【ネタバレ】所在を見つけ直す旅――「君たちはどう生きるか」レビュー&感想

風立ちぬ」以来10年ぶりの宮崎駿監督作品となった「君たちはどう生きるか君たちはどう生きるか」。本作は公開まで特報映像などがなく、徹底した情報の秘匿が行われた。それは異色の広告方法、というだけではない。秘匿の上でこそ私達は本作を味わえるのだ。

 

 

1.私と主人公の所在なさ

吉野源三郎の同名小説にタイトルこそ倣っているものの原作というわけではなく、試写会すら行わないで徹底的に情報を隠したまま2023年7月14日の公開日を迎えた「君たちはどう生きるか」。どうせなら何も知らないまま見たいと初日に劇場へ足を運んだ私だが、序盤に感じたのはなんとも言えない「所在の無さ」だった。

 

本作は戦時中を生きる少年・牧眞人を主人公とした物語である。半鐘の音と共に描かれる真っ赤に燃える町並みは空襲――ではなく地震――でもなく眞人の母のいる病院の火事によるものなのだが、そこにはなんとはなしに「風立ちぬ」で既に見た景色へオーバーラップする感覚がある。その後は翌年に田舎に引っ越した眞人の様子が描かれるが、ここでも喋る奇妙なアオサギとの邂逅などはあるもののどんな話になっていくかは見えてこない。この映画をどう見たらいいのか、向き合うための自分の在処が分からず不安定な気分になってしまうのだ。もし予告編などで事前に情報を得られていれば、このような落ち着かない気持ちにはならなかったのだろう。だが、考えてみればこう不安定なのは私だけではない。この気分は誰よりも主人公の眞人が味わっているものだ。

 

物語の始まりに母を火事で喪って以来、眞人を取り囲む環境は彼に安定を許してくれないものだった。軍需産業で工場を営む父と共に東京から田舎へ移り住むことになり、裕福な彼は学校で他の生徒になじめない。しかも田舎には父の再婚相手のナツコ(漢字がまだ不明なので以下カタカナを多用する)という女性がいた。父の子を身ごもった彼女は亡母の妹で容姿も瓜二つ、眞人にも隔てなく接する非の打ち所のない女性でそれ故に眞人は反抗できない一方で彼女を受け入れられもしない。所在無さのあまり彼は、同年代の子供と喧嘩した帰りに石で自分の頭を跡が残るほど強烈に傷つけるに至ったほどだった。

 

長年続くジブリのブランドはそれだけで品質への信頼を信じさせるものだが、「だいたいこんな感じだろうな」と視聴者が予断してしまうのは信頼というより単なる安住である。それでは鑑賞者は十全に眞人の心境にシンクロできない。けれど予告など一切ないまま本作を見れば予断は生まれようがないから鑑賞者は不安にもなる。これが情報が秘匿されたおそらく1つめの理由だ。そして2つ目の理由として挙げられるのは、この状況では劇場へ足を運ぶ決断が極限まで鑑賞者自身の選択に委ねられる点だ。この選択こそ、本作を鑑みる上でもっとも大切なパーツである。

 

2.所在を見つけ直す旅

所在の無さと選択こそは本作を見る上で重要なパーツである。所在ない気持ちを眞人とシンクロさせた我々鑑賞者は、そのまま彼と共に不思議な世界を旅することとなる。

 

つわりで苦しむ中で行方不明に、つまり所在不明になったナツコを探し、そしてアオサギから母が生きていると聞かされた眞人が訪れるのは一言では形容しにくい不思議な世界である。海が広く見たこともない魚やワラワラなる生物がおり、二足歩行するインコが人を食べてしまう恐ろしい世界……一見して戦中昭和の日本とは異なると分かる「ここならざる世界」だ。しかし一方で眞人は、この世界が自分のいたそれと全く違うわけではないことも認識していく。助けてくれたキリコという若い女性は自分の世界にいる老婆と根源が同じ存在であったし、旅の中で出会った少女ヒミが焼いたパンは昔母が焼いてくれたそれとそっくり同じ味であった。後に分かることだがヒミの正体は眞人の母が幼い頃にこの世界に迷い込んだものであり、「ここならざる世界」はあらゆる時空が繋がる「どこでもある世界」でもあったのだ。

 

ここならざるがどこでもある世界。それは見ようによっては虚実の定かならぬ世界だ。ヒミもキリコも眞人のいた世界からすれば虚像だが、別時空の存在である彼らは間違いなく実像でもある。眞人は劇中で極めてアニメーション的な動きをするアオ「サギ」に導かれてやってきたわけだが、これはフィクションを入口に虚実を超越した世界へ飛び込むことの映像化であるとも言えるだろう*1

 

ここならざるがどこでもある世界にはそれぞれの世界に戻るドアがあり、眞人は道中で戻りたければ戻っていいとも言われるがナツコを見つけていないからと拒絶する。ここでいうナツコを見つけるとは彼女を物理的に見つけるだけでなく、自分にとってどういう存在か見つけることをも指す。彼女の自分の中の「所在」を見つけることを指す。そうしななければ眞人の帰還もまた、単なる物理的な帰還にしかならない。所在の無い世界へ戻っても彼はそれを「この世界」だとは言えない。ナツコの存在は、眞人に世界の選択を迫る呼び水のようなものだ。

 

旅の果て、眞人は自分の先祖にしてこの世界を作った主である「大おじ」から自分の仕事を引き継ぐよう、世界を象る「悪意に触れていない石」でより豊かで穏やかな世界にしてくれるよう頼まれるがそれに応じない。所在なさから石で自ら怪我を作った自分が、既に悪意ある存在であることを認識していたためだ。だから自分はその石に触れるべきでない、自分が帰るべきはあの昭和の戦中の世界である……そう語る。ここならざるがどこでもある世界を旅して彼が見つけたのは、元いた世界は自分の世界として選べるものだという事実であった。
眞人が問われた選択は、先の帰りたければ帰っていいと言われたことの変奏だ。ナツコを「ナツコかあさん」と呼べるようになった彼は、ここで自分がいる「この世界」を、自分の所在をようやく選択できたのである。

 

人は自分の生まれや環境を選ぶことはできない。好きで貧乏や冷たさに囲まれて生まれる人間はいないし、裕福さや優しさに囲まれたからといって幸せになれるとも限らない。けれど、精神の選択は物理的な選択よりもいくらか幅広いものだ。物理的には同じ選択だとしても、これが論理的だからとか消去法だとかで選ぶのと自分の決断として選ぶのではその意味は大きく変わってくる。重要なのは選択そのものの是非や良し悪しではなく、そこに主体性が伴われているかどうかなのだ。そう、例えば本作を「周囲の評判を見てから」鑑賞するのと「前評判を聞かずに」鑑賞するのは実のところ全く別の選択なのである*2。だから眞人が最後に帰るのも元の世界であって元の世界ではない。それは彼が自分で選んで選んだ居場所、自ら選択した「この世界」である。

 

世界はあまりに複雑で、個人にできることはあまりにちっぽけだ。けれどそれは私達の無力さを意味しないし、選択肢が限られていようと私達は自分の人生を生きることができる。本作は事前情報のない所在ない状況に私達を誘い込むことで、所在を見つけ直す旅へ私達を誘っているのだ。

 

感想

というわけでスタジオジブリの「君たちはどう生きるか君たちはどう生きるか」レビューでした。「もののけ姫」を最後にジブリ作品からはすっかり足が遠のいてまして、その後は「風立ちぬ」を2020年にになって見たくらい。

 

dwa.hatenablog.com

 

本作もなんだか説教臭いタイトルだなと敬遠していたのですが、全然広告しないスタイルに釣られて見に行った次第です。はい、脚注を入れたように主体的な選択をしたとは言えません。でも、曲がりなりにも情報を全て独り占めした状態で映画を鑑賞できたのは本当に稀有な経験で見に行ってよかったなと思います。タイトルの元となった小説は未読なのですが、主体性を問う内容だそうで映画の内容とも重なってるなとレビューを書く終盤になって気が付きました。

 

画面に宮崎駿という人間の描いてきたもの、描きたいものが溢れんばかりに満ちていましたが、それに囚われず見ていい作品だと思います。貴重な体験をありがとうございました。

 

 

*1:当然だが、宮崎駿という人はずっとそれをやってきたのだ

*2:一方で後者は、自分が「広告しない広告に釣られただけでは?」という疑念も持つべきだろう。セール品を見て買い物の予定を変えてしまうように、私達は自分で選んでいるつもりで選ばされていることがとても多い