【ネタバレ】消えない魔法――映画「窓ぎわのトットちゃん」レビュー&感想

©黒柳徹子/2023映画「窓ぎわのトットちゃん」製作委員会

黒柳徹子の自伝的小説をアニメ映画化した「窓ぎわのトットちゃん」。夢いっぱいの童女の成長を描く本作は、消えない魔法を描いた物語である。

*2023/12/17 3回目の鑑賞に伴い、気づいたことを追記しました。

*2024/1/14 6回目の鑑賞に伴い、自分なりの結論を追記しました。

 

 

映画「窓ぎわのトットちゃん」

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1.子供の魔法

時は昭和15年。黒柳家の長女「トットちゃん」は落ち着きのない行動を理由に尋常小学校を出ていかなければならなくなった。新しく迎え入れてくれた「トモエ学園」はちょっと変わった学校で……?

 

女優の黒柳徹子のベストセラー小説として知られる「窓ぎわのトットちゃん」。そのアニメ映画である本作は「トットちゃん」こと幼少期の黒柳徹子を描写しているが、序盤に見せる小学校での彼女の行動はかなり奇抜だ。開閉する机を「ゴミ箱の蓋みたい」と面白がって何度も開け締めしたり、チンドン屋が学校を通れば呼びかけて授業を止めてしまったり……さじを投げた教師に転校するよう言われてしまい、彼女は個性的な教育方針で知られるトモエ学園へ通うこととなる。

 

教師としては確かに困ってしまうのだろうが、トットちゃんの思考や行動から見えるのは驚くほどの想像力の豊かさ自由さである。列車の切符をもらってもいいか尋ねたり、トモエ学園の校舎として使用されている電車車両の中で遥か彼方の世界へ行く自分を夢想したり……程度の違いはあるかもしれないが、多くの人は子供の頃にトットちゃんが見せるのと同じような景色を目にしたことがあるのではないだろうか。世界があやふやに映る幼少期だけに見られるその不思議な景色は、言ってみれば子供だけが使える魔法のようなものだ。

 

トットちゃんに困って追い出したように、学校はある意味、子供が魔法を使えなくするための矯正を行う場所である。けれど小林先生という教師が運営するトモエ学園は、子供が使う魔法を否定しない。先に触れた車両校舎や弁当として海と山のものを持ってこさせてそこから知識を深めさせるなどといったやり方は私達の思いもよらない学びにあふれているし、財布をトイレに落としたトットちゃんがそれを探そうと糞をかき出したりしても本人が満足するまでやらせて止めはしなかったりする(元に戻しておくようにとは言うが)。周囲のように困った子として扱わず、「君は、ほんとうは、いい子なんだよ」と言ってくれた小林先生のこの学校を、トットちゃんが大好きになるのは当然の話だろう。

 

小児麻痺で手足に障害のあるやすあき(泰明)ちゃんを始めたくさんの子供達と過ごす日々はまるで魔法・・のように楽しく、トットちゃんは1年また1年と成長していく。ただ、そうだとしても人はずっと魔法と一緒にいられるわけではない。

 

2.消えない魔法

トモエ学園は子供が見る魔法を否定しない学校である。けれど、大人になっていくことは子供から否応なしに魔法を奪ってゆく。

 

楽しく遊んでいたある日、トットちゃんは校長の小林先生が自分達の担任の大石先生を叱っているのをくもりガラス越しに目にする。大石先生は深い考えなしに生徒の一人の障害をからかうようなことを言ってしまい、その配慮の不足を咎められていたのだ。魔法のように楽しいこの学校がけして当たり前のものではなく、教師達の心を砕いた配慮によって成り立っていることをトットちゃんは知る。

 

またトットちゃんがトモエ学園に通い始めた翌年の昭和16年に日本は太平洋戦争に突入していたが、その影響は少しずつ彼女の日常を侵食していった。「パパ、ママ」ではなく「父さん、母さん」と呼ばなければならなくなったり、色とりどりだった弁当は日の丸弁当、時には豆の類だけになってしまったり……この様子は客観的には日本が戦時体制になっていく推移を描いているわけだが、トットちゃんにとっては現実が魔法を侵食していく様に他ならない。雨の日に空腹を紛らわそうと学校で習った歌を口ずさんだら通りすがりの大人に「そんな卑しい歌を歌うな」と叱りつけられるに至って、トットちゃんはもはや泣き出さずにいられなかった。その時は一緒にいたやすあきちゃんが歌ではなく足音でリズムをとり、雨の降る暗い世界に再び光を灯してくれたことでトットちゃんは救われるのだが――夏休みが終わって再開した学校で知らされたのは、やすあきちゃんが息を引き取ったというトットちゃんが考えもしなかった”現実”であった。

 

やすあきちゃんの亡骸に花を添えて、「忘れないよ」と彼の声を聞いた気がしたトットちゃんは「わたしも忘れない」と返すが、たまらなくなって葬儀場の教会から駆け出していく。けれどあたりにはもはや魔法を見せてくれるような景色は残されていない。町の表通りは出征を祝うパレード一色、裏通りにいるのは兵隊ごっこに興じる子供や傷痍軍人、戦死者の遺族……走り続けたトットちゃんはトモエ学園で空を映す澄み切った水たまりにジャンプするが、彼女はそこから別世界に飛び込んだりはできなかった。トットちゃんが魔法を使える時間は、もう終わってしまったのだ。

 

日々は過ぎ、現実はますます過酷になりトットちゃんから魔法の残滓すら奪っていく。ヴァイオリニストだった父は徴兵され、激しくなった空襲のため思い出の家は建物疎開で壊され……トモエ学園も休校となり、トットちゃんは青森へ疎開することになった。トットちゃんも今や母の髪の乱れを治してあげたり赤ん坊の世話を買って出る立派な少女になっていて、物語開始時が嘘のような落ち着きぶりだ。現実に、戦争の前に人は、魔法は無力なのか? 否。

 

トモエ学園は後に空襲によって校舎を破壊されたが、小林先生はめげなかった。「さあ、今度はどんな学校を作ろうか?」と意欲に燃える目は、校舎を焼く炎よりも赤く輝いていた。トットちゃんもまた、やすあきちゃん達と過ごしたトモエ学園での日々を忘れてはいない。疎開のため列車に乗る中、チンドン屋の音楽に泣き止む赤ん坊を「ほんとうにいい子ね」とあやす彼女には、小林先生と最初に、そして最後に会った時にかけられた言葉が確かに息づいていた*1

 

現実の力は圧倒的である。どれだけ懸命に生きても、どれだけ葛藤や苦心を重ねても人はあまりに無力で、いつか魔法は目に見えなくなってしまう。けれどそれは魔法が嘘偽りなわけでも、無価値なわけでもあるまい。目に見えずとも息づくものがあるなら、それこそが現実や成長を超えて残る本当の魔法なのである。

 

<12/17 3回目の鑑賞で感じたことをSNS投稿から転載する形で追記>

窓ぎわのトットちゃん 3回目の鑑賞で、本作で電車が重要な理由が分かった気がする。「どんな人も置いていかない乗り物」になれるからだ。

 

尋常小学校を追い出されたトットちゃんは、他では置いていかれるはずの子供だった。そんな彼女を置いていかなかった小林校長先生は、トットちゃんが最初聞いたようにやっぱり「電車の人」でもある。小児麻痺で歩くのが遅いからと友達と歩いたり遊ぶのを遠慮するやすあきちゃんを皆と一緒にしたのも「電車」の図書室。

 

トットちゃんはトモエ学園で過ごす中で、自分自身も「電車」になっていく。置いていかれる者を拾い上げていく。やすあきちゃんをパパの練習所に連れて行くリアカー自転車はそのまま彼女が電車だし、祭りで「なんでも」の例外扱いされた体の弱いひよこや日独伊同盟に喜べないローゼンシュトック先生などもトットちゃんは置いていかない。

 

そしてここでもう一つ重要なのが「リズム」であり、これは電車をトモエ学園に搬入する時最後に使われた「コロ」と同じものなのだ。やすあきちゃんの木登りの時の梯子の段もまたリズムでありコロであり、一足飛びでは無理でもリズムに乗れば高いところ遠いところまで行ける。

 

「トモエ学園いい学校」と歌いながらスクラムを組む場面ではリズムと共に皆が一緒=電車になるし、叱られて泣き出したトットちゃんを励ましたやすあきちゃんの足音もリズムにして階段で。後者、やすあきちゃんもまたトットちゃんを「置いていかなかった」。

 

けれど一方で電車は、いや列車は乗り遅れたものを容赦なく置いても行く。国策の機械的なリズムに人を従わせ、折々で一足飛びを要求する。時間に追われたトットちゃんとやすあきちゃんの別れは呆気なくて、乗り遅れるようにしてやすあきちゃんは死んでしまう。

 

けれどそうだとしても、私達一人ひとりが電車になるのなら。自分というリズムを忘れないなら、その時他の人間を置いていかず連れていくことができる。トットちゃんはやすあきちゃんから借りた本を返せなくなってしまったけれど、それはやすあきちゃんがトットちゃんという電車にずっと乗り続ける約束にもなった。

 

トモエ学園休校の日、トットちゃんは小林先生に将来この学校の先生になると約束するが、これは小林先生を置いていかないやりとりであると同時に自分は電車になるのだというトットちゃんの決意表明だ。この学校での日々で、「切符を売る人になりたい」トットちゃんの夢は少しだけくっきりしたものになった。

 

ラスト、疲れ果てた人々を乗せる汽車の中、チンドン屋さんの音で泣き止む赤ん坊をトットちゃんは「リズムをとって」あやす。時代という名の汽車に運ばれる中でも、彼女は間違いなく一つの電車だ。どんな人も置いていかない乗り物たらんとするからこそ、トットちゃんは「本当にいい子」なのだと、そう思う。

 

<1/14 6回目の鑑賞までで感じたことをSNS投稿から転載する形で追記>

2023/12/30
映画館に行く習慣の無い両親を連れて「 #窓ぎわのトットちゃん 」4回目を鑑賞。とりあえず悪い反応ではなくて良かった。

 

2024/1/7
#窓ぎわのトットちゃん
5回目の鑑賞。終盤のペースの変化を「リズム」の問題として捉えたら何か見えるのではとの思いつきがあるが、まだ分からない。
けれどそれより何より、私はこの映像が愛おしくてたまらないのだ。

 

2024/1/13
#窓ぎわのトットちゃん 6回目。ようやく自分の中に落とし込めた気がする。
「変わらないものはないけど、なかったことになるわけではない。全てはリズムの上にある」
そういう話なんだ。

 

「人も世も変わっていくけど残るものもある」だと終盤が違う。かつてのようなひょうきんに振る舞っても「徹子さん」のそれは優しさから来る演技だし、彼女はチンドン屋さんを見ても家族のためにぐっとそれをこらえてしまう。

 

昔と似ていても徹子さんがトットちゃんでないように、全ては変わり失われていく。泰昭ちゃんは死にともに学園は燃え、永遠に続いてほしかったあの日々はもうけして戻らない。

 

だけど、跡形もなくなっても泰明ちゃんや学園、トットちゃんが最初からなかったことになったわけではない。そうしたものがあった先に「黒柳徹子」がいて、それはリズムのように繋がっている。戦争の足音が少しずつ忍び寄るのと同じ。

 

校舎が焼けても小林先生はまた学校を作る気満々だ。徹子さんの乗った汽車の線路も続いていて、終点は描かれない。全てはリズムの途中にあり、現代そして更に未来にまで続いている。終わりではない。

 

だから何もかもがなくなっていくあのラストはあまりに悲しくて、けれど確かに希望も描かれている。「本当にあった学校と実際に通っていた女の子のお話」を忘れないことで、私達は人や世界がリズムの上にあると知れるのだ。

 

結果からすれば「なくなるわけじゃない」を「なかったことになるわけじゃない」に変えるだけのことのために6回見たわけだけど、そこに後悔はない。この6回全てがやっぱりリズムの上で、6回見たから私はそれを知れた。

 

スケジュール的に映画館で見るのはこれが最後になるだろうと思っていたけど、間に合って良かった。本当に素晴らしい作品だと思う。

 

6回見た理由の一つにはテリーさんとのやりとりがあって。テリーさんが私の結論をどう受け止めるかは分からないけど、改めて感謝します。ありがとうございました。

 

 

 

感想

というわけで映画「窓ぎわのトットちゃん」レビューでした。1回見ただけでは自分の中でまとまらず、2回見てみてこれは童女の成長と歴史を重ねた物語なのだという見立てを作ることができました。本文中では触れませんでしたが「はじめにリズムありき」という小林先生の言葉も大切なところだと思うので、ここは他の人の声を聞いてみたい。トモエ学園の彫刻が終盤では二宮金次郎像に変えられていたり、小道具の細かさにも驚かされました。

秋のアニメ映画通いで疲れていたので鑑賞をちょっと迷っていたのですが、見てよかったと思います。原作は未読ですが確か実家の母が持っていたので、今度話を振ってみようかな。

 

 

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*1:最初は「ほんとうは」、最後は「ほんとうに」