「闇鍋式アニメレビューの書き方」その1では共通点の見つけ方について触れました。ですが、共通点を見つけていくと必ず反例のようなものに当たると思います。作品のテーマを探すにはこの反例が欠かせません。その2では「推しが武道館いってくれたら死ぬ」9話を例にこれを取り扱ってみましょう。
1.推し武道9話に見る反例とその扱い
「推しが武道館いってくれたら死ぬ」は岡山の地下アイドルとそのドルオタの交流を描いた作品。主人公のえりぴよと彼女の推しアイドル・市井舞菜を中心として、アイドルとオタクの様々なありようがコミカルに切実に、そしてかけがえのないものとして描かれます。
舞菜の所属するChamJamは7人組の地下アイドルですが、リーダーにしてセンターの五十嵐れおは武道館ライブを目標に掲げて皆を率いています。この9話でも年の瀬のライブを来年に繋げいずれ武道館に行こうと皆を励ましますが、メンバーの1人、僕のイチオシであるマイペースな寺本優佳はそれほど乗り気ではありません。
優佳「うーん。優佳は別に武道館とか行かなくてもいいかなー」
お菓子を口にする様子も合わさりなんとも意識低げ。今回はライブや初詣など「皆で一緒に行動する」行動が共通して描かれる一方、その反例もあります。それは先程の優佳のように、「皆が同じように考えているわけではない」ということ。ChamJamの主な活動先のライブハウスが工事のせいで舞菜だけ誕生日イベントを祝えないなど、一緒に行動しているのに一緒ではないというケースが9話では続出する。じゃあChamJamやオタの皆は本当はバラバラなのか……というと、それもまた本作は否定します。
舞菜は優佳と2人で初詣に出かけますが、優佳がそこで願っていたのはなんと武道館行きでした。先日は別に行けなくてもいいと言っていた彼女がどうして?舞菜の疑問に、優佳はこう答えます。
舞菜「でも優佳ちゃん、別に武道館行けなくてもいいって……」優佳「言ったよ。優佳はアイドルやれるならどこでもいいもん」優佳「全然知らなかった人がいきなり優佳のこと好きって言いに来てくれるの超楽しい!みんなが優佳のこともっともっと好きになってくれるなら、どこだっていいんだ!」*1
優佳が武道館行きを重視していなかったのは別にいい加減だったからではなく、彼女は彼女なりにアイドルというものを、ファンを大切にしていたからでした。そして優佳は、年の瀬のライブの後の録音物販でファンの皆が武道館で歌う自分を見たいと異口同音に言ってくれたために武道館行きを目指すようになったことを明かします。更には、せっかくならセンターに立ちたいとまで思い始める。優佳はれおとは全く違ったルートでしかし、同じ目的地を目指す存在となっていました。
優佳「知ってる?センターって奇数じゃなきゃいけないんだよ」舞菜「知ってる」優佳「だから7人じゃなきゃね」
優佳の結論が示すのは、一緒の行動を取るには同じ意識である必要はないということです。アイドルとしての意識の高いれお(彼女は彼女で色々複雑だけど)と、マイペースで存在そのものがアイドル的な優佳のどちらも否定されていない。どちらのありようも肯定されたからこそ同じ場所を目指している。「皆で一緒に行動する」の共通点も、「皆が同じように考えているわけではない」の反例も統合されて「考えが違うからこそ同じ場所を目指せる」という結論――つまり僕が毎回探すところの"テーマ"が提示されているわけです。*2
これを読んで、物語類型のことかと連想される方も多いことでしょう。そう、これまで書いてきた「共通点」とはいわゆるテーゼ(正)。反例はアンチテーゼ(反)。そして結論はジンテーゼ(合)に相当します。ヘーゲルの弁証法(便宜上、以後単に弁証法と呼びます)を元にしたこの類型を土台に、次段では物語が持つテーマ性について触れていきます。
2.物語は弁証法でできている
正(テーゼ・共通点):皆で一緒に行動する反(アンチテーゼ・反例):でも皆が同じことを考えているわけじゃない合(ジンテーゼ・結論):皆が同じことを考えるからではなく、違うことを考えるからこそ一緒に行動できる
推し武道9話を整理するとこうなります。あるテーゼと対立するアンチテーゼがあり、両者が合わさってより高次のジンテーゼとなる。身近な例でもやってみましょう。
正:炒飯が食べたい反:焼きそばも食べたい、両方は食べ過ぎになってしまう合:焼きそばと炒飯を一緒にしたそばめしを食べよう
……という感じですね。ポイントはテーゼもアンチテーゼも全否定はされず、むしろ両方が統合されてジンテーゼになること。スポーツ漫画で言えば、ライバルに弱点を指摘された主人公がただ相手の言う通りにはせず、ライバルも思いもよらぬ方法で弱点を克服するような黄金パターンです。
「黄金パターンなのは分かるけど、それって主人公が成功する王道作品に限られるんじゃない?」と思うかもしれませんが、そうではありません。例えばコメディ漫画で0点を取るキャラの話だってこのパターンで考えることができます。
正:Aは頭が悪くてテストではいつも0点を取ってしまいます。反:Aは頑張って帰宅後毎日勉強しました。これで0点は免れるはず。合:頑張って勉強したAでしたが、勉強した部分はテストの出題範囲ではありませんでした。結局、今回も0点でした。ちゃんちゃん。
また、主人公が地獄落ちするホラーなどであればこのようなパターンがあります。
正:不慮の死を遂げたBは地獄に落ちることになりました。反:BにはCという大切な人がいて、死ぬわけにはいきませんでした。彼を地獄に落とすのは間違いではないでしょうか?合:実はBの愛情は歪んでいてCを傷つけるものでした。地獄行きも実はその報いだったのです。
重要なのは、ジンテーゼを獲得するのは主人公ではなく物語そのもの であることです。1話1話で見た時の挫折回などは説明に好適で、不穏な状況(正)に主人公が抗う(反)けれどもそれすら飲み込むロジック(合)によって主人公が挫折します。また全体で見ても、主人公は社会的にはアンチテーゼとしての役割しか持てず成功しないけれども、その生き様自体がジンテーゼを体現している場合などもある(前回取り上げた鉄血のオルフェンズなど)。
3.余談
見出し通りの余談ですが、僕は昔自分の遊ぶネットゲームの小説を書いていたことがあります。ネットゲームと言っても「ラグナロクオンライン」や「ファイナルファンタジーXI」のようにキャラクターを縦横無尽に動かすものではありません。どんな行動をするか投稿フォームで送信し、運営が決まった曜日にその結果がどうなったかを教えてくれる「定期更新型オンラインゲーム」というジャンル。戦略性もありますがプレイヤーの妄想を刺激するエンジンとしての役割も強く、僕はもっぱら後者の要素に惹かれて自分のキャラクターの長編小説を書いたりしていたわけです。
賞などを目指していたわけではありませんから、書き方の勉強などまともにやってはいません。プロットや箱書きという言葉も目にはしましたがどうも面倒で、先の物語の黄金パターンなども知らず青息吐息で書き上げました。小説の作法や出来不出来で言えば稚拙極まりないものです。……でも、今読み返してみるとちゃんと弁証法的な構造になっているんですよね。
仇討ちという定められた役割を遵守しようとする主人公(テーゼ)がいて、仇は定められた役割から逸脱しようとする存在(アンチテーゼ)で、最終的に主人公は定められた役割ではなく自ら選んだ役割をこそ守る(ジンテーゼ)。出来不出来は腕の問題ですが、構造には技量も知識も関係なかったわけです。物語を作ったら、自然とそういう構造になっていたのです。
「人は道の上を歩くのでない。人が歩いたところが道になるのだ」という名言もありますが*4、道なき道でも進んだ跡は自然と一貫性のある道(物語)になっているし、どんなに違う道も根本原則のようなものは共有している。人生や物語とはそういうものなんだと思います。
ですから僕は、作品の持つテーマを考えることを(元ネタの作中ですら否定されているそうですが)「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」という理由で否定する姿勢が好きではありません。先の小説で言えば「僕はそこまで考えてなかったが、書いたものはそうなっていた」のです。
監督にしろ脚本家にしろ話を考えて飯を食べてる人は僕などよりずっと上手くお話をコントロールできるし、考えていないものだってある種の必然に導かれて作られる。商業でもあるから全部きれいには行かないでしょうが、そのコントロールと必然はけして無視できないと思うのです。
さて、以上が僕がアニメレビューを書くにあたって行っている手法でした。ラストとなる次回はこの手法の利点難点、魅力といったものを書いてまとめとしたいと思います。
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— 闇鍋はにわ (@livewire891) May 2, 2021