完全さは垣間見えるもの――「すずめの戸締まり」レビュー&感想

2022/11/11に公開された新海誠監督の映画「すずめの戸締まり」は、九州から東北までの少女の旅を描いたロードムービーだ。だが、少女が旅している先はもう一つある。旅の先で彼女が見つけたものは、いったいなんだろう?
 

 

1.完全な男

君の名は。」「天気の子」で全国的な人気を獲得した新海誠監督の新作「すずめの戸締まり」。特徴の一つとして挙げられるのは前二作と異なり、主人公が少年ではなく岩戸鈴芽という少女である点だろう。もちろんボーイ・ミーツ・ガールとしての要素はあって彼女は宗像草太という青年に恋をするが、物語としては恋愛の成就に比重が置かれているわけではない。そしてそのことは草太をこれまでの少年とは違った存在に仕立て上げてもいる。端的に言えば、草太は「完全な男性」なのだ。
 
「閉じ師」という特殊な職業でありまたモノローグで内心を語ったりしないこともあり、草太はどこにでもいる青年・少年からはかけ離れている。高身長にがっしりした体つき、人相学でもモテの象徴であるらしい左目の下にほくろのある美形で、性格も理知的で誠実そのもの……男女問わず100人に聞けば99人はイケメンと答えるであろう彼のありようはケチのつけようがなく、故に「完全な男性」である。鈴芽が一目惚れ同然になるのも無理もない話だが、本作はいかにもヒーロー的な草太をヒーローとして振る舞わせてくれない。鈴芽が誤って抜いてしまった地震を止める要石、その变化した白猫ダイジンによって彼は姿を変えられてしまうのだ。呪いをかけられた変化したのはなんと、鈴芽の母の形見である子供用の椅子。それも一本足の欠けた「不完全」な椅子であった。
 
完全な男性から不完全な椅子へ。こう書くと草太の変化は皮肉めいていて理不尽だが、動く椅子となった彼の描写に悲惨さは少ない。背もたれの彫り込みが目のように見えることもあってその姿は無生物的ではないし、3本足の椅子が喋ったり動いたりする姿はそれだけで表情豊かにしてコミカルだ。おまけに寝相の悪さがバレたり道中で子供に遊ばれたりもして、草太は不完全な椅子になったことで「完全な男性」から解放されている*1
先に私は草太をケチのつけようがないと評したが、ケチのつけようがないというのは言い換えればそれ自体がケチのつくことだ。身体精神全て完璧な人間が正しいことを言っても何の驚きもないし、はっきり言ってしまえばそんな人間を見るのはつまらない。彼は足の欠けた椅子になることで、むしろ唯一欠けていた人間味を獲得していると言える。
 
 

2.心のひずみ

完全なものは美しいが、それは時につまらないしそうあろうとすることが負担にもなる。これは別に草太に限ったことではない。
 
例えば鈴芽は12年前の災害で母を失い今は叔母である環に育てられているが、二人は別に仲が悪いといった様子は見受けられない。序盤の朝食の様子はほとんど完全に親子に見えるほどだ。だが、この二人が完全な親子であるはずはない。母を失い姉を失った二人はその時点で足のかけた椅子のように不完全で、この見せかけの完全さは互いの気遣いの上でかろうじて成り立っているに過ぎない。鈴芽は自分が環の大切な時間を奪ってしまったのではと考えているし、同時に愛情たっぷりに作られた弁当に"重さ"を感じていたりする。見た目上は完全で平静な二人の関係は、地下にひずみを抱えた不安定なものなのだ。
 
ひずみは、いよいよ耐えきれなくなるその一瞬まではなかなか目に見えない。破綻するその瞬間まではいくらでも相対化できるし、なんなら嗤い飛ばすことだってできる。けれど存在しないかのように扱われても本当に消えるわけではないから、いずれひずみは目に見える形になって人の命すら奪う。旅の中で鈴芽は地震のエネルギーによるひずみの象徴"ミミズ"を鎮めようとするが、彼女が向き合わなければならないひずみは自身と環との関係にもあった。
 
物語の後半、傍目には家出としか見えない理由で九州を飛び出し事情も上手く説明できない鈴芽に環は業を煮やし、彼女に対する不満をぶちまけてしまう。親を亡くした子を引き取ったから家に人も呼べない、"こぶつき"だから婚活も上手くいかない、姉の金があってもこんなのは割に合わない、私の人生を返してほしい――鈴芽もまた、環に感じていた重さや来たくて来たわけではないことも口にしてしまう。これらはつまり、抑えきれなくなったひずみが表に出た結果だ。完全になど到底なれない二人が無理に装った完全さは、二人の間の地震となって姿を現してしまったのだった。
 
 

3.完全さは垣間見えるもの

人は完全になろうとしてもなれないし、完全さは時にそれ自体が有害でもある。ならばどうしたらいいのか? 答えは、草太が変化した椅子が実は最初から示している。そう、そもそも私達がふだん目にしている完全さとは表面的なものに過ぎないのだ。
 
先に触れた鈴芽と環の口喧嘩、二人が口にしたことは共に本心ではあった。だが彼女達は、だからといって自分達の気持ちはそれが全てではないことを確認する。あの時口にした言葉が「完全」ではないことを確認する。二人が互いに対して家族としての愛情を感じていたのも確かな事実で、むしろわだかまりによる不完全さこそが愛情が証明ですらあった。現実でもただただ愛しいだけの関係というのは稀だし、程度によるがそれ以外の感情の存在は、心の不完全さはむしろ愛情を掻き立てもするものだ。
 
また、幼少期の経験から命の儚さを知っていた鈴芽は当初、死ぬことを恐れていなかった。見ようによってはこれはヒーローに必要な素質、完全さとして捉えることも可能だろう。だが椅子に姿を変えられた草太が更に要石に変わりもう会えなくなってしまった時、彼女は彼のいない世界に恐怖を覚えている自分を認識する。怖いからこそ、それを避けるためなら自分の死も怖くないと思い直す。鈴芽がこの時得た勇気は完全な恐怖の欠落ではなく、むしろ恐怖を感じるからこそ別の何かを恐れないという不完全さに起因したものだった。
 
表面的な完全さはむしろ負担を生むが、逆に表面的な不完全さには完全さが潜んでいる。環や鈴芽のケースに加えて言うなら、「鈴芽に会えたから」要石になることを受け入れたように見えた草太が実は「鈴芽に会えたのに」とその運命を嘆いていたり、彼女達の尽力で人の姿を取り戻した彼が死というものの近さを認識しつつも一分一秒でも生きていたい思いを吐露する場面なども不完全さがむしろ人間・草太を完全にしている例に挙げられるだろう。
 
どれほど理知的であろうと研鑽を積もうと、人はしょせん不完全な生き物だ。その不完全さを繋ぎ合わせてもパッチワークに過ぎず、100%の完全さにはならない。劇中登場するポンコツ中古車は衝撃で故障が直ったかと思えば今度はドアが壊れるし、旅の中で度々服や髪型を変えていた鈴芽は再起にあたって当初着ていた制服と髪型に衣装を戻すが、それでもカバンは道中で知り合った人間にもらったものだったり、なくした靴の代わりに草太のものを借りていたりする*2。だが、それが彼女の再起であることを疑う者もいないはずだ。私達はこの時、不完全さにこそ完全さを見ている。
 
完全に思えるものは本当は完全ではなく、不完全に思えるものにこそ完全がある。それを証明するように、物語は終盤、鈴芽の椅子の足が一本欠けている理由を明かす。彼女が持っていた椅子はなんと、ミミズが潜む常世――全ての時間が共にある世界――に幼い自分が迷い込んだ際、高校生の今の自分が渡したものだった。椅子は足が欠けて不完全になっていたのではなく、足の欠けた状態こそが完全だった・・・・・・・・・・・・・・・のだ。それはつまり、完全というものの不完全さを思い知った鈴芽が本当の意味での完全さを垣間見た瞬間であった。どうしようもなく不完全な鈴芽はしかし、だからこそ既に完全だったのだ。母の死を理解できないのではなく受け入れられず迷子になっていたところを未来の自分に助けられたあの時、とっくに彼女は完全さを見つけていた。
今回の経験をするまでその過去を忘れていたことから分かるように、鈴芽は完全さをあらわにしたのではない。彼女はあくまでそれを一瞬、垣間見たに過ぎない。だが、そこにこそ意味はある。
 
劇中、地震を防ぐ閉じ師の仕事が重大なのに知られていないことを不満がる鈴芽に草太はこう返した。「大事な仕事は見えない方がいい」と。彼の言葉は、閉じ師の職務に限らず世の中の大事なこと――気恥ずかしさを捨てて言うなら全ての"真理"に当てはまることであろう。どんな崇高な理念も哲学も、衆目に触れればあっという間に変質し蕩尽されてしまう*3。ネタにされた時点で神秘は失われ廃墟のような形骸だけになり、いつしかその形骸が本物に成り代わってしまう。真理とは本来、そういうものではないはずだ。感情だとか理性だとか経験だとか、全人格的なものを抱えて挑んでようやく一瞬見ることができる、そういう稀有なところにこそ真理は隠れている。だから鈴芽もまた、常世を垣間見たことはあってもそこに定住したりはしない。遠足がそうであるように帰るまでが旅であるし、わずかな時間の邂逅だからこそ旅は胸に刻まれるものだ。
 
本作を九州から東北までの鈴芽の旅を描いた物語である。だが環との関係から見えるようにこれは物理的な話に過ぎず、それだけで彼女の旅を表すことはできない。鈴芽の旅の行きのゴールは常世であり自分の心であり、そこで垣間見る完全さの真理である。
完全さとは不完全さにこそ宿るものだと知った以上、不完全な現し世に戻ろうとも完全さは彼女の隣にある。垣間見たその経験こそ、行きて帰りし物語で彼女が得た最大の土産なのだ。
 
 

感想

というわけにすずめの戸締まりのレビューでした。新海誠監督の作品はアニメ評論家の藤津亮太さんの講義前に「天気の子」を1回見たくらいの経験しかなく、震災について語る言葉も持たないのでどうなるかな?と思いましたが、そんな私なりにまとめるとこんなレビューになった次第です。最近は日曜は水星の魔女のレビューに向けて休憩と準備をして過ごしているのですが、狙ったように今週は本放送がお休み。ある意味ラッキーでした。
 
入場特典本で監督は、この映画を見ても震災を連想しない人が1/3から半分くらいいるのではと想定していましたが、そういう人にも届く作品だったと思います。素敵な作品をありがとうございました。
 
 

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*1:後に登場する友人・芹澤の語る草太像もこれに寄与している

*2:ついでに言えば襟も当初よりちょっと開いている

*3:現代で言えば、ドラマやアニメの名台詞を私達はすぐネットミーム化してしまう