【ネタバレ】時間の三角関係――「アリスとテレスのまぼろし工場」レビュー&感想

© 新見伏製鐵保存会

岡田麿里2作目の監督作品となる「アリスとテレスのまぼろし工場」。前作と比べストレートなビジュアルに反しその物語はフィクショナルだ。だが本作の軸は虚構と現実だけに限られない。

 

 

「アリスとテレスのまぼろし工場」

www.youtube.com

 

1.見た目は子供、頭脳は大人

2018年の「さよならの朝に約束の花をかざろう」を皮切りに監督としての活動も開始した脚本家・岡田麿里。2本目の監督作「アリスとテレスのまぼろし工場」は日本の学生を描いており、架空の世界を舞台とした「さよならの朝に約束の花をかざろう」から打って変わってドラマ的な方向へ舵を切ったように見える。が、これがある種の目くらましであることは比較的早い段階で明らかにされる。14歳の主人公・菊入政宗を始めとした見伏市の人間は町の中心である製鉄所の爆発と同時に時の止まった世界に閉じ込められてしまっていると認識していたのだが、実は彼らがいるのは何らかの神秘がもたらした仮想空間に過ぎなかった。正宗達はいつか元の時間に戻れると信じていたが、彼ら自身もまた虚構の存在であって現実に戻れる見込みなど最初からなかったのだ。加えてこの世界はひびが入る度に製鉄所から出る「神機狼」によって補修されてきたが、その終わりも近いことが実は予測されていた。

 

種明かしや主要人物の一人・五実がただ一人現実から迷い込んだ少女という設定からは、本作が現実と虚構を題材にした作品であるという印象を強く受ける。だが、ここで注目したいのは劇中の雑誌から事故が1991年に起きたと推測される点だ。考えてみれば本作にはスマホは出てきていないし、正宗達が立ち寄るアーケードゲーム機や飲食自動販売機を兼ねた「オートスナック(私は本作で初めてこの言葉を知った)」もレトロが過ぎている。そう、本作の舞台は虚構であると同時に過去なのだ。

 

1991年は岡田麿里が10代、そしてバブル崩壊の時期である。つまり正宗達は日本が絶頂から「爆発」するその瞬間に閉じ込められたわけだが、その頃は当然「失われた30年」などという言葉はなかった。今は苦しくともいずれ景気が上向く時期が来る、就職難に苦しむ若い人も家屋と車と家族の揃った一般的な家庭を手にできる日が来る……そう信じられていた。だが実際は上向きなどせず下り坂を転がり続けてきたのは皆の知る通り。冴えない中年だったはずの「クレヨンしんちゃん」の野原ひろしはもはや勝ち組扱いされ、家屋と車と家族の揃った一般的な家庭を手にできる人は減少の一途をたどっている。1991年頃に普通だと思われていた「大人」になれなかった人が続出したのだ。

 

1991年に閉じ込められた正宗達は肉体の成長も止まっており大人になれない。しかし自動車免許の取得は許されているし、閉じ込められてからは年単位の月日が経っておりもはや子供とも言い難い。……そういう視点に立つと正宗達は、フィクションの人物以上に「大人」になれなかった2023年の中高年の鏡像として浮かび上がってくる。序盤では登場人物の一人がブルマ姿の同級生の膝裏のくぼみに興奮しておじさん臭いとツッコまれる場面があるが、実際これはおじさんが欲情しているのとそう変わらないと言えるだろう。

 

 

2.時間の三角関係

本作の登場人物は虚構にして過去である。ただこれには例外がある。誰あろう、ただ一人現実から迷い込んだ五実だ。

 

出自が違う故に、五実の肉体年齢は正宗達のように一定ではない。迷い込んだ時は就学前後程度と思われた彼女は、正宗と出会った頃には彼と変わらないほどまで背丈が伸びている。だが、彼女を神の使いと信じる者達によって製鉄所内に閉じ込められたその精神は狼少女も同然の幼さで、言葉もまともに覚えてはいなかった。
五実がなぜ神の使いとされたのか? それは成長し得る彼女が「未来」の象徴だからだ。ヒロインである睦実の義父にして見伏市を取り仕切る佐上が望むのはこの虚構にして過去の世界の存続であり、そのためには未来があってはならない。未来の直視は限界を迎えつつある自分達の世界の終末の直視(これは衰退の一途が確実視される日本の未来と重ねられるし、2023年となっては気候変動が加速した地球自体の未来に重ねることも可能だろう)でもあるからだ。しかし政宗が睦実によって彼女そっくり五実と引き合わされ、三角関係が生じることでこの状況は変化していく。「過去」たる政宗と「未来」たる五実との間で三角関係になるものは何か?と言えば、それはもちろん「現在」であろう。ただ、物語開始時点の彼女はそれを背負いきれていない。

 

睦実は正宗同様に時間の停止した世界の住人であるが、五実が身につけていた荷物からその正体が「きくいりさき」……つまり自分と正宗の娘だと気付いていた。過去の少し未来、すなわち現在を知っていた。だが現実(というのも変だが)の彼女がしていることと言えば義父の命令とはいえ五実の軟禁であり、そんな彼女は母親としての自分を否定せずにいられなかった。クラスで猫を被っていたり好意を抱く正宗にむしろ露悪的に振る舞ったりする彼女は、自分に嘘をついている……自分を同定できずにいる。未来を裏切る自分をどうにもできない彼女は、現在を背負えずにいる。けれど正宗が加わった三角関係は睦実を変えていった。

 

雪の降る中立ち寄ったオートスナックで睦実に好意を打ち明け、政宗は言う。自分は五実を見て生きるとはどういうことなのかを知ったが、その先を教えてくれたのは睦実だと。一緒にいると鼓動が早くなって、自分は生きていると感じられるのだと。
生きることはすなわち、現在を背負うことだ。変化していくことだ。正宗と睦実のキスを目撃した五実の動揺によって世界のひび割れは加速するが、それによって見伏市の人々は再び動き出していく。政宗の叔父時宗は兄亡き後義姉である美里への好意を隠していたがその成就のため(美里は世界が終わるなら最後まで昭宗ひとすじでいようとしていた)どうにか世界を維持しようとし、製鉄所を再び稼働させ神機狼をもう一度発生させようとする。10年ぶりに製鉄所を動かすことで、過去に留まっていた町は現在になっていく。そこにあるものはもはや、ひび割れの向こうとはまた別の現実にして現在だ。けれど見伏市で暮らす人々の時間が再び動き出すなら、そこには存在を許されない者がいる。「未来」だ。

 

物語開始時点の見伏市の住人はいつか元の時間に戻れると願って過去の通りの生活を続けていたが、それは逆に言えば「いつか」が必ず来ると、確定した未来が来ると思い込んでのものだった。けれど本当は、未来などというものは誰にも見えない。将来に困らない財産があっても明日地震が起きれば死ぬかもしれないし、腕利きの選手を集めても明日には怪我をしているかもしれない。分からないから「現在」なのだ。なら睦実達は五実を返さなければならない。確定的な「未来」を背負ってしまっている五実を、現実という名の「現在」に返さなければならない。

 

 

www.youtube.com

未来へ 未来へ 未来へ 君だけで行け
――中島みゆき 「心音」

 

中島みゆきによる本作のテーマソングが歌うように、未来へ行けるものは未来だけである。過去や現在はどれだけ進んでも未来には追いつけない。だから五実を返すのには現実の列車が使われるが、そこに「過去」から現在へ変わりつつある政宗は乗れないし、睦実も途中で降りなければならない。彼女が「現在」であろうとするなら、未来には行けない。逆に言えば、五実に別れを告げ列車から飛び降りたあの瞬間に睦実は「現在」を受け入れたと言える。だから彼女は落下の衝撃で頭に怪我をするもその痛みをかえって喜ぶ。痛みによって自分が生きていると――「現在」になったと確信するのである。そして一人残された列車上で五実が感じる失恋の痛みもまた、彼女が現実<現在>の存在となった証であった。

 

人は過去に留まり続けることはできない。未来を見ることもできない。それらは全て虚構である。だがだからこそ私達がいるのは現在にして現実である。予想される未来がどれだけ暗くともいつ終わるとも知れなくとも、それが確定しない時間を過ごすところに私達の生はある。

本作は虚構と現実だけを軸とした作品ではない。虚構と現実に絡めることで過去・現在・未来の垣根を少しだけ揺らしてみせた、言ってみれば時間の三角関係を描いた作品なのだ。

 

 

感想

というわけでまぼろし工場のレビューでした。いや、書くのに難儀しました。虚構と現実の話としてだけだとなんだか料理を丸呑みしてしまっているような気がして、鑑賞後にもう一度席を予約して見返してああでもないこうでもないとウンウン唸ってこんなのができた次第です。恋愛が鍵になっている部分にもう少し踏み込めないと本作を具体的には捉えられないのではないかと思いますが、現時点ではこれが限界かしらん。
正直なところ鑑賞に今一つ気乗りしなくて、14歳を描くだけだと中年の私にはもうしんどいのかもしれないと考えていたのですがその枠組を壊してくれる内容でした。たくさんの方の感想を見てみたい作品だと思います。

 

<9/23追記>

オフレットさんの記事が大変に素晴らしかったので紹介させてください。私のレビューは完全に過去のものになったと感じました。

www.otalog.jp

 

<いいねやコメント等、反応いただけるととても嬉しいです>