【ネタバレ】約束を超える約束――「屋根裏のラジャー」レビュー&感想

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小説を原作にスタジオポノックが送り出す、映画「屋根裏のラジャー」。イマジナリーフレンドが主人公の本作は、見る者に真の想像とは何かを問う物語である。

 

 

屋根裏のラジャー

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1.イマジナリは自由じゃない

ラジャーは少女アマンダの想像によって3ヶ月と3週間3日前に誕生した「イマジナリ」。彼女の空想上の友達であるラジャーは毎日彼女の遊び相手になっていたが、ある日現れたミスター・バンティングという男に追いかけられる中アマンダが車にはねられてしまう。それと共にラジャーの体は消え始め……

 

A・F・ハロルドの児童文学「ぼくが消えないうちに」を原作として製作されたアニメ映画「屋根裏のラジャー」。イマジナリーフレンド(イマジナリ)の少年・ラジャーを主人公としていることもあり、想像から生み出される世界の美しさが目を引く作品だ。彼を生み出した少女アマンダが一つ想像すれば屋根裏も大雪原に様変わりするし、劇中登場するイマジナリの町は図書館の本が毎夜異なる世界を編み出してくれる。イマジナリの世界は自由で不可能がない、とすら思えるほどだが――本当にそうだろうか?

 

イマジナリを「食べて」しまう不気味な男、ミスター・バンティングの襲撃の結果消滅しかけたラジャーは図書館にあるイマジナリの町へ逃れることとなるが、彼はここで先輩イマジナリの少女エミリなどからここでの暮らしには色々なルールがあると教わることとなる。想像力の集積所とも言える図書館にいれば確かにイマジナリは消滅しないが、それだけでは彼らは食事ができない。1日限定のイマジナリー・フレンド募集の張り紙写真を掴んで子供達の遊び相手になる「仕事」をこなさなければ食べ物は得られないし、その子供の想像の中で命を落とせばイマジナリは実際に(奇妙な表現だが)死んでしまったりもする。


イマジナリの町やそこで暮らすイマジナリ達が見せているもの。それは想像の自由さ以上にその限界だ。眠らないで見張っていてほしいという願いから生まれた猫ジンザンの体は眠らないようになっているし、「消えないこと、守ること、ぜったいに泣かないこと」という約束から生まれたラジャーは泣くことができない体を抱えている。更に言えばエミリ達は、ラジャーの話を聞いてもバンティングなんて都市伝説だと否定し「イマジナリーフレンドについて聞かされた親のように」当初信じようとしなかった。荒木飛呂彦の「デッドマンズQ」では現世で暮らすため様々なルールに縛られる幽霊が描かれていたが、イマジナリもまた幽霊や現実の人間同様にその存在や能力に制約を、言ってみれば創造主との「約束」を抱えているのである。

 

自由なはずの想像もまた制約を受けている。それが想像される側たるイマジナリの「現実」だ。だから彼らは想像する側の悪役であるバンティングの前にはほとんど抵抗できない。現実世界からイマジナリの町へ続く扉の位置をずらされてしまったり、単なる想像に過ぎないはずの指鉄砲で撃たれただけでエミリは殺されもする。バンティングが語るように、想像は現実には勝てないのか? 否。

 

 

2.約束を超える約束

想像は現実に勝てないのか? この問題を考えるために欠かせないのが、ラジャーを生み出した少女アマンダとその母リジー(エリザベス)の関係である。

アマンダの家は母子家庭であったが、そうなったのはごく最近のことだった。原因は語られていないがリジーの夫、アマンダの父が数ヶ月前に死んでしまったのだ。これが痛手でないはずはなく、リジーは夫婦で経営していた本屋を閉店し新しい仕事を探して奔走する日々を送っている。そして、友人の助けがあるとはいえ仕事と育児の両方を一人で行わなければならない「現実」で手一杯の彼女にとって、何度言っても傘を屋根裏のクローゼットにしまいイマジナリーフレンドと遊ぶアマンダはいささか理解を超えて感じられるところがあった。しかしバンティングの襲撃の結果アマンダが車にはねられ意識不明となってしまい、病院に泊まることもできず帰宅した彼女はそれが自分の勘違いだったことを知る。

 

何度言っても屋根裏のクローゼットにアマンダがしまっていた、父に買ってもらった傘。その内側にはある言葉が記されていた。「パパを忘れないこと。ママを守ること。ぜったいに泣かないこと」……そう、これはラジャーを生み出した約束=想像である。リジーの苦労を顧みないように見えていたアマンダは実際のところ、約束という名の「想像」によって母の悲しみに寄り添っていたのだ。つまりアマンダの家において現実>想像の図式は成り立たず、むしろ全く互角の関係にあった。

 

現実と想像は互角である。その関係性から見えるのは、限界とは正反対の「可能性」だ。現実によって想像は拡張され、想像によって現実は不可能を可能としていく。ラジャーを食べるべくアマンダの病室へ侵入したバンティングとの決戦において、現実も想像も片方だけでは決定打にならない。意識を取り戻したアマンダがリジーは自分の言葉を信じてくれると願い、リジーは自分にもかつて「レイゾウコ」という老犬のイマジナリがいたと思い出すことで――想像が現実を、現実が想像を信じることで奇跡は起き、事態は収束していく。

 

語られる都市伝説において、バンティングは自分のイマジナリが消えるのを拒絶して他のイマジナリを食ったために何百年も生きていたのだと言う。それだけ見れば一見、バンティングは想像の権化のようにも思える。けれどラジャーにしようとした行為が示すように、この男の実像は「想像を食い物にする」下衆に過ぎない。劇中で彼は人はそれぞれ見たいものを見るだけだといったことを語り、ラジャーに対しても「たかがイマジナリ一つ」と言うが、つまりバンティングは想像なんてものを本心では信じていないのだ。彼のイマジナリである黒髪の少女は最終的に自らバンティングに食われて共に死ぬ心中めいた結末を選ぶが、これは現実と想像の信頼関係の破綻が招いた結果なのだろう。

 

かくて危機は去り、ラジャーはアマンダのもとへ戻る。けれどそれはこれまで通りの関係がこれからも続くことを意味しない。子供は大人になるものだし、リジーとの和解でラジャーの必要性はもはや薄れているからだ。けれどこれが単に、イマジナリが忘れられる約束に則っているのかと言えばそれも誤りだろう。なぜなら、「消えないこと、守ること、ぜったいに泣かないこと」と約束をもう一度繰り返すラジャーの瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちている。涙を流すようには想像されていないはずの彼が、だ。
泣けないはずなのに涙するラジャーは、もはやイマジナリであってイマジナリではない。想像であって想像ではない。いや、現実という名の約束に縛られた想像ではない。けれど、あらゆる限界や約束の制約を打ち破る力こそは本来「想像」と呼ばれるものではなかったか。

 

イマジナリーフレンドが主人公の本作は、見る者に真の想像とは何かを問う物語である。約束を超える約束が生まれるところにこそ、現実と想像が手を取り合った真の「想像」は隠されているのだ。

 

 

感想

というわけで屋根裏のラジャーのレビューでした。なかなか消化の難しい話で、こちらも1回目を観終わった後でもう一度チケットを買って2回目を鑑賞。「泣かないことと言いつつなんで泣いてるのだ?」という疑問をベースにしたところこんなレビューが組み上がった次第です。エミリは予告からは天真爛漫な子かと思ってたらむしろお姉さんで意外だったな。

 

バンティングを自分の中でどう位置づけるのかは悩みましたが、「想像を食い物にする」この男は、SNSやtogetter等で「こいつらはこんな危険な奴らなんだ」と見る者の想像を掻き立てて回っている人達と重ね合わせてみることができるのではないかな、と思います。某人物に買収された大手SNSはインプレッションが金稼ぎに直結するようになり、まともにやらない裁判を連発してカンパをビジネス同然にしているインフルエンサーなども近年現れましたし。

つくづく、想像力の問題を私達に投げかけるような作品だったのではないでしょうか。

 

 

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