【ネタバレ】孤独を奪還せよ――「コードギアス 奪還のロゼ」最終幕レビュー&感想

(C)SUNRISE/PROJECT G-ROZE Character Design (C)2006-2024 CLAMP・ST

帰りゆく「コードギアス 奪還のロゼ」。最終幕では「奪還」が果たされる。ロゼ達が最後に取り戻したものとは「孤独」である。

 

 

コードギアス 奪還のロゼ」最終幕

geass.jp

1.反転する世界

ノーランドの放った無人兵器・ロキが人々を殺戮して回り、世界は大混乱に陥る。果たしてロゼ達は事態を打開することができるのか……?

 

円環の「コードギアス 奪還のロゼ」。最終幕ではネオ・ブリタニア帝国の支配者ノーランド・フォン・リューネベルクが秘密裏に開発していた戦略兵器ロキが大量に投入され、文字通り世界中が危機に陥る。この「世界中」が比喩でないことは「反逆のルルーシュ」を始めとした他シリーズのキャラクターがロキを迎撃していることからも明らかで、スクリーンでの思わぬ再会に驚かされた視聴者は多いことだろう。ただ、彼らの登場はけしてただのファンサービスではない。

 

本作は当初、舞台を限定することで「反逆のルルーシュ」を再現したかのような作品として描かれていた。日本の北海道を占拠した勢力がネオ・ブリタニア帝国を名乗り、シトゥンペバリアによって守られているため黒の騎士団も手が出せないというシチュエーション、ルルーシュの女性版のような主人公サクヤ(ロゼ)にスザクの如き戦闘力を持つアッシュ等など……ホッカイドウブロックを世界から孤立させ孤独にすることで成立した、あたかももう一度「反逆のルルーシュ」を観ているかのような錯覚が本作の魅力の1つなのは間違いあるまい。ただ一方で当然ながら本作は「反逆のルルーシュ」をそのままなぞっているわけではなく、サクヤとアッシュの関係性を始め登場人物は次第次第にモデルとなったであろうキャラクターとは異なる存在感を確立してきた。その筆頭がネオ・ブリタニアの事実上の支配者ノーランドであり、ブリタニア帝国皇帝シャルル・ジ・ブリタニアのクローン=モデルとなったキャラクターの究極的同一体だった彼の目的は全人類の抹殺というシャルルとは似ても似つかないものであった。

 

モデルとそっくりだからこそ独自性が際立つ。一見「反逆のルルーシュ」の再現に過ぎない「奪還のロゼ」の正体はこの反転性にある。ならば当然、物語も舞台も全てが本作の中では反転する。ホッカイドウブロックに限定されていた戦いが世界中に広がるこの最終幕で起きているのはまさしく反転だ。他シリーズのキャラクターを「出さない」ことで舞台を成立させた本作は、ここに来て逆に映像化されていなかった作品からすらキャラクターを「出す」ことによってもそうした反転を表現しているのである。

 

2.孤独を奪還せよ

「奪還のロゼ」は反転性を内包した物語である。そして反転性の最たるものは何か?と言えば、それは「反逆のルルーシュ」に対する類似性と独自性が象徴するように「孤独」と「繋がり」の反転性であろう。

 

例えばネオ・ブリタニアの騎士アインベルク達はノーランドがブリタニアの再興を目指していると考えていたが、これは彼らの勝手な解釈でありロキの開発者スタンリーすらノーランドの真意を理解してはいなかった。ノーランドを頂点に強大な集団=繋がりを築いていたはずのネオ・ブリタニアの実態はこっけいなほど孤独であった。
またアインベルクの一人、ナラ・ヴォーンはネオ・ブリタニアの代表として一人黒の騎士団との交渉にあたっていたが、ノーランドが虐殺を企んでいるとは知らずまたそんな行為を許すはずもない彼女はロキの迎撃に回ることで黒の騎士団からも信頼を得る。後にネオ・ブリタニアの兵達は皇帝であるサクヤ(正確にはその影武者の春柳宮サクラ)の命でレジスタンスや黒の騎士団とも共闘してロキを迎撃するが、これらは孤立していたネオ・ブリタニアが世界との繋がりを取り戻した瞬間だったとも言える。

 

孤独と繋がりは正反対であるが故に反転し得る。この反転性を劇中でもっとも否定している者こそノーランドであり、つまりは本作のラスボスだ。彼は徹底して他者と話そうとしない。かつて黒の騎士団が和平交渉を行った時は使者を全員殺害したし、人類絶滅を企む理由についても高らかに演説したりはしない。自分を慕っていたアインベルクの一人、キャサリン・サバスラが強さの意味を知りたいと勝負を挑んできてもまるで相手にせず、乗機であるファウルバウトはKMFの機能を停止させるシトゥンペビームを主力武器としており戦いそのものすら拒絶している。本作の劇中では力による強さは寂しい強さだとサクラが語る場面があるが、ノーランドの強さとはまさに寂しい強さ=孤独の徹底にこそあると言えるだろう。ならば打ち勝つにはその孤独を破壊しなければならない。「孤独な敵を皆で打ち破る」のではなく、ノーランドが象徴する孤独の永続性をこそを破壊しなければならないのだ。だが、それはけしてハッピーエンドへの道のりではない。

 

単身戦いに臨むもノーランドに敗れたアッシュは、自分にもう一度ギアスをかけてくれとサクヤに頼む。それは呪いではなく誓いなのだと、責任を一緒に持って欲しいという彼の言葉には紛う方なきサクヤへの信頼があり、実際それは彼らがノーランドに立ち向かう大きな力となった。けれど信頼され相手から望まれた結果だとしても、ギアスが対象の意思や思い出、信念すら書き換えてしまう行為であることには何の変わりもありはしない。自分の騎士となるようギアスをかけられ「イエス、ユア・マジェスティ」と忠誠を誓うアッシュを見つめるサクヤが感じているのは、自分の一番の理解者との対等さを失ってしまった孤独である。また、新たな誓いと共にサクヤとアッシュがその能力をフル活用したことで彼らの合体KMF・Zi-オルテギアはノーランドのファウルバウトを遂に撃破する=最強という孤独から解放するが、勝利の先に待っていたのは歓びだけではなかった。アッシュは合体した状態では高空から地上までエネルギーが持たないと判断し、またプライドの高いノーランドが自爆するだろうと予測したことから自機だけを切り離し1人爆発の中に消えていってしまった。サクヤを大切に思い、そしてノーランドの思考を予測するという「繋がり」あればこそ彼はサクヤを「孤独」にしてしまったのだ*1

 

孤独の永続性を破壊すること。孤独と繋がりは正反対であるが故に反転し得ると示すこと。それは孤独から生まれる繋がりだけでなく、繋がりから生まれる孤独も示さなければ果たせない。すなわち孤独と繋がりは円環の中にあり、作戦を助けてくれた七煌星団を始め様々な繋がりを得たサクヤは最後に孤独を得なければ物語の帳尻が合わない。彼女が最後にかけたギアスは「ギアスを封じるために二度と声を発してはならない」という自分への命令――声という繋がりの喪失であった。だが、これは彼女が繋がりを失うだけの結末なのか? そうではあるまい。エピローグではサクヤは手話を使って友人とコミュニケーションしているし、彼女のそばにはアッシュがかつて拾ってきた猫達がいる。声や大切な人を失う孤独すらもまた、円環の中をたどれば繋がりに続いている。そしてこれは、「反逆のルルーシュ」に対する「奪還のロゼ」の自立宣言でもある。

 

最初に触れたように、「奪還のロゼ」は「反逆のルルーシュ」を強く想起させる作品であった。けれど「反逆のルルーシュ」のハッピーエンドが見たいなら「復活のルルーシュ」で十分であり、だから「奪還のロゼ」は同じ道をたどらない。ギアスという王の力が人を孤独にする結末によって本作は、「反逆のルルーシュ」とは違う独自性を、つまり「孤独」を獲得している。しかし孤独が孤独で終わらないのもまた本作が示しているところであり、「奪還のロゼ」を「反逆のルルーシュ」の焼き直しではなく対等な「コードギアス」シリーズの一員たらしめている=「繋がり」を得させているのはこの結末あればこそだ。その意味でもやはり、孤独と繋がりは円環の中にある。

 

シリーズが続く作品にとって、問題になるのはいつも独自性と類似性、すなわち孤独と繋がりの兼ね合いだ。「奪還のロゼ」とは、環の中に還すために孤独を奪う物語だったのである。

 

感想

以上、奪還のロゼの最終幕レビューでした。ビターな終わりを自分の中でどう消化するか?と考えをまとめていくとこんなレビューになった次第です。パンフレットでアッシュ役の古川さんが続編を作ってほしいと語っていますが同じ思いの人は多いはずで、その時点で「コードギアス」シリーズを続ける作品として大成功なんじゃないでしょうかね。ハルカが黒戸と実は親子で、一緒に母の墓参りをしつつ微妙に会話が噛み合わないあたりも孤独と繋がりの一種のようで微笑ましかったです。劇中通して3回行われた自爆攻撃は環の中に入れてほしくなかったのが正直なところではありますが。


コードギアス」によくよく向き合って作られた作品だったと思います。スタッフの皆様、お疲れ様でした。

 

 

<いいねやコメント等、反応いただけると励みになります>

*1:同時にアッシュが爆発の間際、サクヤの父である重護の言葉の意味を理解した=「繋がり」を感じたのはなんという皮肉だろう