足がかりと意味――「小林さんちのメイドラゴンS」5話レビュー&感想

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クール教信者双葉社/ドラゴン生活向上委員会
未知を知り既知を改める「小林さんちのメイドラゴンS」。5話ではトールとエルマの出会いが明かされる。二人はどうしてかつて行動を共にしたのか。イルルのバイトも含め、5話で描かれるのは誰かと誰かが一緒にいられる理由である。
 
 

小林さんちのメイドラゴンS 第5話「君と一緒に(まあ気が合えばですが)」

商店街で会うなりいがみ合うトールとエルマ。いつもの光景に呆れ気味の小林さんだが、出会った当初はそうではなかったと言う。犬猿の仲の二人の出会いは、遡ること遥か昔。あちらの世界でトールが一人旅をしている時のことだった……。
 

1.喧嘩の理由

5話冒頭がそうであるように会えば喧嘩しているトールとエルマだが、出会った当初は一緒に旅すらしていた。混沌勢と調和勢で敵対する勢力のはずの二人がどうして? 回想される過去は、その理由を丁寧に明かしてくれる。
 

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トール「お前は混沌勢の方が向いてるんじゃないのか?」

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エルマ「そういう君も、少し変わり者のようだ」

 

出会った際の二人は確かに混沌勢と調和勢という異なる勢力の一員であったが、何もかもが違っていたわけではない。彼女たちが互いに見つけたのはむしろ、共通点の方だった。
この時期のトールは混沌勢でありながら、問答無用に敵と戦うのではなく相手を見定める工程を挟んでいた。またエルマはエルマで、調和勢として熱心に活動しながらも同類とは違い人柱を求めていなかった。二人は確かに混沌勢と調和勢という異なる勢力だったが、その中のはぐれ者である点は「共通」している。そしてはぐれ者であることは同時に、自分が既に知っている敵対勢力の者とは「違う」証左でもある。そのどちらもが興味の対象となったからこそ、二人は行動を共にしたのだ。
 
私達は誰かと同じ部分がなければ行動を共にできない。足がかりがないからだ。しかし一方で、違う部分がなければ行動を共にする意味がない。新しく得るものがないからだ。自分の勢力に染まりきらず、かといって相手の勢力にも賛同しないトールとエルマは、互いが互いにとって行動を共にでき、そしてそこに意味を見出だせる相手だったと言える。
 

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エルマ「だけどしょうがないじゃないか。彼らが持ってくる料理がとても美味しかったのだから!」
 
しかしそんな状況は当然、永続するものではない。いや、永続するというのはそれ自体が「違うものがない」状態になってしまう。だから二人は数十年を経て決裂し、今度は会えば喧嘩する仲になった。
トールからすれば個人ではなく人間の枠組みに飲み込まれて見えるエルマはもはやただの調和勢と変わりなかったし、エルマにすれば食への欲求の否定は自分という個の否定だから良くないと分かっていても人間の枠組みを止められなかった。
 

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二人はぶつからざるを得なかったし、むしろぶつからなければこれまでの二人の関係こそが嘘になってしまう。殺し合いにまでなった二人の諍いは、二人が本当に仲良くなった証明であり、だからこそ今の二人は「喧嘩するほど仲がいい」のである。
 
 

2.「これまでと同じ」も「これまでと違う」も

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同じ部分がなければ行動を共にできず、違う部分がなければ共にする意味がない。トールとエルマのそれはドラゴンらしくスケールが大きいが、だからと言って私達に縁遠いものではないことを後半のイルルのバイト話は教えてくれる。
 

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イルルはずいぶん変わった。町を破壊しようとした1話と小林さんちでぐうたらする今の様子はそれだけなら別人と見紛うほどで、しかしこれまでを見てきた私達はそれが間違いなく同一人物であることを知っている。「これまでと同じ」だし「これまでと違う」からそこに安堵や感激があった。
しかしそうやって遊ぶだけの様子は長命のドラゴンのスパンではともかく人間の、いや1クールアニメのスパンで考えると固定的で変化に乏しい。「違うものがない」状態になってしまう。だから今回イルルはトールに怒られ、働くという変化を模索することになる。
 

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イルル「肉や魚は貪りたくなるし」
トール「さすが同胞混沌勢」
イルル「花は踏みにじりたくなるし」
トール「破壊こそ我らのさだめ!」
イルル「本は焼きたくなる」
トール「混沌勢の鑑!」

 

労働と遊びは言うまでもなく別物だ。本能や感情だけに任せていては労働は成り立たないし、逆に義務感や規律だけの行動は遊びとは言えない。イルルが肉屋や書店での労働をやめておくのはそれが自分の本能を刺激し、労働たり得なくなってしまうからである。
しかし別物である一方、全く区別された労働と遊びはそれはそれでつまらないものだ。遊び心ややりがいの余地のない労働は退屈だし、一切の規律がなければ遊びはそれ自体が成立しない。
 

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溶け合っても駄目、全く別でも駄目。対極的なはずの労働と遊びはしかしその点でよく似通っていて、だからイルルもまたその中間にこそ自分の仕事を見つける。
子供と遊ぶのが好きだが労働では遊べない。それを一緒にはできない。けれど子供が楽しそうにしている場所で働けたら、労働と遊びは彼女の中で全く別にはならない。子供が主要な客層である駄菓子屋で働くことは確かに、イルルにとって遊びから適度な距離を保ち労働に寄り過ぎもしない天職なのであろう。そしてそういう別でもなければ一緒でもない状態は、必ずしもイルルと同じ形でなくとも得られる。小林さんがなんとなくで働き始めてからやりがいを見つけたように。イルルのバイト先の老女の孫のタケトが、イルルのことを気に入りつつも自分の常識との違いに驚くように。
 

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そういう無数のありようを見せて、この5話は再びかつてのトールとエルマに視点を戻して終わる。二人が話すのは、人間が星に願いを祈ることとエルマが祈った内容。
 

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トール「どうせ『美味いものがたくさん食べたい』だろ」
エルマ「分かってるじゃないか」

 

それなり付き合いの長くなったトールは、エルマの願いは「美味いものがたくさん食べたい」であろうと推測する。それは間違っていなくて、だからエルマは嬉しい。だが、それが全てではない。
 

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エルマ「ただし、それだけじゃない」
トール「なんだ?」
エルマ「お前の分も、美味いものは頼んでおいてやる」
トール「……好きにしろ」

 

エルマは自分が美味いものを食べるだけでなく、トールも美味いものを食べられるようにとも願っていた。それはトールの推測と違っていて、だからトールは嬉しい。共通点も差異も、ここではどちらも喜びを生み出している。
 

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同じ部分がなければ行動を共にできず、違う部分がなければ共にする意味がない。繊細なそのバランスの中にこそ、私達が誰かと一緒にいられる理由と喜びはあるのだ。

 
 

感想

というわけでメイドラゴン2期5話のレビューでした。今回一番ネックだったのはエルマが自分の神格化を止められなかった理由の消化でした。
言い分だけだとトールの方がまっとうでエルマがしょうもなくも見えるのですが、この喧嘩はあくまで対等に描かれている。じゃあエルマの言い分の正しさってどこにあるんだろう?と悩む内に、食の否定もまたエルマ個人の否定なんだという結論に至りました。
卑近な例で言えば、社会の構築を優先しては美味しい食事を諦めるのは彼女にとって「仕事のために趣味をやめる」のと同じことなのだと思います。私生活を犠牲にして働くのが立派なんだという価値観はまだまだ根強いですが、やっぱりそれは非人間的なことなのでしょう*1
時間や種族など、スケールの使い方の素敵な話だったと思います。次回も楽しみ。
 
 

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*1:一方で、仕事を遊びの代替として没頭するのはそういう環境だからこその防衛反応なのかもしれません