る舞いに辟易した螢多朗に拒絶された夜宵。一人廃寺へ向かうも今回の敵は前回とは比べ物にならない危険さで…… 1,2話で神がかった強さを見せた夜宵が一転ピンチに陥る3話だが、今回の話で全体に漂うのは「誤解」の多さだろう。夜宵は螢多朗が自分と同じオカルト好きだと思っていたがそうではないと突きつけられ、またそんな自分を置いて夜宵が心霊スポットに向かうことを螢多朗は自分に見切りをつけられたと勘違いする。そもそもがこの3話は夜宵がなぜか螢多朗の爪を欲しがる理解不能の場面からスタートしているが、その理由をアバンの時点で察せられた視聴者はごくまれだろう。始まりから誤解を宿命づけられたのがこの3話だと言える。

 

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夜宵(少しバールが遅かったら、捻挫程度じゃ済まなかった)

 

誤解というのは怖いものだ。「伝説巨神イデオン」では白旗の意味が地球とバッフ・クランで正反対の意味を持つため誤解が戦いを招いたし、私達の日常でだって説明書の注意書きを誤って読めば時には命の危険すらあり得る。今回の場合にしても、敵である廃寺で悪性変異した鬼子母神と多数の水子を見て夜宵が感じたのは今の自分では準備が足りない=相手の戦力を誤解していた事実であった。夜宵が前回までのように悪霊を屠るどころか死の危険に晒される結果を見ても、誤解が命取りになり得ることはよく分かる。……だが、誤解は常に悪なのだろうか? 理解は常に正しいのだろうか?

 

2.人を救うのは

誤解と理解の悪と正が常に定まっているとは限らない。この分かりやすい例としては、夜宵の「形代」の使い方が挙げられる。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

夜宵「水子を捕まえた。近づけばえぐる……生かすか殺すかお前が選べ」

 

形代は自分の体の一部を入れて災いを肩代わりさせるものだが、夜宵はこれを「ゲームの残機のようなもの」と語りつつもそのままの使い方はしない。代わりに彼女は捕まえた水子の形代を鬼子母神に対して人質にしたり、自分のダミーとして位置をかく乱させるといった応用を見せるが、これが形代本来の使い方でないのは言うまでもないだろう。すなわち夜宵は積極的に形代を「誤解」している。

 

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螢多朗(なんとか付かず離れずで走って退路を確保して、夜宵ちゃんを拾って逃げ切れるはず! 体力づくりしといて良かった……!)

 

また夜宵が廃寺に行ったのは単なるオカルト遊びではなく自分の右腕の呪いを解くアイテムを手に入れるためだと知り、夜宵の考えを「理解」した螢多朗は彼女を助けに向かうが、そのために取った方策は霊媒体質の自分が囮になったり、霊に取り付かれないために培った体力で水子の群れから付かず離れずの距離感を保って走ることであった。霊媒体質も体力作りも想定外の使われ方をしたわけだからこれもやはり「誤解」だ。しかも夜宵や螢多朗は形代や体力づくりについて勘違いしているのではなく、むしろ理解の結果として本来のそれと異なるやり方をしているのだ。

 

私達は誰かや何かを完全に「理解」してしまえばかえって生きていけない。人には何かしら他人に打ち明けられない秘密があるものだし、自分がどんな未来を迎えるか知ってしまったら人生は彩りを喪ってしまう。分からないから、誤解しているから逆に理解しているような気になれるところがある。また上述の夜宵や螢多朗のやり方はいわば守破離の破に相当するものだから、これらは理解の上でこそ成り立つ「誤解」でもあろう。誤解と理解は別に上下の一方通行などではないし、時には誤解の方が人を救うこともある。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

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螢多朗「ありがとうね、本当に。……無事でよかった」

 

命からがら廃寺から脱出した帰り道、足を捻挫していたため螢多朗の背に負われた夜宵は、悪霊に家族を奪われる前に父の背におぶさった時を思い出す。もちろん螢多朗は死んだ父とは全く別の人間なのだが、それでもその時を思い出してしまうーーあの頃に戻ったかのように「誤解」させる温かさが螢多朗の背中にはある。なぜ今回のような危険なことをしたのかと問われた夜宵は仲間は家族同然に大切だからと言うが、おそらくこれも半分は誤解なのだろう。夜宵はきっと、仲間が家族同然なのではなく家族のように誤解してしまう相手を仲間と呼んでいるに過ぎない。そうやって誤解しておかなければ彼女は、化け物に連れ去られた母の霊と墓に一人寂しく佇む父の霊を差し置いて幸せを感じる自分を許せない。家族同然の大切さは感じても、家族のようだと理解してはいけないのである。

 

 

3.誤解と理解の蠱毒

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

夜宵「悪霊の入った人形にわたしの爪や血を入れれば形代になり、わたしへのあらゆる攻撃はこの子達に入る。だからいずれかがわたしを攻撃したら全員がダメージを食らう」

 

なぜ爪を欲しがるのか? もう一度夜宵を信じてみることにした螢多朗は、夜宵の部屋で驚愕の事実を知る。一面のぬいぐるみコレクションは全て夜宵の爪や血が入った形代であり、共に封じられた悪霊達は夜宵に危害を加えようとすれば相互に攻撃し合う羽目になるため手が出せない状況に置かれていたのだ。彼女が螢多朗の爪を欲しがったのは部屋の悪霊が彼に危害を加えないよう同様の処置を行うためで、大変な労力のかかるそれは螢多朗の体の悪用どころか彼への強い友好の証であった。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

螢多朗(僕はこの呪いと一生付き合っていくのかと思っていた。けれど祓える! 霊同士をぶつけ合うことで……!?)

 

種を明かされれば夜宵の行動は合理的なものであったが、これがまっとうな方法かと聞かれれば頷く人間はいないだろう。当然だ。悪霊は祓うなり祀るなりすべきものであり、互いに争わせて封じるなど常軌を逸している。更に彼女はこの蠱毒によって鍛えた悪霊で母の霊を連れ去った化け物の打倒を画策しており、毒を以て毒を制すこの発想も常識的な理解からはかけ離れていることは言うまでもない。すなわち「誤解」である。だが悪霊をすら使役する憎き化け物を倒したり、一生続くかと思われた螢多朗の呪いを解く方法はこの「誤解」しかない。「理解」止まりではそれは叶わない。誤解が理解になり、理解が誤解にならねばそこにはたどり着けない。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

夜宵「仲間が困ってるならわたしは……必ず助ける」

 

誤解の先が奈落とは限らない。理解が救済に繋がるとは限らない。螢多朗は夜宵のことを誤解している時でも彼女に教える勉強を考えたりその命の危機に動揺していたし、夜宵は螢多朗がオカルト好きの同士なのは誤解と聞かされても仲間意識を変えることはなかった。二人が互いを大切に思う気持ちは、それが誤解か理解か以前のところにあった。誤解と理解はいわば、二人にそれを教えるための手段に過ぎなかったとも言える。
大切なものは理解と誤解を超えたところにある。そして、蠱毒とすら言える理解と誤解の繰り返しの中でそれは磨かれていくものなのだ。

 

 

感想

というわけでダークギャザリングの3話レビューでした。当初は「回転」をテーマに書くのを思いついたのですが当てはめようとすると空転気味で。今日もう一度見返してみて「誤解と理解」に落ち着きました。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

やってることだけを見ればどうかしてるとしか言いようがないのに、回を増すごとに夜宵のいじらしさが増していくのが本当にズルいなと思います。今のようにならないときっと彼女は押し潰されていたし、そんな彼女にとって螢多朗の存在が大きな救いになっている。幸せになって欲しい。

さてさて、螢多朗が霊障に巻き込んだ友人が詠子と判明したところで彼女との関係性もどうなっていくのか。次回はまた少し舞台が変わる感じになりそうで楽しみです。

 

 

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