「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」見てきました。TVシリーズ未視聴、キャラの名前も内容も知らないと予備知識ほぼゼロなんですが(予告編も見ず劇場へ行った)、「TV未視聴でも大丈夫」じゃなく「TV未視聴でもいいから見てくれ」みたいな声を見かけてなんだか首を突っ込みたくなりまして。
1.初視聴者の一人が一番気になったこと
劇場版を見ている最中、一番強く感じたのは「TVシリーズもこんなバランスなんだろうか?(いやさすがにここまでではないよな)」ということでした。序盤は会話があるも電車の中で突然バトル(舞台なので死も演出に過ぎないが)が始まり、後半になるとこの「レヴュー」とやらを主要人物が入れ代わり立ち代わり繰り返す。初体験の人間にあっけにとられるなと言う方が無理でしょう。
構図や暗喩といったものの読み解きが得手ではない僕には何も書きようないんじゃないかな……と思ったのですが、今回は「この異形の作劇でなければならない理由」を考える方に視点を切り替えてみました。
2.大場なな怖い
本作でもっとも謎めいて見えたキャラは誰か、と聞かれれば「大場なな」と答えます。なにせいきなり「皆殺しのレヴュー」なるものを始めて他のメンバーをなで斬りにしてしまう。怖い。
ただ、そんな彼女はその前に印象的な言葉を口にしています。「喋り過ぎ」と。この後作劇に占めるレヴューの比率がぐっと上がるわけで、「喋り過ぎ」とはその前までのシーンの描き方全てにかかっていると見るのは無茶な考えではないように思います。
喋り過ぎを問題とするなら、その言葉が発せられる電車内より前、進路相談でも少女達はよく喋っています。有名な劇団に入るとか家名を継ぐとか「わたし達の未来はキラキラしてます!」って感じで喋る。演劇なんて目指すからにはそれくらい迷わず道を決められるよねという納得もある一方、そんな夢の無かった僕のような人間はキラキラぶりに(香子の言葉を借りれば)「うっとい」印象も受けます。
でも、その後を見れば分かるように、少女達は本当は色々と屈託を抱えている。進路の話としてはこのままではいけない。淀みのない喋りぶりはむしろそれを隠すものだからこそ「喋り過ぎ」で、その仮面を剥がすための言葉ならぬ言葉として、進路相談として怒涛のレヴューは繰り広げられている。そういう風に捉えてみると、本作の作りは異形ではあるがとてもまっとうなもののように思えてきました。
3.砂漠を行く列車のように
後半の大半はレヴューで占められ、また少女達の思惑はてんでバラバラで10人揃うということはありません。ですが、順不同の話が立て続けになっているかと言えばそうではない。
ひかりvsまひると双葉vs香子だけ順番の記憶があやふやですが、レヴューは概ね「着飾った言葉の下のドロドロした感情の表面化」「救う役の入れ替わり(主役を食らう)」「他人の言葉じゃなく自分の言葉で」「終わりと思ってるけど終わらなくてもいい」などの要素があって、これらは本来主人公である華恋が救済の対象に位置づけられるのと奇妙に(しかし当然に)リンクしている。
TVシリーズ未視聴で具体的には知りませんが「スタァライト」して役目を終えた主人公は空っぽで、挿入される回想はそこに「主人公」ではない一人の人間の息吹を吹き込んでいきます。夢に向かってまっしぐらのようでも怖いことや不安もあって*1、それが華恋の「自分の言葉」に繋がっていく。
4.「レヴュー」の意義
こうした物語を普通の言葉、普通の作劇でやってはいけないのか?と言えば否なのでしょう。ニーチェやヘッセの言葉を引用した純那ほど直接的でなくとも人の言葉は簡単に他人の受け売りになってしまうもので、言葉だけならなんとでも言えてしまう。
けれど「レヴュー」であれば、身体性を全て含めた演劇という表現であれば個人のオリジナリティはぐっと高まる。そもそも、真贋虚実定かならぬ演劇をするためにはその内容を自分のもの(言葉)にしなければならない。
この作品のレヴューという名場面を思い出す時、言葉のやりとりだけを思い出す人はそうはいないでしょう。また少女達の「決め」となる名乗りも文字通り芝居がかっていて、だから私達はそれをそのまま自分の言葉として受け売りにすることなどとてもできない。「レヴュー」であるからこそ、彼女達の言葉は他の誰かの言葉ではなく彼女達の言葉たり得ている。
「レヴュー(revue、そしてreview)」とは演劇であると同時に見直しであり検証であり、既にあるものを作り直す(再生産する)呼び水となる行為です。そして進路相談とは畢竟、未来へと進む自分をレヴューする行為に他ならない。だから少女達の進路のレヴューは全く関係ないにも関わらず華恋という人間のレヴューにシームレスに繋がり、彼女の再生産をもって進路相談は終わる。当初教師に答えていた通りの進路に進んだ娘もいれば、それとは違う新たな道を選んだ娘もいる。どちらにせよ、それらが真摯な見直しの結果であるのは劇中のレヴューからも明らかです*2。
見直す対象すら失われたように思える終わったものであっても、いやだからこそ次のステージは全て「レヴュー」から始まる。終わりの後の話としての自覚を強く持つ作品として、それを高らかに祝福する内容であったように思いました。言葉だけで捉えられず、また言葉以外で納得させられてしまう120分、素晴らしかったです。
以上、「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」感想でした。なお本作のTVシリーズ、「In Jazz -What's Going On-」のテリー・ライスさんがオススメしていて僕も視聴候補には入れたんですが、最終的に視聴枠から削ってしまった過去がありまして。改めて「僕の目が節穴でした」と伏してお詫びして終わりたいと思います。