不在と遍在のヒーロー達――「ドラゴンボール超 スーパーヒーロー」レビュー&感想

©バード・スタジオ/集英社 ©「2022 ドラゴンボール超」製作委員会
前作から3年ぶりの新作映画となった「ドラゴンボール超 スーパーヒーロー」。悟飯とピッコロの二人がメインとなる本作は、ヒーローの不在と遍在を描いた物語だ。
 
 

1.二重の不在

懐かしのレッドリボン軍の生み出した新たな人造人間との戦いが繰り広げられる本作だが、特徴として挙げられるのは悟空とベジータが戦うわけではない点だ。彼らは前作で巡り会った破壊神ビルスの星で修行中で、その従者であるウイスとも上手く連絡がつかず彼らは今回の戦いには参加できない。敵の人造人間ガンマ1号・2号はピッコロ以上の強さを誇り、更にはかつて悟空達を苦しめたセルを上回る強さのセルマックスすら控えているのに由々しき事態だ。この作品にはいつものドラゴンボールの「ヒーロー」がいない。……だが、ヒーロー不在はこれに限った話ではない。
 
本作の人造人間は、これまでのようにレッドリボン軍の研究者Dr.ゲロによって生み出されたわけではなくその孫Dr.ヘドによるものだ。彼は自分をいじめようとした人間を発明品で暗殺するためらいのなさはあるが、別に悟空達への復讐に燃えていたり世界征服を望んでいるわけではなくむしろスーパーヒーローマニアだったりする。レッドリボン軍に協力したのも魅力的な研究費用に加え、悟空達が地球を侵略せんとする極悪宇宙人だと偽りを聞かされたところが大きい。実際、悟空達の正体(?)を聞かされたヘドの反応は「ヒーローの出番だな」というものであった。
 
ヘドの認識を象徴するように、彼が作り上げた人造人間ガンマ1号・2号は祖父であるゲロのものとは全く異なるデザインをしている。ベルトのバックルに光線銃を装着し、マントをたなびかせた服装は故・石ノ森章太郎の「サイボーグ009」に酷似しており*1、つまりどうしようもなく「ヒーロー」チックだ。また彼ら自身も自分は正義のために戦っていると信じており、何の因果か初陣の相手はかつて世界征服を企んだピッコロ「大魔王」と来ている。しかしレッドリボン軍の彼らの行いが正しくないのは言うまでもなく、ここにもまたヒーローの不在がある。
 
悟空達を物語に参加させないこと、そして敵の個性。この作品は2つの要素によってヒーローの不在を描いている。そして本作は、悟空に代わり息子である悟飯が敵を倒したセル編のラストと異なり、別の一人をヒーローの座に据える形でこの問題を解決してはいない。不在に対抗したのは、代役ではなく遍在・・であった。
 
 

2.不在と遍在のヒーロー達

ヒーローの不在に対抗するのは遍在。このことを考える上でヒントとなるのは悟飯の娘、パンの存在だ。TVシリーズドラゴンボール超」の頃は生まれたばかりだった彼女ももう3歳、幼児保育を受けるほどに成長している。となれば彼女の送り迎えが必要になるわけだが、世の親同様に悟飯達の生活もなかなか忙しい。学者となった悟飯は研究に追われる日々を送っているし、妻であるビーデルも武術教室を開くなどしている。劇中では代わりに迎えに行って欲しいとピッコロが頼まれているが、彼家にお礼のぬいぐるみがいくつも置かれていることから分かるように、これはけして珍しいことではないのだろう。パンもまたピッコロによく懐いている。悟飯達にとってピッコロは、自分達の生活を助けてくれる小さな「ヒーロー」なのだと言える。
 
「ヒーロー」というと世界を救うような偉大で強大な存在をイメージされることが多いが、ピッコロの例から分かるようにけして大仰な存在である必要はない。戦闘力という点ではすっかり戦いについていけなくなった悟空の親友クリリンだって本作ではブルマや妻である18号を助けたり敵の隙を作っているし、悟飯の弟悟天とベジータの息子トランクスの合体技「フュージョン」で生まれるゴテンクスは失敗した時はお荷物になるのがお約束だったが本作ではセルマックスの弱点である頭にダメージを与える活躍を見せている。敵にとどめを刺したのではなくとも、それらの場面で見れば彼らは間違いなくヒーローだろう。当初は敵役だったガンマ1号や2号にしても、悟飯達に抱いていた認識が誤りだったと知った後は共に戦いピッコロからヒーローと讃えられている。
 
圧倒的に強くなくても純粋な善でなくとも、人は些細なことでヒーローになることができる。ちょっとした人助けでも、ほんの少しすごいと思ってもらえただけでも、その瞬間のその人は間違いなくヒーローだ。セルマックスを最終的に倒したのは悟飯の一撃であったが、その技が父譲りのかめはめ波ではなく魔貫光殺砲だったのは使い手にして師であるピッコロこそが悟飯にとってのヒーローだからだろう。
 
人は大人になるにつれ、子供の頃に憧れたようなヒーローが存在しないことを知っていく。誰にも力不足や至らなさはあって、どんな時にも完璧でいることなど誰にもできはしない。だがそれは逆に、一時だけなら誰にだってヒーローになれる可能性があるということだ。間違いを重ねようとも力不足でも、ほんの少しなら人は誰かや何かを助けたり道を指し示すことができる。人が生きた証などというのは、それだけあれば十分なのではないか。
 
絶対的なヒーローの不在は、代役ではなく小さなヒーローの遍在によってこそ救われる。悟空になれなくとも、私たちはきっと一人ひとりがスーパーヒーローなのだ。
 
 

感想

というわけで映画「ドラゴンボール超 スーパーヒーロー」レビューでした。フルCGでの製作や前作のブロリーのその後も描かれるなど、「ドラゴンボール」の世界は終わらず続いているんだというのが感じられる映画だったように思います。Dr.ゲロではなく孫の作品となったことで人造人間に新しいありようが与えられているのも新鮮でした。それだけに2号の方は退場になってしまったのが残念ですが……あと、悟飯もピッコロも共に「変身」するのもヒーローぽかったなあなどと。楽しい作品でした。
 
 

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*1:パンフレット記載の鳥山明のメッセージによれば「まさに僕が子供の頃にあこがれたヒーロー像をイメージしたもの」